「他者に寄り添えるひと」が根底に持っている力について。
突然ですが、仕事でお付き合いをさせていただいている経営者の方から、こないだとあるエピソードを聞きまして、
その時「他者に寄り添えるひと」が根底に持っているものは、やっぱり「痛みへの共感力だよなあ」と改めて思いました。
この記事ではそのことについて書きたいと思います。
他者に寄り添えるひとが根底にもっている力は「痛みへの共感力」である
聞いた話がホントに素晴らしい内容で、私はえらく感動してしまいました。
前々から、他者へ寄り添うためになくてはならない力(=根底にあるべきもの)は「痛みへの共感力」である、という考えを個人的に持っています。
今回その経営者の方が私に話してくれたエピソードは、この考え方を補強してくれるような内容でした。
やっぱり自分も同じような痛みを分かっているからこそ、その痛みを抱えている誰かに対して寄り添うことができるということが基本形だな、と思ったわけです。
そうでなければ、一見寄り添っているように見えても、それはいい人そうに見える偽善者なのかなと。
SNSを見ていると、『他者に寄り添うことが大事!』といった話をちらほらと見かけます。
これは誰もが認める大事なことだと思うのですが、本当に重要な箇所を見落としていないかどうか、自分自身をチェックする癖は常にもっておくべきだろうと改めて思っています。
痛みへの共感力を高めるために、すべきことは何か
痛みへの共感力を高めるためにすべきことは一体何でしょうか?
この答えはシンプルいえば「自分が色々な痛みを知ればいい」ということだと思っています。
「痛いのはいやだ!」
そう思うならそれはそれでいいと思うのですが、痛みへの共感力は一向に高まりません。
体が苦しいを思うこと、心が苦しいと思うこと、頭が苦しいと思うこと。
これらのすべてが「痛み」です。
自分が苦手だと感じていることや、コンプレックスに感じていることを克服するということは、克服する過程で必ず痛みを伴います。
なので、それを克服したという価値以上に、「痛みへの共感力が高まる」という点の方が、価値としては大きいんじゃないかと思うんです。
さいごに
努力量が人よりも多いひとは、出来ることや分かっていることが多いだけでなく、人間的にも素晴らしいことが往々にしてあると、私は思います。
この理由も結局のところ、色んな「痛み」を知っているからなんだろうなと。
今までに、努力に関するツイートを結構している様な気がしたので、検索してみたらこんなツイートが出てきました。
努力の努は「奴」に「力」と書き「奴隷のように激しく力を尽くす」という意味で、どうしても苦しみを伴うという印象が強い。最高の成長戦略が「努力の娯楽化」であるとするならば、まずは苦しくなければ成長できないと感じている自分を「許す」ことからはじめるべきなのかも。人生は楽しんでいいと。
— 田中 新吾|Shingo Tanaka (@Shingo_tna) October 16, 2018
努力が娯楽化できれば、当然その分野については楽しみながら成長ができると思います。
でも、これでは出来ることは増えても、痛みへの共感力はなかなか高まらない。
だからこそ、痛みへの共感力を鍛えるために重要なことは「努力のバリエーションを増やすこと」だと思います。
娯楽として努力ができるものもあって、痛みを伴う努力もある。
そんなイメージです。
そうして色々な努力をしていく中で、人として大きく成長を遂げていくんだと思うんです。
この記事が何かの参考になれば幸いです。