「共感」や「感情移入」が、人間社会をちゃんと社会の形としてキープさせ続けている「要石」のようなもの。
少し前にNHKオンデマンドで下記の番組を視聴した。
番組内では、2022年11月に公開されたアニメーション映画「すずめの戸締まり」に込められた新海誠さんご自身の思いや制作意図が丁寧に語られており、私は視聴することで作品の解像度を大きく高めることができた。
ここから映画「すずめの戸締まり」について触れていきたい。
個人的な感想から先に言ってしまうと、宣伝で「集大成にして最高傑作」と謳われていたがそのコピーの体を現すに相応しい内容だったと思う。
朝一番に鑑賞したのだがその日は一日興奮が収まらなかった。
※以下、若干のネタバレを含むため未鑑賞の方で、少しもネタを知りたくないという場合は作品の鑑賞後にまた戻って読んでいただければ幸いです。
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今作「すずめの戸締まり」の中核にあるのは「東日本大震災」という私たちが忘れもしない、2011年3月11日に起こったあの「自然災害」である。
新海さんのこの作風は何も今にはじまったことではない。
2016年の「君の名は。」 では「隕石」が。
2019年の「天気の子」では「大雨による水害」が。
ここ数年の間に公開された新海さんの作品の中核には必ず「自然災害」がある。
自然災害というのは、誰の身にも降りかかる可能性がある、自分の生活を左右するような大きな出来事。
そういったものを描写することで、物語の世界が自分たちと地続きにあるんだと感じられる。
映画自体にもある種の強度が加わると思うんです。
参照:新海誠はなぜ自然の脅威を描くのか?10年間での変化と今
映画の中で「現実」を扱うことで、観る側はより「自分事」として物語を捉えることができ、没入し、感情を揺さぶられるのだろう。
実際の映画の内容は、
主人公である「岩戸鈴芽」という女の子と、閉じ師でイケメンで大学生の「宗像草太」が、ロードムービーのような冒険を通して、日本各地の「被災」、少子高齢化、無縁社会化による「地方の荒廃」を経験しながら、忘れられつつある「東日本大震災」に再び対峙する。
こんなあらすじである。
日本列島の下をうごめく「ミミズ」を封印するためには二つの「要石」が必要
もう少し作品の詳細に触れていきたい。
本作は日本神話の始まりの地である「宮崎」から物語がはじまる。
その後、愛媛、兵庫、そして現代日本の中心地である東京(お茶の水あたり)を経由した後に、日本最大のトラウマの地「東北(宮城)」へと物語は進んでいく。
人がいなくなってしまった場所(荒廃した場所)には「後ろ戸」と呼ばれる扉が開くことがある。
後ろ戸の中には「常世(とこよ)」と呼ばれる死者の世界があり、後ろ戸からは現世に災いが現出する。
その災いは「ミミズ」と呼ばれ、日本列島の下をつねにうごめいており、大地震を引き起こすほどの巨大な力を有する。
ミミズが引き起こす大地震を防ぐためには「後ろ戸」の扉をきちんと閉め、しっかりと鍵をかけておかねばならない。
それが「閉じ師」の代々の仕事であり、草太はその仕事を果たすために日本各地を転々と旅をしていた。
閉じ師の草太が扉を閉じる時に唱える祝詞(のりと)もなかなかに印象的だった。
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かけまくもかしこき日不見(ひみず)の神よ。
遠つ御祖の産土よ。
久しく拝領つかまつったこの山河、
かしこみかしこみ、謹んでお返し申す。
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そして、本作のキーアイテムとなっているのが「要石(かなめいし)」である。
要石は、日本列島の西に一か所、東に一か所、合計2つがしっかりと刺さっていることでミミズをなんとか封印できているという設定。
もしも一つでも抜かれてしまえば、ミミズは封印を破り、後ろ戸から現れ、その巨大な力で地震という災いを引き起こしていく。
言い換えれば「要石」があることで、日本列島はギリギリ今の形を保つことができているのだ。
そんな「要石」の一つ(宮崎にあった)を主人公の鈴芽がたまたま抜き取ってしまう。
本作はこれを端にして物語が大きく動いていくのである。
「共感」や「感情移入」が人間社会の形をギリギリ保っている「要石」
ここで冒頭の番組の話に戻りたい。
新しい発見や気づきが多く終始面白い番組だったのだが、私に特に刺さったのが「共感」や「感情移入」が人間社会の形をギリギリ保っている「要石」のようなもの、という新海さんの言葉だった。
思うに、これは本当に金言だ。
以下、桑子キャスターとのやりとりからご覧いただきたい。
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桑子 真帆キャスター:
最後に、エンターテインメントとしての力はどういうものだと思いますか。
アニメーション監督 新海誠さん:
災害に関していえば、寄り添うとか、励ますとか、慰めるということが作品でできるとは思っていないんです。でも、できると思っているのは、やりたいと思っているのは「共感させる」ということはできると思うんです。感情移入してもらうということはできると思うので。
自分はあの場所にいなかったけれど、あの場所にいたとしたらどうだったろうと。それがエンタメとしてうまく機能すれば、あのころ無関係だった多くの人が映画を見てる最中に鈴芽になることができたのではないかという気はして。それが実はエンタメにしかできないような、何かを考えることなのではないかと思うんです。
誰かに共感するとか誰かに感情移入するというのは、人間のすごく大事な不思議な力だと思うんです。何で誰かに僕たちは共感できるの?って、不思議に思うじゃないですか。
桑子 真帆キャスター:
確かに、他人なのに。
新海さん:
自分のためだけ考えて歩いていけばいいのに、僕たちはそれができないわけです。共感や感情移入が、人間社会をちゃんと社会の形としてキープさせ続けている。ぎりぎりの要石のようなものだと思います。
この映画を見て、観客が鈴芽になることができたとしたら――これはすごく大それた話ですけど、少しだけ社会の空気が吸いやすくなるというか、人が人に共感することがもう少しだけ増えると、その分だけ社会は寛容になるわけじゃないですか。そういう社会にするために、少しだけエンタメができることがあるような気が僕はしています。
そのための能力のようなもの、語る能力のようなものが欲しくて欲しくて、もっと向上したくて。そこは止まらないというか、それが欲しいですね、僕は。
(太線は筆者)
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いかがだっただろうか。
「すずめの戸締まり」の中では「ミミズ」を封印し、日本列島の形をギリギリ保っていた「要石」が、現実世界の人間社会においては「共感」や「感情移入」がそれに当たるのではないだろうか?といった考え方を提示してくれているのだ。
この考え方が個人的には本当に深く刺さり感銘を受けてしまったことから、本稿のタイトルにも使わせてもらっている。
しかし、一体なぜ私の心に深く刺さり、大きな感銘を受けたのだろうか?
色々と思考を巡らせる中で今暫定的にたどり着いた理由は以下のとおりである。
・「共感」や「感情移入」が人間社会を保つ上ではとても大事だと長らく考えてきたところがあり、新海さんも同じような考えを持っていたことが分かったから
・この同じような考えを、映画の重要なキーワード「要石」と見事に結び付けて喩えられていたから
映画鑑賞した後というのも強く影響したのか、私には新海さんの発した「要石」という言葉が、本当に一際光を放って見えた。
「共感」も「感情移入」も「類似の感情を経験をしたことがある」から生まれるもの
では、人間社会をちゃんと社会の形としてキープさせ続けている「共感」や「感情移入」という「要石」は、どのようにして刺すことができるのだろうか?
今までの経験をふまえて思うに、相手と「類似の感情」を経験し、抱くほかない。
類似の感情としたのは、どんなに同じ「体験」をしたとしても、それによる「経験」は人によって異なるため、全く同一の感情を抱くことはないという考えがあるから。
(ちなみに、体験は「〜したことがある」「〜に行ったことがある」に対して、経験は「〜したことがある」「〜に行ったことがある」によって多少なりとも感性や価値観が変わりその人の在り方が今までとは違ったものになるような変化、として区別している。)
例えば、2022年サッカーカタールW杯で、強豪国ドイツ戦とスペイン戦での劇的な勝利の瞬間に立ち会っていた人たちが抱いたあの「興奮」という感情。
とはいえ実際には「興奮」のその度合いも中身も人によって異なる。
しかし「類似の感情」を抱いたことには違いない。
そしてだからこそその点においては相手に「感情移入」することができ「共感」することができる。
もう一つ、自分の話になってしまい申し訳ないが、私は昔バイク事故をしたことがあり、その入院生活中に「後悔」「悲しみ」「自己嫌悪」「孤独」「不安」「無力感」といった感情を強く抱いたことがあった。
先日、手術入院をして復帰したばかりという知人の話を聞くことがあったのだが、その方の話に「感情移入」をして「共感」し耳を寄せられたのも、私が実際に入院経験の中から「類似の感情」を抱いたことがあったからなのだと今思う。
最後に、2022年末に公開された映画『THE FIRST SLAM DUNK』を観た人の多くが「感動した!」「もう一度観たい!」というコメントを残していたのを見かけた。
これも作中に「絶望」「希望」「屈辱」「自信」「意気消沈」「感謝」といった様々な登場人物の感情が散りばめられており、その類似の感情を多くの人が経験したことがあったからこそ「感情移入」し「共感」できたのではないだろうか。
前出のいずれの場合にしても、もしも類似の感情を抱いたことが無かったとすれば「感情移入」も「共感」もおそらくできていない。
「共感」にしても「感情移入」にしても「類似の感情」を経験をしたことがあるからこそ、生まれるものなのだ。
少なくとも私はそう思う。
これからの人生も様々な感情を目一杯感じていきたい
「共感」や「感情移入」が人間社会にはとても大切。
私はこの考え方を持ってここ数年の人生を歩んできた。
数年前に書いた下の記事もこの考え方に関連するものだ。
関連記事:「他者に寄り添えるひと」が根底に持っている力について。
他者へ寄り添うためになくてはならない力(=根底にあるべきもの)は「痛みへの共感力」である、という考えを個人的に持っています。
今回その経営者の方が私に話してくれたエピソードは、この考え方を補強してくれるような内容でした。
やっぱり自分も同じような痛みを分かっているからこそ、その痛みを抱えている誰かに対して寄り添うことができるということが基本形だな、と思ったわけです。
そうでなければ、一見寄り添っているように見えても、それはいい人そうに見える偽善者なのかなと。
SNSを見ていると、『他者に寄り添うことが大事!』といった話をちらほらと見かけます。
これは誰もが認める大事なことだと思うのですが、本当に重要な箇所を見落としていないかどうか、自分自身をチェックする癖は常にもっておくべきだろうと改めて思っています。
そしてここで、偶然にもこの考え方をレベルアップさせてくれる本当に素晴らしいと思える「他者(新海誠さん)の考え方」に出会うことができた。
この出会いによって、これまで以上に「感情を感じる機会を遠ざけず、めんどくさがらず、これからの人生も様々な感情を目一杯感じていきたい。」という思いを強くしている。
他者の考え方との出会いはこういうエキサイティングな現象が起こるからこそ追求するのをやめられない。
本当に金言だと思うので最後にもう一度。
「共感」や「感情移入」が、人間社会をちゃんと社会の形としてキープさせ続けている「要石」のようなもの。
UnsplashのZoltan Tasiが撮影した写真
【著者プロフィールと一言】
著者:田中 新吾
プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスクと時間を同時に管理するメソッド)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|「お客様のプロジェクトを推進する歯車になる。」が人生のミッション|座右の銘は積極的歯車。
●X(旧Twitter)田中新吾
●note 田中新吾
10代20代の頃は感情をだいぶ遠ざけていたのですが、30代になってから感情を大切に扱うようになったのは歳のせいだからなのでしょうか。自分という人間の変化が本当に面白いです。
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