「誰か」が曖昧だと書くことを躊躇する。
僕はDMをもらうと、とても気持ちがよくなります。それが一言、二言であったとしてもです。Twitterのリプライもそうかもしれません。
この理由はなんだろうかと考えると、多分それは、わたしからあなたにが明確で、言葉に余計な力が入っておらず、きわめてナチュラルだから、だと思うんです。デジタルなんだけどリアルの手紙に近い感情が沸き起こります。
自分がされて気持ちいいと感じるものは積極的にするタチで、やたらとDMを使います。特にインスタでのそれが多い。受け取るのは相手なのでどんな風に感じているかは知り得ないのですが「わたしからあなたに」が明確なので、いたってナチュラルなコミュニケーションができている気がします。
その一方、群衆の中の誰かに向けて文章を書こうとすると、どうしても主張が激しくなったり言葉が強くなってしまいがちです。それは、仮に「誰か」を意識したとしても「群衆」という前提がある以上は「わたしからあなたに」が曖昧にならざるをえないからなのかと。
そして、誰かが曖昧だから「強いを言葉を使わないと届かない」と無意識的にでも思ってしまうのかもしれません。でも、これはある意味しょうがないことなのかもと思います。はっきりしない対象に対して、主張がエスカレートしていくイジメの原理に似ているからです。
仕事もそうです。目的がブレていたり、コンセプトが不明瞭なものに関してはなかなかやる気が出ない。だからこそ、その設計や仕込みにかなり時間を使うようにしています。とにかく曖昧なものは上手くいく気がしません。
今の僕が書く文章のスタンス
文章を書くときに「誰か」を意識することは鉄則だと思う。
でも、その「誰か」が曖昧であることが原因で、強い言葉や激しい主張で他の誰かをマウンティングしてしまいそうだと思ったら、書くことを躊躇します。そしてその後「誰か」を明確にするか「昔の自分」にするか考えます。
もしくは、そもそも「誰に向けたものでもないもの」として書きます。誰に向けたものでもないもの、というのは例えば「起きた事実」について淡々と書いたような文章のことです。
ということで、今の僕が書く文章のスタンスをまとめると、この3つになります。
- わたしからあなたにが明確なもの
- 昔の自分に向けたもの
- 誰に向けたものでもないもの
やっぱりコミュニケーションの基本は「1対1」が基本だと思うので、大変だけどそれを丁寧に積み重ねていくしかないんだろうなと思います。
ブログにしても、ツイッターにしてもすべてこのどれかに当てはまるように、そのときそのときの思想や考えを大切に書き残していきたいと思います。
さいごに
現時点ではやっぱりどうしてもこの3つで回していくしかできないけれど、今のリズムとノリで毎日更新することを続けていたら、もしかしたら4つ目や5つ目のような「新しいスタンス」が生まれることもあるかもしれません。
それがなんだかは仮説も何もないですけど。ちなみにこの文章は「昔の自分」に向けて書いています。
いざ、書き始めたらまだあんまり上手く言語化できていないことに気づきましたが、とりあえず書ききりました。