RYO SASAKI

日常から私の純粋動機を探る。抽象的な哲学を具体的にしないと気が済まない

タナカ シンゴ

最近自分に起った変化と言えば、録画しているTV番組やチャネル登録しているネット動画の視聴が一向に進まなくなったということだ。

TV番組の録画容量には限りがあるので、容量が一杯になって削除する、を繰り返している。

以前はそんなことはなくて自分の見たい番組を順調に消費していってたのだが・・・。

このことに何か特別なキッカケも思いつかない。

特に仕事が忙しくなったわけでも、あるいは、新しい趣味ができたわけでもないのに、どうも食指が動かないのだ。

これは自分の明らかな変化だと思うのだが、この変化がどこからきているものなのだろうか?

意識的に頭で考えて起こした変化ではないので、自分でも説明できない。

この自分の変化の理由を無性に知りたくなった。

日曜日の周年イベント

「日曜日に周年記念イベントを開催!昼から店を開けます!」

SNSに行きつけの飲食店からの告知があった。

私は早い時間に顔だけだそうと思って出かけたところ、店はすでにかなりの混雑。

この店のお客さんにはいろんな年代の人がいるだが、その中心はやはり若い人だ。

この日も若い人が多い。

中には、以前何回か会ったことがある常連さんもいた。

お祝いのお花を持ってくる常連さん、趣味の蕎麦を打って差し入れる常連さん、と次々に来店してきて、店はあっという間にほぼ満席状態になった。

呑み始めて少し経った頃、モダンな年配夫婦がワンちゃんと一緒にやってくる。

ご夫婦は店内には入らず、外に一つだけあるテーブル脇にスタンディング。

寒い中で共に一杯ずつ飲んで「おめでとうございます!よろしくお願いします!」とみんなに声をかけて帰っていった。

「よろしく~」に違和感が残ったが、後からそのご夫婦は店主のご両親だと聞いて納得した。

お祝いのために遠方から駆け付けたらしい。

呑み進めていると何のキッカケだったのか、私は「この店で最も年上なんではないですかね。」と口から出てしまった。

店主から、「今日はそうかもしれないですね。」との返答。

店主が、ニコッと笑って矢継ぎ早に「最年長でしたら、一杯ご馳走してもらうなんてどうでしょう!?」とせがまれる。

手土産のひとつもない私には、断る理由が見つからず、流れのまま・・・。笑。

そんなこんなしながら、店は徐々に盛り上がっていった。

顔を出すだけのつもりだった私は、結局タンマリ飲んでタンマリ食べて店を出て、勢いづいて行きつけの店にハシゴしてしまった。

周年記念イベントのお店でタンマリ飲んできた、とハシゴ先の店の店主に伝えると、非常に素早い反応があった。

「うちは周年イベントっていう感じ、全くない、ねえ!?」

店主が隣の奥さんに確認するように顔を向ける。

「周年の時(今年は5周年だったようだが)は、死ぬか入院するかを選択してください、って医者から言われてそれどころじゃなかったし・・・。」

全く予期せぬ反応、私は言葉に詰まってしまった。

店主が体調が悪かったとは常連さんの話を漏れ聞いていたが、そんな重篤だったとは・・・。

奥さんは、何か言いたげだったが途中で言葉を切り上げた。

「(店主は)周年記念をしたいようなタイプじゃない」

あるいは、

「(うちに)周年記念なんて必要ない」

と言いたかったような・・・。

切り上げた言葉には、周年記念ができなかったことに、何の問題もなかったのだよ、とここまでを完全肯定するニュアンスを感じた。

今は元気に店に立つ店主と奥さんがなんとも微笑ましくて、一杯飲んでいい気分になって早々に退散した。

自分に在るものと自分が為すこと

翌日、以前に読んだ本をもう一回読み返していると、ある本の哲学的な言葉が目に飛び込んできた。

あなたの存在自体を地球の大きさだとすると、あなたが何かを為すことによって産み出した付加価値は、家一軒分くらいにしかすぎないでしょう!

これは「自分が何かを為さなければ存在価値がない」と憂う人々へのメッセージだ。

外に向けていた自分の意識を内側に向けることによって、自分の存在価値が簡単に見えるのです、自分に問いかける、という行為を通して・・・。

以前から興味を惹く本だが、再度気になってくる。

もう一度考えてみると、当事の自分はこの言葉をなんとなくわかったようにしていたことが、浮き上がって見えてくるようで・・・。

自分に既に在るものと自分が為すことによって産み出すもの。

これを分けて捉える、という考え方。

そして、自分に在るものを自分の内面に問いかけるとは?

わかりそうで突き詰めるとハッキリしないところが多い。

やはり、哲学というものは簡単ではない。

人は持って産まれた、その既に在るものによって、何かを為すものでもあるのだから、行為自体がもともと在るものから出たものなのか、そうではないところから出たものなのか、わからない・・・。

何とか自分なりに解釈してみることにする。

純粋動機(私利私欲ではない動機)によって為すことが、元々持っていた在るものから発生する行為ということに整理できるのではないか?

そして、自分に問いかける、とは自分の純粋動機を探ることであって、その純粋動機こそがその人の存在意義である・・・。

ここまで自分の言葉にしても、私の頭ではまだぼやけているような気がする。汗。

自分に在るものを問う

何事も具体的にしないと理解できないのが私の頭の足らないところで、具体的にしないと気が済まないのが、私の性分のしつこいところでもある。

先ほどの直近の日曜日の話は、その描写は自分の外のことに意識を向けていた外的日常の風景だけになっている。

その外への意識を内に向けてみるとは、どういうことなのだろうか?

私はどうやら、直近の日曜日を題材にして、先程の哲学を理解できないか?と思い始めたようで・・・。

例えば、こんな問いかけをしてみる。

周年イベントの店で、最年長と言われ、そこから一杯ご馳走するのは、私の見栄からきたものだったのだろうか?

お祝い事というものの一般常識への調和だったのだろうか?

イベントを盛り上げるために貢献したかったのだろうか?

それとも、店主の嬉しい顔が観たい、いや、店主を喜ばせたかったから?

いやなんか言葉がしっくりこない。

周年を労いたかった?

周年を盛り上げたかった?

いろいろ言葉を上げてみるが、どれも正確に表していないように思える。

見栄は、私利私欲動機(この造語を敢えて使うことにする。)に分類できることが多いとしていいのだろうが、お祝い事の常識に調和して、私が一杯ご馳走する流れのままに受け入れたのは、折角の周年イベントなのになんて気っ風の良くないおっさんだろうか?と周りから思われるのを避けたかった、とすれば、それはやはり私の見栄なのではないだろうか?

そもそも、私は、何で「自分が最年長?」などと言い出したのだろうか?

若者ばかりで居住いが悪く、周りに言われる前に、自分から言い出してわかってるよ、と居住いの悪さを少しでも緩和しようとした、のならばそれも見栄なのではないか?

最初からご馳走するつもりで、最年長を持ち出したのならば少しは良かったのかもしれないが、そのつもりが全くなかったのが正直なところだったりするからバツが悪い。汗笑。

そこには、純粋動機もあれば私利私欲動機もあるのかもしれない。

だが、私の見栄はそこかしこに見えるようだが、一方の純粋動機はハッキリ現れていないように感じる。

純粋動機とは、どのように浮き上がってくるのだろうか?

・・・・

続いて2軒目での私の言動は、どうだっただろうか?

自分への問いかけは続く。

純粋動機を探し求める

純粋動機は私利私欲動機に埋もれて、なかなか顔を出さないのだろうか?

それでも今回の題材、日曜日で感じる、私の純粋動機を強いて言葉にしてみる、”争いなく楽しい場をもちたい”というなんとも新鮮味のないものにしかならないようで・・・

そして、その純粋動機も自分だけが楽しいものに逸脱すると私利私欲動機になってしまうし、こちらの純粋動機が、他人からは私利私欲動機だと感じられることもあるんだろう。

純粋動機と私利私欲動機はそれだけ繊細に分けないとならないものなのかもしれない。

また、どう楽しくやるか?

純粋動機は、もっと具体的なものに現れるのかもしれない。

さて、今回は外への意識を内面に向ける、ということの触りのようなものに過ぎなかった。

明確な純粋動機にも行き着けず中途半端のままなのだが、とにかくこれをキッカケに、私の軽はずみで直感的な行為を後から振り返って、その理由を自分に問いかけてみること、これを習慣にしてみたい、そんな風に思った。

そして、自分の純粋動機を探るというチャレンジを、していきたい。

その結果が私利私欲だけでないことを願う。汗笑。

ーーーーーー

ここまで考えてきて、ふと思ったこと。

冒頭の今まで見たかったテレビ番組に食指が動かなくなった件、その変化の理由は、もしかしたら興味がこの外への意識から自分の内面にシフトしたことによるものなのかもしれない。

とはいえ、まだ確信は持てないのでもう少し自分を観察していきたいのだが。

この観察も自分というものの内面への問いかけになるのだろう。

あらためてここまでのことを眺めてみるとなんとも面白い。

頭がすべてをコントロールしているように思うが、その頭が理解していない自分がいる。

そう思うと余計にその理解してない部分を知りたくなる。

そんな自分のすべてを頭が知ることはないんだろうけど、それでも以前より少しでも自分に在るものを理解して日々を過ごしたいと思うのだ。

UnsplashPhoto Boardsが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

難しい哲学を日常生活とリンクさせて、理解しないと気が済まない自分がいる。

これがもしかして自分の純粋動議?そんなことを思ったりもしますが、これもまたハッキリしません。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日

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