RYO SASAKI

「キレ芸」から学ぶ、日々の大切さ~なんにしても経験がものをいうのだ~

タナカ シンゴ

このGW、私が夢中になっていたものに「キレる人の動画」がある。

キレるとは言っても、本物ではなくてお笑いの「キレ芸」に当たるものだ。

目に留まった「キレ芸」の使い手は、カンニング竹山さん、ダイアンの津田さん。

お笑いのツッコミ役でもあり、例えば「なんでやねん!」「おかしいだろ!」などの言葉であらゆることに文句をつける。

その様に思わずほくそ笑んでしまう自分がいる。

なぜ、そんな文句タラタラに惹かれるのだろうか?

私だって曲がりなりにも、世の中をそんな風にネガティブに観てはならない、と何回も改心してきたのではないだろうか?

言霊(コトダマ)があって、ネガティブな言葉はネガティブな事を引き寄せると避けてきたのではなかっただろうか?

こんなところから、なぜ私が「キレ芸」に惹かれるのかについての分析が始まってしまった。

この素晴らしきGWに家にこもったまま・・・。汗。笑。

このつたない分析の先の着地は意外なところだった。

「キレ芸」はなぜ面白いのか?

カンニング竹山さんのYouTubeは、プライベートでも暑い、寒い、(周りに)なってない、などなど、感じられるあらゆることに対して、四六時中文句をつけているような印象だ。

こだわりが強いから現実がこだわりどおりでないことに文句が出る。

そのこだわりを主張するも、そのとおりにしたくない周りの人がいて、そことの掛け合いなんかがまた抜群に面白い。

ハピキャン(キャンプ動画)

その文句を聴くことで、私なんかは、ずいぶんこだわりなく何でも受け入れてしまうようになったものだ、と逆に気づかされたりもする。

ダイアンの津田さんは、周りのボケやイジリに対して過剰なまでに大声で怒り叫ぶ。

それが愛らしくもあって、また面白い。

さまぁ~ずチャンネル

どちらも同シリーズ動画の中で再生回数が格段に多くて、どうやらこの「キレ芸」が面白いのは私だけではないようだ。

共通するところは、まずその文句や怒りを、地で言っているように感じられることだ。

もちろん演じているものではあるが、それが真に迫っている。

その上で、言っていることの中に共感するものが多々ある。

これは「毒舌」に対して「そう、そう、」と共感して笑えるのと同様だ。

私も言葉にさえしていないが同じことを感じているのだ。

文句や怒りを外に出すことにどこか私に失われてしまっている?純粋さ、同時に勇気、そしてパワーを感じられる。

文句を言うことは同時に周りの誰かを批判することだ。

だから当然周りに波紋が広がって人間関係に支障が出るわけで、それを引き受けるという覚悟が必要になる。

それゆえ、多くの人は日頃それを表に出すことを抑制している。

芸人さんの「キレ芸」はその解放を代行してくれているものではないだろうか。

感情を露わにすることはできない分を、はるかにオーバーにやってくれる。

それがガス抜きになる。

感情の中で特に”怒り”は悪者扱いされるものだが、文句を言った時に、あるいは、それを代行してくれた時にスッキリすることは隠し切れない感覚だ。

脳科学的に見た時に、怒りは生存に必要な要素でもあるというし、抑制によって怒りを失くすのは無理があること(抑制はある程度は必要だろうけど)、そしてまた、怒りの代行というものがあるんだ、ということをこの「キレ芸」で再確認するのだった。

「キレ芸」は誰がやっても面白いわけではない。

さて、「キレ芸」は誰がやっても面白いのかというと、どうもそうではないようだ。

『真に迫っている』から面白い。

では、真に迫ることができるのは何故なのだろうか?

竹山さんと津田さんから、それは場数によるものだと感じる。

竹山さんはそのこだわりゆえに、現実とのアンマッチによる不快を言葉にすることが日常的なものになっている。

津田さんの本人談には、若い頃に叱られることが多くて、それでもそれをなかなか直さなかったから、更に叱られた、というものがある。

度重なった叱られることへの反抗、怒りを何度も繰り返していて、それが「キレ芸」の時の表情や声の張りに滲み出てきているのではないだろうか?

これらを仮にキレる稽古だとすると、日頃から稽古の回数がハンパないわけだ。

しかもその時々の「怒り」という感情が本物だから、その稽古のレベル(真剣さ)は演技の稽古と比較して遥かに上にある。

そうだ!何事においてもやはり稽古に勝るものはないのだ。

稽古=努力ができる、できないも才能のうちだというが、お二人はその稽古を苦痛に思うこと少なく(文句があるということ自体はストレスのはずだから”苦痛少なく”などと表現するのは誤解を受けそうではあるが・・・)、比較的簡単に重ねられてきているのではないだろうか?

キレる稽古は、お二人のように日常的でなくても可能で、その芸のための稽古でも素晴らしい演技ができるとは思うものの、やはり本物の稽古の多さに敵わないのではないか?と感じるのだ。

何にしても経験はモノをいう

今回「キレ芸」の面白さから思ったことは、意外にも経験(稽古)というものが人に確実に積み重なる、ということだった。

日々何に向き合って何を感じて何を考えてどう動いて生きているのか?

日々キレることもそうであるように、すべてのことが経験になる。

いい経験だけが、意味をもって積み重なるのではなくて、すべての経験がその人の未来の癖というかスキルというか型を作り上げると言ってもいいだろう。

目的をハッキリさせて、その目的に向かって日々経験していく(例えば稽古、トレーニングするなど)ならば、その経験は目的達成に間違いなく寄与するだろう。

これは当然として、逆に特定の目的に向かっていない場合だって見えない経験が積み重なり、人の型が構築されていく、ということにも違和感はなく納得できる。

もちろん、日常的にキレる人が竹山さんや津田さんのように「芸」として結実して仕事になるケースは非常にレアだと言わざるをえない。

経験はその後の何に役立つか全くわからない、それでも無意識に積み重なっていくものなのだ。

さて当たり前のことではあるが、人生において通る道筋はいくつもある。

どこに住むのか?何を仕事にするのか?子供は何人欲しいのか?・・・・

Aを経験する道、Bを経験する道・・・・

その道には自分で選ぶものと意図せずにやってきて無理やり押し付けられるようなものもある。

そして、Aを経験したものは、Bを同時には経験できないようになっている。

同じ時間で考えられること、行動できることは一つに限られるから。

そうすると、誰もが自分だけの道において、自分だけの経験を積み重ねて自分だけの型を作り上げていくことになり、これこそがその人の人生ということになる。

そう考えると、月並みなのだが日々の経験を大切にしないとならない、そう再認識するに至るのだ。

ここで、ある人が放ったこんな言葉を思い出した。

「佐々木さんはサラリーマン何代目ですか?」

最初ピンとこなかったのだが、どうやら人の経験は人の一生を超えて積み重なっていく、というような意味合いだった。

例えば、両親が商人だったならばその一部がDNAによって子供に伝承される。

それに加えてその子供は生後に親から商人というもののスキルの多くを学ぶ。

生まれつきと環境の両方から経験が積み重なっていく。

このように代々積み重なることで商人を上手くやれるようになるという話。

私の場合、親もサラリーマンでその親は農家だった。

更に遡れば、武士だった可能性が高い。

そうすると私はサラリーマン2代目ということになる。

老舗店に照らし合わせてみると2代目なんてのはまだまだ歴史が浅く経験レベルが低いと言えるのだろう。

サラリーマン3代目、4代目であるならば、もっとうまくサラリーマンができるということになるわけで、そう言われれば私なんかよりももっとうまくサラリーマンをやっていた人は確かにいた。笑。

※ここでいうサラリーマンは経営者(創業者)とは別物として分けて書いています。

これが何事においても世の中には、経験値の高い人がいるという道理なのだ。

もちろん初代でも努力によって上手くできる範囲もあるだろうけれど経験の差はやはり大きいものに感じられる。

後日同窓会があって、この話をすると参加者は武士出の者、商人出の者にキレイに分かれた。

そして、当時のそれぞれの言動と照らし合わせると面白いほど納得する内容だった。

現代までその経験は積み重なり、武士出は武士らしく、商人出は商人らしく、サラリーマンを努めてきていた。笑。

※サラリーマンの同窓会でした。

商人やサラリーマンについて学校で習うことが非常に限られている、とも言えるし、学校だけの時間では学ぶのに不足している、とも言えるのだろう。

もちろん一代でできることもあるが、一代でできることに限界があるのだ。

それだけ経験するべきことは多いとも言える。

この話に、経験値が人の一生というスケールを超えることが感じられて、日々の経験への重みが更に加わりつつも、一方ではできる範囲で経験しようと軽くもなるのだった。

人生の時間を何に使うのか?

そこで何を経験するのか?

一瞬一瞬に意味があるのだ。

私はこれまでどんなことを考えてどんな風に動いてきたのだろうか?

積み重ねた経験からどんな独自の型を作ってきたのだろうか?

これには少し時間をかけないとわからないし、自分ではわからないこともあるのかもしれない。

ここでふと我に返る。

この素晴らしきGWに時間があると家にこもって、「キレ芸」はどうして面白いのか?なんてことを分析している私。汗。

面白ければそれでよくて、理由なんてどうでもいいではないか?

このどうでもいいことについて、なぜなんだろう?という疑問が生まれてしまう。

そしてその理由について四の五のと考えていたいのが、どうやら”私”のようだ。

ハッキリした目的があるわけでもなく、その経験が何になるのかもわからない。

それでもとにかく興味が湧くし面白いからそれを経験したい自分がいて、私にはそのような経験が積み重なってきている模様なのだ。

この経験によって見えてくる何らかの型が、これが良いも悪いも個性ということになる。

無意味だと思えることの積み重ねがその人らしさに結実し、その個性が何かの影響を周りに与えるようになる、というように感じる。

経験が最終的に何か(聖人のようなもの?あるいは人間国宝のようなもの?)に到達するのはわずかだろうし、経験でどの程度稼げるのかさだかではないのだが、らしさをうまく社会に適用して、らしさを周り提供して人生を全うする。

その人が可能な範囲で経験すること自体がその人の人生であって、最後にその経験によって自分が何者だったのか、少しでもわかって終えるのが当たり前のようだが大切なのことだ。

ずいぶん離れたところに着地してしまった。汗。

GW、ここでお出かけをすることでその経験は積み重なる。

そして道は違えど、家にこもってもその経験はまた積み重なる。

「キレ芸」から瞬間瞬間の大切さを学んだ。

瞬間瞬間を味わっていこう!

UnsplashNoah Buscherが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

何事も経験が大切。

”怒る”ということだって時には経験しないと生存能力が薄まるように思います。

「キレ芸」に代行していただくことも含めて、適度に露わにしていきたいものです。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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