「(物事を)新しくみる」を実践して社会の型から抜け出す。

車検の時期がやってきて、作業中の数時間だけディーラーに代車を借りることになった。
特に代車を使う用事はなかったのだが、「代車ご用意しますね?」の確認に、無意識に「はい」と答えていた。
昔、「イエスマン」という映画があったが、何でも「はい」と受け入れるに越したことはない。
今回もそのおかげか、面白い発見があった。
面白い発見とは言ってもいつもの私のことだから、ホンの些細なことだ。
それでも、私が最近気に入っている言葉、「(物事を)新しくみる」というのを実践するには、良い材料だった。
「新しくみる」
本来の意味は、材料がどうとかではなくて、すべての物事を「新しくみる」ことが大切だと言っているわけなのだが、代車の件はどちらかというと私にとってアンラッキーなことだったので、敢えて今回取り上げてみることにした。
タッチパネル反対
代車を借りる前に、車検の手続きでも印象的なことがあった。
手続きの会話をすべて録音しないとならない、とのことで、始まる前に録音許可のサインをさせられたのだ。
これは2年前にはなかったこと。
「お客さんとの齟齬を失くすため」だとセールス担当はその理由を説明をしたのだが、その後にポロっとこんなことを加えた。
「これはあくまでも私見なんですが、この録音はAIにセールスを任せる将来のため、データ取りをしてるんではないか?そう思うんです。苦笑」
もしそれがホントならば、セールス担当は自分の役割が要らなくなるように仕事を全うしている、と言える。
昔、私もこれと似たように、自分で自分を不要にするために仕事をしていたことを思い出して、私も苦笑いするしかなかった。
私の昔の経験は、今目の前のセールス担当の心の不安やモヤモヤがわかるためにあったのかもしれない。汗笑。
いつの時代も仕事を失くすのもまた仕事の一つになる。
このようなことも昔の経験を(今に)新しくみる、と言えるだろうか・・・。※やや無理やり感があるか。
さて、ここから本題の代車の話。
代車は、私の車と同じ車種の最新のモデルだった。
使い勝手が概ね似ている中で一番の違いは、カーナビ。
私の車ではカーナビの操作を左の腰の高さにあるシフトレバー横のタッチパッドで行うのに対して、最新はカーナビの画面にタッチして操作する、タッチパネル式。

車を買った時は、なぜタッチパネルじゃないのか?と残念に思ったものだ。
そんなタッチパネルをここでやっと触れることになる。
期待して手を伸ばしたのだが・・・・。
タッチパネルに触れるには、前かがみになってシートからほんの少しだけ体を離さないとならない。
タッチパッドの場合は、シートにピッタリしたままで操作できたのだが・・・。
私は柔軟性がなくなってきていて、少し腰が痛いときているため、このわずかな体の動きが耐えられないことに気づく。汗。
もう少し画面が近づいてくれたらいいのに・・・
でも、近づくと画面が見づらいのか・・・?
後から聞くとこのディーラーの車のナビはこれからすべてタッチパネルになるらしい。
私にとってはなんともアンラッキーな話だ。
これは明らかに改悪だ!
タッチパネル断固反対!
敢えてそうセールス担当に伝えたものの、私ごときが反対しても何も変わらないことはわかっているのだが、それだけでは足りずに足りずに、「まあ、ずーっと今の車を乗り続ければ問題ないですね!」と追い打ちして、セールス担当にとどめを刺してしまった。笑。
こんな嫌味がでてしまったのは、自分のアンラッキーへの無意味な悪態ではあったが、ある意味本心でもあった。
この言葉で自分に新車へのこだわりがもはやないということのようだ。
シートから離れないという小さなこだわりはあるのに、新車という大きなものへのこだわりがない。
いや、小さい大きいではなくて体をいたわる方が大切になってきたのだ。汗。
ともかく、こだわりがなくなる分、自分に自由度が増える。
もうこれで、新車を買うことはない!
(都合良く)これは安上がりだし、SDGsなのだ!
その自由度に私はひとりほくそ笑んだ。
ガソリン満タン返し
代車を返却する時は、ガソリン満タン返しで・・。
それがルールと言われたので給油したところ、なんと5.69リッターも入ってしまった。
これはザッと85km走った換算になる。
私は、数キロしか乗っていないのでこれはおかしい。
このことを、ディーラーに話すと平謝りされてしまった。
これもまたアンラッキーな出来事なのだが、すぐさま私の興味は、どうしたらそうなるのか?どうしたら予防できるのか?に移っていて・・・
原因を想像してみる。
これまでこの代車を借りた人が、乗っている距離が短かったことを理由に、満タン返しをしていなかったのではないか?
85kmだから、結構な人数が同じ理由で満タン返ししていなかった可能性がある。
もしそうだとすると、久々にチャンと満タン返しを実行したのが私だったということだ。
私だけが奇特だったのだ!
そうやって自分を美しく見せるのに抜け目ない。笑。
そもそも代車を借りる前にそれが満タンであることを借り手は確認できないし、また借り手が満タン返しをしたかどうかディーラーも確認できない。
走行可能距離の表示で確認できそうなものだが、誤差があって難しいらしい。
この満タン返しルールは信頼があってこその微妙なものであることに気がつく。
些細なことだけにまだ余計に微妙なものだ。
満タン証明は難しいとして、給油明細はあるので、それを義務付けるという方法。
代車ごときに明細書を義務付けるようなことはディーラーもお客もしたくないだろう。
それでもそれ以外の隙のない解決策が思い当たらない。
過去に同様のことがあってしかるべし、と思ったのだが、ディーラーの慌てっぷり、平謝りっぷり、からそれが見えないのが不思議だ。
もしかして、満タン返しをしたことにする茶番を演じるのが、ここのディーラーと客との阿吽の呼吸で長らくズルズルとやってきたのではないか?
それが、これまで発覚しなかった原因なのではないか?と疑ってみたりする。
ならば私だけが、ルールを言葉通りに受け取った、やはりバカ正直の奇特な存在である。笑。
私には、私が不正を白日の元に晒したんだ!という自負があったと言わざるを得ないが、その正義によって、「いらんことしてくれた!」と裏で言われる羽目になったのかもしれない。
まあ、そんなことをツラツラと思いながら、今度は満タン返しという明確な証明ができない厄介なものに出会うことで、信頼が何たるか?にも思いを馳せる。
見えないところで人は裏切る。
だから見えないところでも誠実であると信頼を構築されるとも言える。
あるいは、代車のガソリン代くらいディーラー持ちにできないのか?
世知辛いとも感じた。
そしてまたふと思う。
セールスがAIになった時、この問題をどう処理するんだろうか?
AIに謝罪されても、自分は到底納得できない・・・笑。
それはAIの謝罪にAIが痛みを伴わないことがわかってしまっているからなのかもしれない。
新しくみる
さて冒頭に戻って、「新しく見る」という言葉が気に入ったのは、「人は社会の複製にされてしまう(クリムシュナルテイ)」という言葉が最近妙に共感したからだ。
社会が決めたところの「これが正解」という型にはめられてそれを繰り返すような人生では自由度がなくてつまらない。
それを、抜け出すには「(常に物事を)新しく見る」こと、という言葉にまた共感したのだ。
共感したならば、早速実践!
改悪される、普通はそんなことはない。
ガソリンが大量に入る、普通はそんなことはない。
なんとついてない!
ムカムカしたまま終わってしまっては、そこに何の新しさもない。
普通という言葉を使った瞬間に、自分が押し込められている社会の型をより強固なものにしていると感じる。
「新しく見る」には、幅広くて「新鮮に見る」「別の角度から見る」「裏(逆)を見る」「相手の立場で見る」「(それをキッカケに)自分の内面を見る」・・・
いろんな方法があるのだろう。
ついてないだけでは終われない。笑。
もう一歩だけ進んで、新しく見ようとしてみる。
何でもいい。
普通の反応の後に自分を加えるのだ。
今回は実践してみることで、前かがみを強要されるタッチパネルから、自分のこだわりと自由度を確認できたし、ガソリン満タン返しから、信頼とはどんなものか?そして自分が奇特である可能性、などを垣間見ることができた。
まあいつもどおり拙い一歩ではあるが、常識的な反応で終わらせてしまわずに、私の中を観察して湧き上がる感情、思いを言葉で追加してみる。
これは、無駄なことでコスパが悪いと指摘されること請け合いなのだが、これが私が社会の型から抜け出すためのせめてもの抵抗であって、その積み重ねが自分の個性として表れることを信じて行きたいと思うのだ。
UnsplashのChristian Wiedigerが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
ガソリンが多く入った分は、次回の洗車を無料にすることで、埋め合わせてもらうことになりました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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