RYO SASAKI

固定観念からの解放によって、また新たな固定観念が産まれる。いくつになっても未だ迷える。

タナカ シンゴ

このブログでは、何度も固定観念というものを悪しきものとして書いてきた。

こうでなければならない、そうならないと問題だ、というような観念が人それぞれにある。

その観念が必ずしも万能ではないから、そんな束縛から解放されてしまおう!と試みているのだ。

そういった固定観念に少しずつ気づくと、如何に自分がこれまで(自分が思うところの)常識というレールの上だけを歩いてきたかが、わかるようになる。

自分はそのレール上に閉じ込められて、閉じ込められているということの不快さすらも感じることなく、自分の個性というものを失って生きてきたのだ。

固定観念に気づこうという試みは、これまでの自己否定ではあるが前向きなものであって、生きている間に気づいて良かったと思うものではある。

レールの上 ⇒ レール外

思考    ⇒ 感覚

没個性   ⇒ 個性

しかし、固定観念を解放して、上記左から右の両極を渡り歩こうとしている最中に、自分の中にまた新しい固定観念ができていることに気づいてしまったように感じた。

レール外に、あるいは思考ではない感覚に、そして自分の個性というものに焦がれる思いが強くなることによって、これまでの自分のレールの上の経験のすべてを、そして自分のこれまでの没個性を極端に嫌うようになってしまっていたのだ。

その嫌悪感は、そこに導いている社会、その中でも特に学校教育というものを恨むまでにどこか大きくなっていやしないだろうか?

そんなことまで感じ始めた。

そんなことから今回は、気づくに至った新しい固定観念がどんなものだったか、について、気づいたキッカケになった音声や書籍と一緒に紹介してみたい。

私という者は、いくつになっても迷える子羊なのだろうか・・・。

※ちなみに、動物占いで私は「チャレンジ精神旺盛な羊」どうでもいいことですけど。笑。

「個性」とは何か?

「個性」について語っている小林秀雄さん(文芸評論家、作家、他)の貴重な講演に耳が留まった。

その主な骨子は以下のようなもの。

昨今の作家は、作品に(自分の)「個性」を出そう、「個性」を出そう、と言っているのだが、それは本当の個性ではない。

その個性は自己中心に考えられたもので単なる癖であって、それは例えば鼻が高い、というような顔の特徴と何も変わらない。

本来の個性は、その癖を直そうと努力して克服した先にやっと現れるものである。

(抜粋、要約)

癖はそれだけで個性とは言えない、ということのようだ。

私は、もちろん作家さんのレベルとは別物だろうけど、自分も同様のことをやっていたので、ハッとさせられた。

没個性からの脱却に焦がれる私は、感覚を大切にしようとして、思ったことを素直に言うようになった。

しかし、その感覚任せの言動には自分勝手なものがあったり、常識ある人は言わないようなものもあることは否定できないことだ。

それでも、その自分勝手さと非常識さが今まで抑えてきた私の個性の現れなのだ、と、どこか自分を肯定しているようなところがあった。

個性を出すことで周りから多少ウザがられるのは覚悟のこと、としながら。

こんな風に自分の個性を出していくのだ、と何となく捉えていたのだ。

この何とも前向きで拙速な癖?を持つ私らしい捉え方を眺め見て、恥ずかしいやら苦々しいやらいろいろな感覚がわき上がってくる。

そして、この講演の言葉に妙に納得してしまう自分がいるのだ。

個性なんてものを拙速に意識するものではない。

我慢の末に滲み出るものが個性なのだ。

教育と意味づけの分別

同じく小林秀雄さんと岡潔さん(数学者)の対談本の中にはまた別で「教育」について解説しているところがある。

『人間の建設』著:小林 秀雄、 岡 潔

論語の素読(あるいは暗記)にどこまでの意味があるのか?

論語を読ませるという行為自体は容易いことだが、では論語の意味は何か?と言えばそれは非常に曖昧なものである。

人によって、あるいは年齢によっても理解できる意味が異なるし、一生わからない意味が含まれているかもしれない。

丸暗記するだけの教育がハッキリした教育なのである。

(抜粋、要約)

レールの上を嫌う私は、常識を丸暗記させるような学校教育に恨みすら持つようになっているようなのだが・・・。

ここでは、「(常識やら、論語やらに)触れさせること、知らしめることが教育であって、それに意味づけするのは個々がやることである。」

というように学びというものを中で区別している。

論語についてどう感じるか、どんな意味を持つものか、はそれぞれが考えていくことだと言うのだ。

自分の生活に役立つものとして何かをとり入れるのか?

それとも、もはや現代社会にはフィットしないとして敬遠するのか?

あるいは、もっと参考になる書が別にあるとするのか?

意味づけは無数にある、ということになる。

岡潔さんも、

教育は(古典の)すがたを親しませることはできるが、理解させることはできない。

とこれに同調している。

ちなみに、私が最初に論語を知った時の論語に対する私の意味づけは、入試に出るか出ないかだった、と思い出す。

それ以外、中身に意味づけすることはなかった。

このように、学びには2つのステップがある。

知ると意味づけする。

この二つは別物なのだ。

そして、「知る」はわりと段階的に進むものだが、「意味づける」は、段階的にはまず進まない。

(イメージ図)

あるものに親しんでいるうちに、もう少し具体的に言うと、あるものに対してああでもない、こうでもないと考えているうちに、「そうか、こういうことか!」と意味づけがひらめく事があるものだ。

ある時突然に、これまで未知だった世界が広がる、といったような感覚。

この感覚は私もちょくちょく経験していることもあって、また納得するものだ。

新たな固定観念

さて、ここまで「個性」と「教育」についてひとつの解釈を知ったところで、今度は私なりの意味づけしてまとめてみることにしたい。

個性を出すために、これまで抑圧してきた私の感覚を外に表現していけばいい、あるいはこれまで言うのを控えていた常識の逆のことを外に表現していけばいい、と私は単純に思った。

そしてまた、没個性となる原因が学校教育の丸暗記にあると思い込もうとしていたのだが、それは学びの一部、ステップ1の話であって、ステップ2の意味づけのことではなかったのだ。

ステップ2の意味づけをしなかったのは、私の意志による選択だった。

知ったことを入試に受かるという意味づけにしかせずに、それ以外の意味づけをすることを拒否した、ということなのだ。

なんなら、自分がするべき意味づけまでどこぞの正解というものを持ってきて、暗記してしまっていた。

今思えば、私の学びは本来の学びには遠く及んでいなかったと言わざるを得ない。

とすると、没個性の原因を単純な学校教育の方法にあるとは言えないのだ。

※ここのところは、家での教育、入試の方法などいろいろなものに絡まってかなり難しいとは思うが、今回はここまでに留めることにする。

これが、私が過去の固定観念から解放されて、レールから外れること、そして自分の個性を求めた時に発生した新たな固定観念と言えるのだろう。

また、浅い底に突き当たってしまった。

個性とは、知ることではなくて、自分の意味づけを積み重ねることによって後ににじみ出るものでもあるのだろう。

その意味づけには今回のような固定観念となるものも多々あって、それが何度も塗り替えられた先に個性が現れる、と言うことができるのかもしれない。

私はそのような意味づけを避けてきたのだから、個性が出るまでもないのだ。

さて、ある人にレールの上を歩き続けることにウンザリしたと言ったら、逆に「でも、レールの上を歩けない人は、ズルいことをして生きるしかないんだよね。」と返ってきた。

確かにそのとおりだと思った。

あらためて社会には多くの人が納得できるルールがある。

私には、そのルールを破る=レールから外れる、ということが美しく見えてしまった。

その反動で、今度はレールの上を歩くことの価値なんてのないのだ、という極端に振れた、と言えるのだろう。

個性を出すことは、レールを外れることとイコールではない。

個性を出すということは、度重なる自分の癖の克服、そしてそれによってルールと調和することにある、ということなのだろう。

そんな意味づけを自分に刻むに至るのだった。

最後に・・

今回私が至ったこの意味づけも、また拙速である私の癖によるところの新たな固定観念なのかもしれない。

それでも過去の固定観念をひとつ解放して、固定観念を積み重ねた、という意味はあると思う。

これからは、自分の一時の感覚、そして一時の結論で個性だ!個性だ!と急ぐことなく、まずは自分の癖を認識することからじっくり始める。

そしてその癖ー例えば代表的な拙速であるということーを克服してルールと調和する。

迷いながらもこういったように進んでいきたいと思う。

孔子先生、あなたは「四十にして惑わず」と言ったらしいが、それをとうに過ぎている私はまだまだ迷っているし、これからも迷ってしまうような気がする。

しかも、論語に対してやっとできた私の意味づけがこんなモラトリアム(執行猶予)でしかないとは、お粗末としかいいようがない。

重ねてご容赦願う。

一方小林秀雄さんは、こんなことを言っていた。

「最近のインテリは迷いもしないし、悟りもしない。

ならば、そこに何の価値もない。」

この真意を私がわかったとはとても言えないのだが、この言葉にまた拙速にも少しだけ救われながら、引き続き迷っていきたいと思う。

UnsplashSander Sammyが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

小林秀雄さんの難文には、子供の頃何度もテストで痛めつけられたため、その時にこんな人の本は読んでも意味がない、という固定観念が出来上がりました。笑。

今回、読んでみるとそこには私でも何とか理解して、意味づけできる素晴らしい文章がありました。

子供の頃の固定観念を打ち破って?読んで良かったと思います。

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