RYO SASAKI

「ありえないこと」を愉しむ。~「ありえない」もまたひとつの固定観念なのだ!~

タナカ シンゴ

ここのところ、些細だが少し珍しいことがあった。

それはまた、すごく嬉しいことでもあった。

大げさに言えば、「ありえない!」っていうようなこと・・・。

最近よく聞く「ありえない」という言葉は、起こって欲しくない天災や人の残虐非道な行為など、ネガティブなことを指して言う場合が多い。

そう言えば、確か「絶対にありえない」というドラマのタイトルもあった。

このネガティブな「ありえない」を言いたくなる場面に遭遇した時に、私は自分の固定観念を感じてしまうところがある。

私は世の中のことをどこまで知っていて、この言葉を吐いているのだろうか?

自分が経験していないこと、確率が少ないことをすべて「ありえない」と片づけてしまっている了見の狭い言葉なのではないかと。

まあ、そうは言うものの、一方ではありえることとありえないことを分けておくことは、自分の安全のために必要なことなのだろうし、人との会話でなんとなく共感できて都合がいい言葉だ、とも思う。

今回は、この最近起こった珍しくて嬉しいことをご縁にして、「ありえないこと」、特に嬉しい方の「ありえないこと」について思うことを書いてみたい。

ホルモン焼き屋さんにて

些細な嬉しいことは、近所のホルモン焼き屋さんで起こった。

私がこの店で食べるようになったのは、7年くらい前からになるだろうか?

肉を外で食べたい時に、決まってこの店を使うようにしている。

そうは言っても、コロナ禍で約2年のブランクがあり、通常年でも年2~3回程度と利用頻度はわずかなものだ。

私がこの店で必ず注文するのは、ホルモン焼き盛り合わせ(小)。

この盛り合わせには、日替わりで4種類のホルモンがランダムで入ってくる。

ある時、そのホルモンが特に美味しいと感じた瞬間があった。

いつも美味しいのに、なぜ特別に感じたんだろうか?

私がホルモンの中で好きなのは赤身肉に近いもので、その日、盛り合わせにはその赤身肉に近い最も好きなタンモトが入っていたのだった。

そして、その横にはマルチョウがある。

これも好きな部位。

あれ?その他の2つも私の好きな部位だ!

そこまできてやっとピンときた。汗。

前回こちらに来店した時に、それは半年以上も前のことになるのだが、「ホルモンは何が好きですか?」と店長に聞かれていたことを思い出した。

その時に答えた部位4種類を、その日店長が選んで提供してくれたのだった。

この店は、美味しいホルモンをリーズナブルに提供してくれることもあって、常に客数がハンパない。

満席の時も多くて、そんな時には店全体が目まぐるしい忙しさに包まれる。

そんな繁盛店の店長が、7年(実質5年)通っているとはいえ、年2~3回程度の客のことを覚えてくれているとは・・・。

私の頭に「ありえない」という言葉が浮かんでくるのと同時に、喜びがどこからともなくこみ上げてくるのだった。

「この前の(私の好きな部位)を出してくれたんですね!?」

と声をかけると、店長はただ「はい」と愛想なく、当たり前のように答えるだけ。

隙間なくハードに働きながらも、細かい配慮のある店長にただただ驚くばかりだった。

7年ぶりの再会

また数か月後にこの店に入った時のこと。

この日もほぼ満席だったが、その日、休みなく働く店長が初めて不在だった。

配置換えがあったのか?と恐る恐る店員に尋ねようとした時に、ひとり動きの機敏さが目を引く店員が、フレンドリーに声をかけてくれた。

「私は、ずいぶん前にこの店で働いてたんですけど、その当時のお客さんがまだこの店に来てくれていて嬉しいです。」

当事のお客さんとはどうやら私のことのようだ。

私は、「ああ、そうでしたかあ・・・」

と本日不在の、好みのホルモンをそっと出してくれる店長の方に興味が向いてしまっていて素っ気ない反応をした。

そして、その後に店長はただの予定休と知って、密かに胸を撫でおろしたのだった。

それから、しばらくの間、いつもどおりホルモンの盛り合わせを美味しくいただいてお会計をお願いした。

そうしているとかなり遅れて、その店員さんのフレンドリーさに妙な引っ掛かりが感じられてきた。

「んっ!?この店員さんはまさか!?」

名前を聞いて、過去の記憶が鮮明に蘇ってきた。

この店員さんは、当時、私が通いだした7年前に、今の店長とダブル店長としてこの店を切り盛りしていた人で、私にもよくしてくれた人だ!

忙しい合間に、声をかけてくれて今の店長とは比較できないくらいに話がいろいろと弾んだ。

彼とは意気投合して、この店がはけたら、一緒に飲みに行こう!と誘う事が何回かあったくらい。

ジワジワと記憶が蘇るとはこういうことなのか・・・。

タオルをかぶっていて、髪の毛も短くなっていたこともあって、最初は全く気が付かなかった。

彼は、7年前に何回か会った後に、他店に移動になったと聞いていたが、その日は、たまたまこの店のヘルプに入ったのだった。

「あの時の!」

7年ぶりの再会。

私は店を出る前にかろうじて思い出して、彼と当時の懐かしい話をすることができた。

そんな中で印象に残った彼の話がある。

彼は、好きな部位を出してくれる今の店長を素晴らしいですね、と言った後に、

私も、店に来てもらったお客さんには、味もさることながらそれ以外に何でもいいから記憶に残ることをしよう、と心がけているんです、という。

競争の激しい飲食業において、そのわずかな違いが勝負を分けるという信念を持っているようだ。

その信念どおりの結果のひとつが、7年通い続ける私ということになるのだろう。

確かに、7年前の彼キッカケで私はこの店に通い始めたのだ。

そうして7年越しに、好みのホルモン部位を聞いてもらえるようになった。

私はこの言葉に感激ひとしおながらも、「でも今の店長は、(あなたのことをお客さんと)話し過ぎだ!、と言っていたよ。」と少し毒を吐いてしまった。

悪い癖だ。汗。

これに対して彼は、

「そうなんですよね、店の状況に応じて、ということになるんで微妙なんですよねえ・・・。」

という反応。

彼は、私の毒っケにも相変わらずのホスピタリティーだった。

確かに、回転の多い店では、どの程度お客さんと会話するべきなのか、非常に難しいのは私にもわかるような気がした。

※会話をすることも含めて設計をしている高級店であれば話すことは当たり前のことになるのだろうけれど・・・。

持ち前のホスピタリティーにある種の落ち着きが備わった彼の風格が、私に正直な毒を吐かせたのだと思う。

言ってもいい、いや、言った方がいい、と直感した。

彼には、私が感じた7年ぶりの彼の風格についても正直に伝え、挨拶して店を後にした。

これだけの話で、それ以上の何があったわけでもない。

その後に、彼との再会の感動で、懐かしいモノが無性に欲しくなって・・・、こちらもかなり昔に飲んでいた懐かしいバーボンウイスキーを買って帰ることにした。

ありえないことほど幸せに感じる

このホルモン焼き屋さんでのお好み部位の提供、そして7年ぶりの再会という2つのこと。

これらの出来事は非常に取るに足りないこと、と言ってしまうこともできるのだが、お金で買う幸せとはまた別ものであって、お金以外にも確かに幸せだ、と感じさせてくれるものであった。

この幸せはどこから来るのだろうか?

その幸せは、人と人との関係にあり、そしてまたその「ありえなさ」にあるのではないだろうか?

この偶然の出来事は、確かに「絶対にありえない」とは言えないだろうし、「ありえない」というよりもむしろ「めずらしいことがあるものだ」と言った程度のものだとは思う。

それでも偶然で「めずらしい」ことに人は感動するものなのだ。

お金でのやり取りは対価に対する契約でもあるから、大体が想定内にあって「ありえない」ということは非常に少なくなる。

また、例えば、競馬で大穴が来る、という大穴の馬もチャンと枠に入っているのだから、レールの上に敷かれた偶然であると言える。

それよりも、全くレールの上にないような偶然性。

これの方が幸せを感じるのだ。

※レールの上での偶然性の感動もすさまじく、感動も人それぞれなので比較することはできないのだが・・・。

人は、安定した予定どおりを求める一方で、飽きやすくて「ありえない」をどこか求めているものなのだろう。

意図せずに計算もなく起こる日々の出来事、これによってまた人生が幸せに感じられるのだと思う。

そして、その出来事が起こる確率が低いと感じられれば感じられるほど、幸せを感じるものなのだ、と思うのだった。

「ありえない」ことも愉しむ

人には、何かの目的のために努力してその目的を達成する、という幸せがある。

それは、意図して(戦略を立てて)、自分をコントロールしてその思惑通りにする、という充実感であり、それは素晴らしいことだ。

それは自信にもつながる。

それに対して、今回感じたことは、幸せはそれだけでない、ということ。

他力本願のようで、あまり好まれないものかもしれないが、意図すること、コントロールすることでは味わえない別の幸せもある。

それが今回の忘れかけていた、もちろん意図しない偶然のことだ。

世の中は、意図しないこと、偶然に起こることに満ちている。

それも面白いのだ。

いや、それが面白いのだ。

健康な人は、無意識にもその偶然に出会うために、偶然を喜ぶために生きているのではないだろうか?

意図せずに、心開いて世の中を感じる、そうすると時々嬉しい偶然がやってくる。

偶然に出会うために、とは言うものの偶然は想定しないところからやってくるから、面白い。

求めて得られるものではない。

そして、偶然を求めて偶然に依存するのはこれまた違う。

偶然は、意図したものの別の角度から入り込んでくる。

話を広げてしまうが、今になってみれば、私のここまでの人生だって、意図していなかった人との縁によって導かれる、偶然の積み重ねにあるように感じる。

話を更に大きくして、さまざまな成功者の話を聞いても、想定外の流れから、当初目的としなかった今の成功にたどり着いた、というような話が非常に多い。

これは意図せずに運まかせということではなくて、ある意図を元に動いていると、想定外の別の角度から光が差してくる、という感覚だ。

その光が、時にはこのままではいけない、と言った自分のこれまでの意図を完全に否定するようなものだったりもする。

そんな風に見ると、意図するということは、やはりその人の固定観念と言えるのかもしれない。

そして、意図することは、想定外の偶然の光に出会うためにあって、最終的に自分の固定観念を破るためにあるのではないだろうか?

自分が持っている固定観念を意識するというお膳立てがなければ、その後に自分のその固定観念が取っ払われることがない、というようなパラドックス的なことだ。

そういう意味でもたぶん「ありえない」ことをどんどん経験した方がいいのだ。

そうすることで、固定観念が打ち破られて、新たな可能性が広がり、同時に人の器が広がっていくことになるだろう。

こうして今回は、些細なありえない嬉しいことから、自分の固定観念の外にある、「ありえない」を味わって、そしてまた「ありえない」に身を任せて愉しんでいこうというところに至るのだった。

UnsplashPrastika Herliantiが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

コロナ前に近所の自然派ワインのお店に、遠方の方をお誘いして一席設けるというご縁がありました。

そのお誘いした方と自然派ワインの店長(オーナー)が、同じ千葉県長生郡長生村に移住(一方は2拠点生活)して、お互いが知り合いになった、と最近聞きました。

偶然とは何とも面白いものです。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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