田中 新吾

「長く使えるもの」を選びたい。

タナカ シンゴ

ものは長く使いなさい。

死んだじいちゃんがよく言っていたのを今でも覚えている。

僕のじいちゃんは、事業も趣味も何でもやる人だった。

養鶏場、町工場、不動産、畑、田んぼ、写真、植木、盆栽、株

色んなところに行くのが好きで旅にもよく行っていた。

今風に言うと相当の「多動力」を持っていたし「好きなことだけやる」の権現だったのではないかと思う。当然、これらを営む上で、そのための「道具」が必要だ。これだけの数の営みをしているので、その量は別に大きな納屋が必要なほどだった。僕は小さい頃、その納屋をよく遊び場にしていた。

納屋は、僕の好奇心を揺さぶるおもちゃ箱のようだった。木造りの棚があって、様々なサイズの箱があって、その箱の中には、鋏、金槌、玄翁、のみ、鋸、墨付けを行う墨壺など様々な道具が入っていた。釘、螺子、ボルト、ナットなども沢山あって、組み合わせて “メカゴジラ” のような工作をしていた自分の幼少期が懐かしい。

じいちゃんは道具を使うたびに必ず「手入れ」をしていた。いわゆる「研ぎ」や「目立て」と言われる作業だ。どんなに日が暮れても手入れをしてから箱にしまっていた。隣にくっついてよく見ていたこともあってそのシーンは今でも眼に浮かぶ。実際にやらせてもらうこともあった。

その時によく言っていたのだ。

ものは長く使いなさい。こうやって手入れをすれば何度でも使えるようになる。壊れたら壊れた部分を直して使えばいい。そうやって大事に長く使いなさい。

「狼に育てられた少女は狼として育つ」という話があるように、人は周囲の環境によって、その思考様式・価値観・習慣が決定される環境適応動物だと言われている。実際、僕もそうだと思っている。

今、ぼくが興味関心のある分野の一つに「持続可能性」というのがある。持続可能性と言っても趣味や習慣をサボらないと言っているのではなく、これらは当然として、自分が関わる地域、ひいては日本、ひいては地球環境や人類の持続可能性を考える、そして行動する、そういうスコープだ。

このマインドセットは、20代の経験によって作られたような気がしていたのだが、よくよく思い返せば生まれた時から、最も側にいる人に既に「持続可能に取り組む」ことの種を植えつけられていた。

「血は争えない」とは正にこのことだと思った。

全体に対する責任

1902年から「斧」を作り続けているスウェーデンの老舗、グレンスフォシュ・ブルーク社のカタログの冒頭文が大好きだ。じいちゃんを思い出すような文章で、時々読むようにしている。

「全体に対する責任」

私たちがなにを使い、なにをどう作り、なにを捨てるのかは、実のところ、倫理的な問題である。私たちは「全体」に対して無限の責任を負っている。果たそうと常に努力はしているが、必ずしも果たせているとは限らない責任だ。

そこには、製品の品質と寿命も含まれている。高品質の製品を作ることは、製品を買う人や使う人に敬意を払い、責任を全うする一つの方法だと言える。高品質の製品は、その使い方と手入れのやり方を心得た人々のもとにあれば、まず間違いなく長持ちする。これは所有者にとって、つまり利用者にとってすばらしいことだ。

同時にもっと大きな全体にとっても素晴らしいことだ。長持ちすればするほど使用量は減るし(原材料もエネルギーも使用量が減る)、生産量も減るし(時間に余裕が生まれ、大事だと思うことや楽しいことができる)、捨てる量も減る(ゴミが減る)からだ。長く使えるものを選びましょう。

ビジネスも、大量生産大量消費から変わりつつあることを知らせるニュースを耳にすると嬉しい気持ちになる。

前にもnoteで紹介したが「捨てない経済」に個人的には大注目している。特に、スコットランドで行われているプロジェクトは目から鱗が落ちた。

参考記事:「捨てない経済」は地方から拡がる?

さいごに

去年、9年前に買ったビルケンシュトックの「モンタナ」を修理に出した。踵のソールの減りが目立つようになったのでオールソール交換をしてもらった。

ビルケンのシューズが何だかんだ好きで今でも5足程所有しているのだが、モンタナはその中でも最も時間を共にしてきた。島や山、キャンプやデート、色んなところに行った思い出の深い靴だ。

先ほどのカタログの文にある通り、長く使えば色々なものが減って全体にとっていい。けれど、減るものだけではなく増えるものもある。

それは「思い出」だ。使った時間の分だけ、思い出は蓄積され味わい深いものになる。たとえ、そのものが使えなくなっても思い出は記憶に保存される。

そういう意味もあって、長く使うことはいいことだと思う。

長く使えるものを選びたい。

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