「社会的役割」と「個性」を分別して、「社会的役割」を減らすというイバラの道を行く。

「本当に疲れている時は、知り合いの店じゃなくて、全く知らない店に飲みに行くんです。」
ある飲み屋の店主の話だ。
何かの話の流れで、(自分の)店終わりに飲みに行く店はどこなのかを話してくれた。
知り合いの店に行くとどこか仕事モード(お仕事仲間という関係性の維持をしようという感覚なのか?)になってしまうから、それを避けるようになるらしい。
特に珍しい話だとは思わなかったが、このことで私の頭に、とあるアイドルが思い浮かんだ。
休みの日に家にこもって外に出ることはない、というアイドルだ。
アイドルが外に出たら、常に顔バレのリスクがあり、そうなると常にアイドルたる笑顔でもってアイドルらしい行動をしなければならない。
アイドルを演じなければならないのだから、家にこもりたいのもわかるような気がする。
でも、見られること、人気者であることを目指してアイドルになったはずの人が、見られることに疲れる、ということは何とも興味深いことだと思う。
それはともかく、このアイドルと先ほどの店主ではもちろん仕事は異なるが、それぞれが外で「仕事の役割」をしなければならなくなっていて、休みたい時はその「仕事の役割」が苦痛になる。
そういう意味で、同じ類のものとして私の頭に浮かんだのだった。
私はこの、「役割」が苦痛である、という当然のようなことになぜか納得いかず、引っかかった。
それは、何となくそれに満足しているかに見える社会に対する反抗的な思いでもあり、苦痛ならば何でも取り除きたい、という子供のような思いでもあるように感じた。
中年の危機、「役割」がシンドくなる!?
心理学者のユングは、人間が社会的に演じる仮面のような役割のことをペルソナと呼んだ。
親の役割、職場での役割、旧友の中での役割・・・人は様々な役割を演じ分けている。
この「社会的役割」を誰もが疑うことはない。
それを担うのが大人としての責任なのだと・・・。
そして、弱っていて演じる行為が苦痛な時は、仕事と仕事外、そのONOFFの切り替えよう、という対処方法がまた常識になっている。
しかし今思い返すと私には、その対処方法ではどうにもならないレベルまで行ってしまった経験があったように思う。汗。
後からこの言葉を知ったのだが、これがいわゆる「中年の危機」というものだったのかもしれない。
「中年の危機」については、老化によって若い頃ほどハードに働けなる、また、会社にポストがなくなって行き場を失う、などといった現象面の説明があったりするのだが、それよりも本質的な説明だと思う賢人の言葉があったので、紹介する。
本当の人生は40歳から始まる。
人生の前半で排除してきた自己を見つめなおし、より新たな自己として、それを受け入れることである。
〜カール・ユング(1875〜1961年)
社会的条件づけは、あなたを社会の複製にします。あなたは特定の型にはめられ、特定の方法で考え、感じ、行動するように訓練されます。この条件づけの中では、真の個性は窒息してしまいます。
真の個性は、条件づけられた反応のパターンからの解放です。この自由の中で、創造的な知性が機能し始め、真の個性が花開くのです。
〜クリシュナムルティ(1895〜1986年)
人生の前半は、仕事をはじめ社会との関わりがこうあるべきである、という型に入れられ、本来の自分を排除した上で「社会的役割」なるものを演じて生きざるを得ないのが社会のしくみである。
そして、演じる「社会的役割」では、本来の自分ではないから、空虚のまま満たされることはない。
今は、当たり前のことのように感じられる。
「社会的役割」だけでは、個性を出せないままで終わってしまう、ものだとすると「社会的役割」というものは何と罪深いものだろうか。
空海という賢人もまた、幸せは人生の後半に訪れる、本当の意味で満たされるから(当然考えようによるのだが)、と言っていてこの2人の言葉と一致しているように感じる。
これらの賢人の言葉を知った後は、「中年の危機」というものはどこか満たされないことによってそれまでの型から外れたくなる衝動と今ある実生活の維持との葛藤、あるいはアイデンティティの揺らぎ、などと表現する方が私にはしっくりくるようになった。
青年の時分は「社会的役割」は新鮮でそれを担うことが大人になること、という憧れもあっただろうが、中年はそれまで、「社会的役割」を演じ続けてきたことによって、その満たされなさがたまりにたまっているのだ。
少なくても私は・・・笑。
・・・・・・
この「社会的役割」というものが厄介なのは、明確に強制されるものだけではない、ということだ。
「社会的役割」を自らの目標である、として自発的なものと捉えてしまうことは非常に多く起こることだ。
その場合、外から強制されている認識が全くなく、人様のために進む。
前向きで責任感がある人ほどそうなる。
私は、「社会的役割」というものと自分の「個性」が上手く融合できるものだ、と思っていたので、葛藤が止まなかったのだ。
「個性」が先でそれが後から「社会的役割」になっていたという羨ましい人もたまにいるが、今になってようやくそんな人は少なくて一般的には融合が難しいということがわかったように思う。
中年にかかわらず、だいたいの人間は個性に融合できない「社会的役割」が入り込んでしまってそれを個性だと見誤ることで、身動きが取れなくなる存在、とでも言った方がいいのかもしれない。
ふざけたいアイドル、人気者になりたくないミュージシャン
では、人生の後半に自らの本当の個性によって満たされるには、どうすればいいのか?
まずはもっとも重要なのは、「社会的役割」と「個性」を分別することだ。
それができさえすれば、「社会的役割」を減らして「個性」を増やして行くことは覚悟さえできれば可能になると思う。
自分がやりたいと思うことは、「社会的役割」から来ているのか、「個性」から来ているのか?
言葉を変えると、頭で考えたものなのか?魂が求めているものなのか?
この分別のヒントが次に紹介する2人から得られた。
1人目は、とあるミュージシャンの方。
ピアノやら弦楽器やら演奏できる楽器が豊富にあって、長年音楽に携わっている人だ。
聞くところによると、目立ちたい、とか売れたい、と思ったことがない、それは、若い頃からそうだったらしい。
ただただ、音楽を作り奏でるのが好きな人だ。
私の学生の頃の音楽=バンドと言えばモテるためにあったのだが、そんなことがそもそも微塵もない、音楽が個性である人とはこういう人のことなのだと思った。
私には、ミュージシャンというのは音楽の才能はもちろんだが、それに、周りからモテてること、人気者になること、大金を手にしたい、と思うことが加わった人がなっているものだ、という嫉妬に満ちた勝手なイメージがあった。
だが、後から加えたものは、「社会的役割」であり頭で考えたこと。
それを得られたとしても満たされることはない。
2人目は、また別のアイドル。
そのアイドルはデビュー当時からバラエティ番組での大喜利が上手くて、大いに笑かしてもらえたものだ。
ところが、当時本人はそれが本望なわけではなくて、面白さというよりも、可愛いくてカッコいい正統派アイドルを目指したいと言っていた。
まあよく聞くことだ。
そこから約5年経った最近、そのアイドルはこんなことを言っていた。
「私の中にどこかいつもふざけたい、という思いがあるから、面白いのもそれはそれでありかなあ、って思うようになったんです。」
大喜利が上手いと言われるし、周りが面白がってくれる、だからやっている。
これでは「社会的役割」を演じているに過ぎないわけで・・・。
「(自分の中に)ふざけたい思いがある」
ならばそれは「個性」であるから、どこか安心したような気持ちになった。
このアイドルは、若くして個性がわかってる。
そして、その思いと上手にできることが一致しているから強い。
このふだけたいという思いは、一生このアイドルを満たして支えて行くんだろう、そう感じた。
・・・・・・
こうしてみると個性を見出すとは、時にその人が上手くできることに背くことでもある。
何かについて上手くできる、となると周りから持ち上げられたりして、それにすぐ携わることになる。
ある意味、安易に「社会的役割」はできるものだが、本人の最終的な満足とはならない。
個性とは時に資本主義上の合理性に背いている。
「それでは食っていけない!」
よく聞く言葉だ。
お金になる、ならないとは全く関係なく個性が存在している。
むしろ、その合理性に背いてでもやらずにはいられないということにこそ自分の個性があるのかもしれない。
「社会的役割」を減らして、「個性」を増やす、という道。
この道は、時に上手くできることを拒絶して、時に稼ぐことを拒絶する、何ともイバラの道であるように見えてくる。
周りからほとんど理解されることなく、何なら「社会的役割」を担わない自分勝手で卑怯な奴だと揶揄される可能性が高い。
それでも、それでもだ!
「社会的役割」を意図せずとも、個性を活かして生きられれば、その結果人様の何らかのお役に立てるはずだ。
そんな個性を誰しもがもらってきている、ということを人生の後半では信じて進みたいと思う。
周りのお役に立てるものが、ホンのわずかだとしても・・・。
イバラの道を行く
さて、私自身の個性とは何なのだろうか?
ここまでのことを書いていながら、未だにわかっていない。汗。
こうやってブログに書いているようなことを、ああでもない、こうでもない、とただ考えていることは確かに楽しい。
もしこれが個性だとするならば、先ほどのとおりにお役に立てる程度がホンのわずかだ、と念を押しておかなければなるまい。
あるいは今回のような「社会的役割」というものの苦痛に対しての、反抗心、素朴な疑問というものが、個性の種なのかもしれない。
そう言えば最近の私は、時々敢えて毒づいた言葉を探してみたり、天邪鬼なことを言ってみたりしているのだが・・・。
なぜそんなことをしたいんだろうか?
・・・それは周りに対してではなくて、「社会的役割」を長らく演じてきた自分に対して噛みついているんではないだろうか・・・。
どうもそんな気がしてきた・・・。
この噛みつきはとんでもなく遅れてきた反抗期なのかもしれない。
だとしたら、オッサンの今更の反抗期を周りは見てられないだろう。
自分で書いておいて情けないのだが、このことを私は自戒を込めて書き留めずにはいられない。汗。
イバラの道は続く!
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
引き続き、自分のやりたいことが、どこから湧き出たものか、自分を観察して行きたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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