RYO SASAKI

「感性を高める」ための探索が続く。~思考と感覚のせめぎ合い~

タナカ シンゴ

「感性を高める」という言葉は私にとって魅力的な言葉だ。

この言葉には二つの意味があると思う。

一つには、持って生まれた感覚を呼び覚ますこと。(以下先天的感覚と呼ぶ)

一つには、経験を積み重ねることで引き出しを増やして、そことの紐づきによる感覚(感情・判断)を豊かにすること。(以下後天的感覚と呼ぶ)

私は、「感性を高める」ことに今ハマっている、と言ってもいい。

ブログにもいくつか書いてみて、最近では修験道につながったりもしたりもした。

「感覚」を大切にするためには、

まずはその言葉のどおり「感じること」を意味のあることである、と認識することから始まる。

そうした上で、感じる時間をたくさんもつこと。

自分に素直であること。

などと一旦は結論づけたのだが・・・。

すると今度は、別の不安がもたげてきた。

この結論はどうも漠然としてはいまいか?

さてはて、号令だけで私は本当に感覚を大切にできているのだろうか?

以前よりも感覚が鋭くなっていると言えるのだろうか?

感覚が鋭くなっているならば、何によってその変化を感じたらいいものだろうか?

感覚と思考のバランスはどうなっているんだろうか?

比較対象もないし、外からの評価もできっこない・・・。

こんなんだから、最近は目に入るものすべてに対して「感性を高めるには?」を意識して眺めるようになってしまっているのだった。

そんな気が気でない状態なので、今回は拙速にも私に見えた日常の中から「感性を高める」方法を探りだしてみたいと思う。

バンジージャンプにみる

まず、そんな私に引っ掛かったのがバンジージャンプだった。

TVでバンジージャンプをするのを観ると、すぐに飛び降りられる人と、飛び降りられないまま何十分もその場に立ち尽くす人がいる。

この違いはどこから来るのか?

本能があんな高いところから落ちたら、生命の危険がある、あるいは、落ちる時に身体にかかる重力負荷が嫌だ、などと察知するんだろう。

一方の思考は、ワイヤーでしっかりつながっているから、危険はないと理解しているはずだ。

これは、本能からくる感覚と思考がせめぎ合っている好例なのではないだろうか?

このケースでは思考が勝った人の方が飛び降りられるのだ。

人間は、危険に晒されると危機回避のためにアドレナリン(脳内ホルモン)が出て気持が良くなる。

バンジーにもその気持ち良さがあって、飛ぶ、飛ばないは、この危険・不快と気持ち良さの天秤で判断されるものなんだろう。

バンジーを飛ぶには感覚を捨て去って思考を信じることが大切、となると、バンジーは本能を騙くらかすようなアクティビティーのように思える。

「感覚を大切に・・・」に対してはあまりふさわしくない例だった。

ただし、この例でわかることは感覚と思考がせめぎ合うということだ。

そして、一瞬で飛ぶ飛ばないを判断しないとならないならば、絶対に本能が勝って飛ぶことに抵抗を示すはずで、時間をかけるから思考によって飛ぶという判断になる。

瞬時の判断では思考の入る余地がなくなる。

人間の飛ぶことに瞬時に抵抗はする身体感覚は生き るために不可欠なもの。

このことから、身体感覚を磨くには瞬時で判断する動きをするのがいい、と今一度理解するのだ。

スポーツがよいとされるのは、健康面以外にこれも一つの理由なのだろう。

最近では、反射神経を要するeスポーツ(シューティングをはじめとしたゲーム)なども出てきている。

そして、バンジーの人工的なハーネスとゴム?ではなくて、自然に身をさらして想定外のことが起こりうる場所に身を置く。

すると、瞬時の対応を迫られる。

これが「感性を高める」ことにもなる。

そうだ、これがまさに修験道がやっていることそのものなのだ。

絵画鑑賞にみる

「感性を高める」ために、絵画などの美術品に触れるのがよい、とよく言われる。

しかし私は、絵画展に入ると「すごいなあ」と感心するだけでひとなめしてすぐに出てきてしまうような人間だ。

感性を高めるための糊代がでかい、期待の新人といったところだろうか。汗。

絵画を味わう方法として、

ひとつの作品に時間をかけてじーっと見つめて、そこで湧き出てくるものを感じてみる。

ということらしい。

早速フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』で試してみることにした。

出典:フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を詳しく解説!モデルの女性は誰?

以下がじっと見つめた感想だ。

この絵がすごく好き、というわけではない。

ただ、青い色と光が際立っていて印象的に残って綺麗だ。

目玉と真珠の光がつやつやですごい。

暗い。夜なのか?自然光ではない。光を当てて際立たせている?

可愛い子。化粧もしている。

いくつだろうか?

口が緩い、少し目がロンパリ(斜視)か?

幼いからか?あるいは外人だからか?異性として一目ぼれはしない。

いつの時代の人を書いたんだろうか?

こんな真珠を持っているということは裕福な家のお子さんなのか?

このまなざしは何を訴えているんだろうか?

警戒がないものの、大きな喜びも感じられない、不意に振り返っただけかもしれない。

それでも、根底には未来に期待しているような気がする。

がんばったつもり、もこれが限界。

今度は「絵画鑑賞の手引き動画」を観てみると、

鑑賞の仕方に正解はなくて自由なのだが、敢えて上げるならば画像の項目を味わうのがいい、とのことだ。

この絵が、鑑賞者の過去の全く別の記憶に結びついて懐かしさを感じることもできる。

また、この絵の作者や書かれた背景を学べば、私が疑問を持ったような内容がハッキリして、更に深く味わうことができる。

更に、自分で描く人ならば構図やタッチなど技術的なところでの自分との比較を味わうこともできるんだろう。

私の感想が薄っぺらいのは、無知ゆえにいくつかの要素が不足している面もあるようだ。

でも、絵画も歴史も学ばなくとも、学んでいない人はその範囲でそれなりに感じればいいんだろう。

とどのつまりは、感覚を研ぎ澄ますというのか、感覚を取り戻すというのか、そのためにはその人らしく何でも感じればいい、ということだとわかったような気がする。

そしてそこには勝手に思い出して、あるいは勝手に連想して、物語を創ることすら入ってくるんだ。

感想を続けて物語を創ってみると

「この子はやはり、いずれお金持ちの人に嫁ぐんだろうか?

 金持ちだけで性格の悪い奴ではなかろうか?

いや、既にこの真珠は婚約者からの貢物ではないだろうか?

そうでないと真珠にとても違和感がある。」

「老婆心ながら・・・」が枕に似合う創作文になってしまった・・・汗。

でもこんな風に感じることに制限はないんだろう。

感想も創作物と言ってもいいのかもしれない。

知識があればあるほど絵画を愉しめることはまちがいないが、逆に知識がなくて絵画を愉しめる人の方が、感性が高い、あるいは、創造力が高いと言えるのではないだろうか?

もう一つ思ったことがある。

私のいくつかの感想の前半は、自分の子供の頃でも持ちえた感想で、後半はこの絵の背景を知りたいといった大人の知識からくる思考的な感想になっていることだ。

冒頭の先天的感覚と後天的感覚にあてはまる。

知識がなくてもそこにあるものが先天的な感覚。

ここからわかることは、サビ着いた大人の私がその感性を高めるには、まずはこの2つの感覚を認識すること。

そして、後天的感覚が先天的感覚を邪魔しないようにすることなのだと感じる。

後天的感覚も大切だが、先天的感覚こそがもっとも自然な自分であって、これがより重要なものだと感じるのだった。

芸能人格付けチェックにみる

お正月恒例の「芸能人格付けチェック」というTVバラエティーがある。

高額な物とそうではない物を比較して、高額な方を当てるというクイズ番組だ。

出題するのは、ワイン、肉、演奏、ダンスなどなど。

これまでは、口も耳も目も肥えているはずの有名芸能人が、本物を見極められない様が痛快で、自分とさして変わらないじゃないか・・・などと安心を愉しんで笑っていたのだが・・・。

今年は、ふとした思いが降りてきて以前と異なる面持ちで、「芸能人格付けチェック」に向き合うことになった。

私も本気で本物を当てにいくことにした。

対象問題は、TV越しでも判断できる以下の3問。

①ビッグバンド(管楽器を中心とした15名以上のジャズオーケストラ)

 プロ と 学生

②弦楽六重奏 

 楽器:名器揃い 総額70億円 と 音楽教室から借用 総額600万円

③ダンス

 プロ と アマ

結果、3問すべて迷わずにしかもファーストインプレッションで当ててしまった!

なぜ取り組もうと思ったのかというと、この格付けチェックというもので、私が持っている感性が高まっているか、をチェックできると思ったからだ。

注意したことは、ザックリと、というか、漠然と、というか、ゾクゾクする方、胸踊る方、好きな方を選ぶこと。

「バイオリンの高音が出ている」

とか、

「ピッチ(音程)が正確」

だとか、

「抑揚がしっかりとある」

といったようなパーツでの判断に持ち込まないことにした。

パーツによる判断には思考が入ってしまうように感じたのだ。

説明できた瞬間にそれは言葉になるから思考であって、何となくの状態のままこそが感覚なはずだ。

そして、フェルメールの絵画同様に、本来の感覚というものは例え子供で知識がなくっても感じられるはずだ。

これが本来の感性のはず!

それでも、ファーストインプレッションが起こった後に、不安で思考に頼ろうとする自分が確かに発見できた。

その思いを振り切って思考を無視しようと試みた。

出演者のあるミュージシャンが、選んだ理由としてこのようなパーツを分析したコメントしていた。

そして正解を外した。

プロ(専門家)でもそうならば、演奏もダンスもド素人の私が、パーツで判断することなんてチャンチャラおかしいことなのだ。

後から、何とか踏みとどまった自分に気づいて、胸を撫でおろしたのだった。

そのヨミが当たってか?見事な3連勝だった。

ド素人であっても、好き嫌い、ワクワク、ドキドキは感じられるんだ。

たぶん私の小学生時代でも、頭が入れ知恵しなければ当てられていただろう。

根拠はないが何だか自信がある。

んっ!既にいらん知恵がついた小学生だったかも、とも思い返し、急に自信はなくなってしまった。汗。

恥ずかしながら、これが、私の新年初の幸せだ!笑

なんとささやかな満足、ささやかな幸せなんだろうか?

さて、私の感性は高まっているのだろうか?

この格付チェックで測れたかどうかは定かではないが、他に手立てがないからしようがない。

唯一の頼りが、以前に私がこの格付けチェックを当てに行って、これだけ圧倒的な3連勝をしたことはなかったということだ。

新年早々めでたいから、感性は高まっているということにしようか。

感性を高める

「感性を高める」と言っても感覚には様々なものがあって、それぞれがまた複雑でもある。

なので、「感性を高める」ための方法をここまでの数例で語ることはとても十分だとは言えないことは間違いないのだが、それでもここまでで一旦まとめておきたい。

・瞬間の言葉にならない(言葉になる前の)感覚を大切にすること。

 →焦って言葉にしてしまうと思考に寄ってしまうので、文章書きは注意しないとなるまい。

・先天的感覚と後天的な感覚を区別してみること。

 →湧き上がる感覚が、子供の頃でも同じように感じられるものなのか?を確認してみる。

・対象はなんであっても対象への感想は個人の創作である、ということ。

 →創造とはその人しか持ち合わせない感覚の積み重ねの先にある。

などと偉そうに言っておいて、自分の絵画の感想が常識的な域を超えてないことに気づいてしまった。

変なことは言えないという思考が未だに立ちはだかっているのだ。たぶん。

などとまだまだ迷いつつ、次に読み始めた本の一節を最後に紹介する。


「頭」は「共通認識」と「常識」に囚われてしまい、「同じ」に向かう。

~中略~

ロジカルシンキングはおなじ(一つの正解)を増やす

アートシンキングはちがいを増やす

この言葉は思考(頭、ロジカルシンキング)と感覚(アートシンキング)をまた別の見方で説明してくれるものだ。

ここにおいては思考と感覚はその目的が正反対のようにも見える。

ならば、思考と感覚がせめぎ合うのは当然のことだと思える。

そしてまた、感覚こそが、個性を出して生きる、あるいは、自分らしく生きる、ために唯一必要なものであると感じる。

更にはそれぞれ異なる、私の、そしてあなたの感覚がアートにつながっているんだ。

ならば、私の実に常識的な感想は、アートの糊代がまたまた大きくて期待大ということか。笑

みんなと「おなじ」を目指していた私が、ここからみんなと「ちがう」を目指すという転換なのかもしれない。

こんな風にグネグネと蛇行しながら、私の「感性を高める」旅はまだまだ続くんだ。

UnsplashNazim Zafriが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

お酒の飲み比べというイベントも味覚を研ぎ澄ます方法ですね。

普段の食事はそこまで味の違いを吟味しながら食べていないものなので・・・。

感性が高まったことを測る方法でもっといいものがみつかれば、また書いてみたいものです。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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