「わかる」は、我が身(頭と心と身体)のある人間だからこそ味わうことができる感覚。

最近読んでいた橋本治さん著書 「わからない」という方法 が非常に面白かったです。
この本は今から20年以上も前に出版されたものなのですが、私が本書を購入したのは2022年と割と最近のこと。
そして、「読みたいなあ」と思いながらも、長らく積読されていました。
本書では「わからない」について、著者独自の様々な論考が展開されているのですが、「わからない」を考えていく上では当然のことながら、その対比としての「わかる」が出てきます。
私には通読する中で幾つもの驚きと発見があったのですが、特に大きなインパクトとなったのは、著者の「わかる」についての論考にありました。
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早速、ピンと来た箇所を引用します。
「わかる」とは納得することである
「わかる」とは、順を追って理解して行くことである。
そうすることによって、学ぶ側に「納得」が起こる。
「わかる」とは納得することなのだから、「分かっていくプロセス」とは、「我が身を納得させる時間」に等しい。
すべてのものが、初心者に対して「基礎を確実にマスターする」を要求するのは、そのためである。
さて、いかがでしょうか?
自分なりにこの部分に対して解釈を加え、整理すると
- 「わかる」とは、我が身(頭と心と身体)を納得させること
そして、そのためには、
- 順を追って、理解していくための「分かっていくプロセス」が必要
となりました。
ちなみに「我が身 = 頭と心と身体」の解釈は、以下の投稿が大きく影響しています。
今回のタスクシュートジャーニーもめちゃくちゃよかった。個人的なハイライトは幾つもあったけど人間は頭、心、腹の3つのパートで理解しないと動けないという話はビビッときた。頭は思考、心は感情、腹は直感と捉え、全てを通った時の感覚がしっくりくると解釈。このフィルターは常にもっておきたい。
— 田中 新吾@ハグルマニ (@tanashin115) July 28, 2024
そして、このような整理を進める中でふと思い出し、リンクしたのが2023年6月1日にしていた以下のポストです。
身体性を伴う深い思考からの自らの「納得感」がなければどんなに多くの人が羨ましがるような人生であってもそれは不幸でしかないのだと思う。また、自らの納得感のある思考に辿り着くまでの時間は人によって様々という前提に立ち、焦らずどれだけ自ら熟考して納得感を持つことができるかどうか。
— 田中 新吾@ハグルマニ (@tanashin115) June 1, 2023
当時の私は「納得感が大事だよね」ということを言いたかったのだと思いますが、この想いは今も全く変わりません。
ふと思い出しリンクした最果てに、投稿内にある「納得感」を「わかる」に置き換えても意味が通る、という結論に至っています。
そして続くようにリンクしたのが以下の投稿です。
「納得する」というのは、よくわかるとか、深くわかること。特に大事なことはそれが「身体の含まれたわかり方」であること。言い換えると身体的な経験を通してわかるという状況。これは養老孟司さんもよく強調してるお話。…
— 田中 新吾@ハグルマニ (@tanashin115) April 9, 2023
これは2023年4月に投稿していたのもので、養老孟司さんや山鳥重さんのお考えも参考にさせていただきながら、「納得とは、身体の含まれたわかり方」という考えを示していたものです。
この投稿も、橋本治さんの論考と見事に繋がり、アップデートされました。
納得とは、我が身(頭と心と身体)の含まれたわかり方。
こう捉えるととてもスッキリします。
したがって、よくやりがちな頭だけでの理解の場合、それでは「わかる」とは呼べず「わかる風」でしかないなと。
また、山鳥さんは「わかる」とは「運動化できる」ことだと仰っていますが、これも「わかるには我が身(頭と心と身体)の納得が必要である」と考えれば非常に腹落ちする。
例えば、我が身が納得しているからこそ、すらすら話をして相手に伝える(運動として出力する)ことができ、相手の考えに影響を与えることができるといった具合です。
そういえば、最近読んだ「歩くという哲学」の中にも以下のようなハッとさせられる言及がありました。
筋肉までがその形成に参与していないような思想には価値がない。
これを受け、我が身における身体とは、筋肉レベルまで、いやもっといえば、細胞レベルで考えるべしなのではないか、といった解釈をしています。
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そして、橋本さんの本の中で、さらにピンときたのが以下の部分です。
「経験した」ということは、「わかるための材料を集めた」ということで、「経験した」だけでは、まだなんの意味もない。
その「経験したこと=知り得た知識」を基にして再構築するー「わかる」とはその再構築の作業なのである。
先ほど、わかる(我が身を納得させる)ためには、順を追って理解していくプロセスが必要、という考えを示しましたが、このプロセスの中で行うべきことがまさにここに書かれていると思ったからです。
つまりは、経験したことをもとにして、再構築をしていく必要がある。
それによって、わかる(我が身の納得)がやってくる、という理解です。
そして思うに、経験したことを再構築をしていくプロセスにもってこいなのが「書く」という行為。
今こうして書いている際にも様々な経験を結集させて、まさに再構築をしているわけですが、この過程を経ることでわからない状態だったものが我が身(頭と心と身体)を含む納得(わかる)へと変わっていく実感があります。
また、「わかる」へと昇華された種々の経験たちは、運動として出力することが可能になっていく実感もある。
人によっては「書く」よりも「話す」の方がその効果は高いのかもしれません。
しかし、個人的には「書く」の方が断然、上。
きっと両方するとよりよいのだと思います。
今、話題に欠かないAIが生成してくれるコンテンツ(例えば文章)は、順を追って、理解していくといったプロセスをすっ飛ばせるのが大きな特徴だと思っています。
そしてそれをあたかも自分がしたアウトプットのように周囲へと届ける。
これこそが生産性が上がると言われている所以なのですが、このようにアウトプットされた事柄が自分自身にとっての「わかる」に、真になっているかは大きな疑問が残ります。
私としてはそれは「わかる」ではなく「わからない」に分類されるイメージ。
なぜならそれが、我が身(頭と心と身体)を経由して出力されたものではないからです。
思うに、AIを用いると、誰でも自分の知能を遥かに超える優れたアウトプットを生み出せるわけですが、それが我が身を納得させる「わかる」に繋がるわけではないと思っていた方が良い。
「わかる気がする」くらいに留めておき、AIによって生み出されたアウトプットも、順を追って理解していくプロセスにふまえ、我が身を納得させるに取り組んでいくスタンスが大事なのではないかと。
そして、現時点で個人的には、「わかる」は、我が身(頭と心と身体)のある人間だからこそ味わうことができる感覚と捉えておきたいなと思っています。
以下の記事でも「AIが本格的に台頭してきたからこそ注力していきたいテーマ」が見えてきたと書きましたが、今回の「わかる」という感覚についても、AIの影響を受けたからこそ、それをしっかり享受していきたという強い想いが生まれてきました。
AIの本格的な社会への浸透が無ければ、きっとこのような想いは生まれていなかったと思います。
引き続きAIを用いた仕事の効率化や良質化にはしっかりと取り組みつつ、浮いた時間は人間だからこそ得られる実りのために多くを充てていけたらと思っています。
今のところ、私がAIを使う目的はここにあります。
今回書きたかったことは以上です。
UnsplashのSteven Houstonが撮影した写真
【著者プロフィール】
著者:田中 新吾
大AI時代だからこそ、「わかる」としっかり向き合い味わっていきたいです。
ハグルマニ 代表|お客様のプロジェクト推進に必要とされる良き「歯車」になる、がミッション| 現在は、大企業様、中小企業様、NPO法人様など複数のプロジェクトの歯車になっています|タスクシュート認定トレーナー|栢の木まつり実行委員会|名前座考|「身体の健康」と「心の健康」を保つこと、に興味関心があり取り組んでいます。
●lit.link 田中新吾
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