RYO SASAKI

「思考」の反対語は「感情」ではない!言語化について思うこと。

タナカ シンゴ

人生において「思考」というものを優先してきた自分が、「感情(もしくは感覚)」というものをもっと大事にしようと方向修正を試みたのが数年前のことになる。

「思考」の反対語が「感情」である、という学校で学んだ知識があったので、感覚・感情を大切にするために、思考をしない(あるいは思考を減らす)でいる必要がある、という理屈に自ずと従うことになった。

この方向修正はまだ道半ばといったところだろうが、思考と感情が相反するものである、というこの沁みついた知識がそもそも間違いなのではないか?

そんな懸念がもたげるタイミングがあった。

もしそうならば、何とも些細な勘違いではあるのだが、ずいぶんもったいないことをしてきたように感じられてくる。

今回はこの懸念から始まって、「思考」と「感情」をもう1回捉え直した話をしてみたい。

『言語化』という思考

その懸念のキッカケになったのはこちらの本だ。

この本には、一般的に人は言語化が十分にできてないという問題提起がされていて、言語化を改善することで商品PR、若手の育成などビジネスが上手くいく、ということが主に書かれている。

人が言語化できていない、ということの根拠が、

「人間の意識のうち95%は言語化されていない。(ハーバード大学ジェラルド・ザルツマン教授)」

と示されている。

自分に照らし合わせてみると、確かに言語化しているのはまさにこのブログを書いている時だったり、人と交渉する時だったり、と限定されていることがわかる。

瞬間的に感じているものを都度都度言葉にしておらず、自分にまだまだ言語化の余地があることを思い知らされる。

この本でもうひとつ紹介されているものが、メラビアンの法則。

ずいぶん前に何かで読んだことがあった。

この法則は人と人とのコミュニケーションにおいて、影響を与えるウエイトは視覚情報55%、聴覚情報38%、言語情報7%である、というものだ。

読んだ時に、ノンバーバル(言語以外)が重要で、言語(わずか7%だから)には限界があるんだ・・・とだけザックリ覚えた記憶がある。

そして私は自分の中にある言語化というものへの意識を少し下げたように思う。

ところが・・・

このような理解がそもそも間違っていたようで、例えば人がムスッとした顔で不機嫌に話す時、その時の言葉の影響は7%に過ぎない、というのが本来言わんとしていることらしい。

このケースの場合において、話す言葉の中身よりもムスッとしている情報、不機嫌な声の方が相手にとって気になるもの、ということのようなのだ。

だから、単純に言葉が7%しか影響を与えない、というのは明らかに誤解だったのだ。

少し考えれば、コミュニケーションにおいて言葉がもっと影響していることはわかりそうなものだが、私は疑いもせずにこの法則を鵜呑みにしていたようで、そのまま沁みついてしまっていた。

そしてこの理解が、その後私が本を読むことを避けたり、どこか言葉を雑に使ったり・・・そうすることの都合のいい言い訳になったように思う。

更に私の場合、これに冒頭の思考の抑制が加わる。

言語にするという行為は思考そのものだから、思考を抑制することは言語化を抑制することでもある。

感覚を大切にするには言語化を抑制しなければならないのだ!と一方で理屈づけてきたのだ。

これらの理屈がたまたま私の中に重なって知らず知らずに自分の中で言語化を抑制してきたということになる。

思考と感情は相反しない!?

こんなような経緯から、私は今回気づいた大きな勘違いとは・・・

言語化するという「思考」は「感情」と相反するものではない、ということ。

この「思考」は、むしろ感情を強化して、結果「感情」を大切にするものである、ということだ。

感情や感覚を表現する最も代表的な手段のひとつが言語であって、感情や感覚を明確にするために言葉があると言ってもいい。

感情や感覚の表現は言葉にしたから十分である、とはもちろん言えないのだが、言葉にしないと感情や感覚は曖昧のままなのだ。

つまり、感情や感覚をドンドン言葉にすればするほど感情や感覚を大切にしている、ということになるのではないか。

言語化するという思考に限っては、感情や感覚と相反するものではない。

様々な思考の中で言語化という思考だけは、感情や感覚と親和性の高い特別なものとも捉えることができるのだ。

この勘違いは、後からみると当たり前なように思うのだが、これまで少しも掘り下げることをしなかったから、固まったまま放置されてきた。

こんなようなことは取るに足らない細かいことかもしれない。

しかし、私にとってはこのわずかな刷り込みによって、自分の中に抑制が起こって、一瞬一瞬の行動に大きく影響してきたように感じる。

言葉の問題と進むべき道

言葉にするという思考は感情や感覚をむしろ大切にすることである。

このことがわかったからには、感情や感覚を言葉にしていこう、とあらためて自分に言い聞かせる。

直近のことでいうと、

「どうも今日の自分は朝から落ち込んでいる。それはなぜなんだろうか?(探ってみると)ある人に昨日失言をしたことが気になっていることに気づく。何でそんなことを言ってしまったのだろう?悪気はなかったはずだ、などとと逡巡している。」

「なぜ今日は仕事に手がつかず億劫でやる気が起きないのだろうか?(振り返ると)多分昨日の無理と我慢が影響しているんだろう。ならば無理せずそのままに放置しよう。」

・・・こんな風に他愛もないことであっても自分の感覚と対話してみる。

(表現すると言っておいて、憂鬱や億劫の感覚が全くできていないのだが・・・汗、まあ私の程度はこんなもんだ。)

「(ある人が)マックで勉強している時、だいたいの雑音は気にならないのだが、甲高い笑い声だけがなぜか不快でどうしても許せない、という思いがなぜだか噴き出してしまう、といった話をした。

これは過去にそのような声に何らかのトラウマ経験があるからではないだろうか?」

他人が言葉にする感覚や感情に注目して、その理由を想像して投げかけてみる・・・。

無意識に滲み出てくる感覚や感情をスルーしてしまわずに、一旦何でもいいから言葉にして受け止めること、これが感情や感覚を大切にする、ということなのだろう。

そして、ここまでの経緯から、この言葉にする、ということについて全く別のことにも気づく。

言葉にすることの問題について。

言葉はそれに簡単に囚われてしまって勘違いが起こるものである、ということ。

今回、メラビアンの法則についてその本質を読み誤って勘違いが起こり、「思考」という言葉の反対語が「感情」という言葉である、という知識によってまた勘違いが起こっていたわけで・・・。

とにかく、私の中では言葉による勘違いがかくも簡単に起こっているということのようだ。

言葉は物事を簡潔に表現することができて便利なものなのだが、一方、その言葉で表現される方の万物はそんなに単純にできてはいない。

だから単純な言葉にしてそれを認識すると欠落する部分が出てしまって、必ずバランスが壊れる。

ある言葉だけで結論づけることが勘違いの元になるのだ。

だからといって、言葉を重ねると複雑になってこんがらがるし、煩わしいし、そもそも尺が取れないし、誰にも共感されない。

このような単純と複雑のジレンマがある、というのはこの世の中の万物の法則なのだろう。

言葉にするとこの問題が当たり前につきまとう、ということだ。

では、言葉にしないでおく方がいいのか?というとそれはとてももったいないように思える。

人と人のコミュニケーションにおいては、何と言っても言語でしかできない領域が広い。

そんなことを考えているうちに、あらためて勘違いを恐れずに言語化し尽くそう!そんなくらいの気持ちになるのだった。

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さて、ここまでの文章を読んで、

「理屈っぽくて思考が目一杯で、およそ感情を大切にする方へ転換した人だとは感じられない、やはり人はなかなか変わらないものだ!」

などと私に対して思われた方が多いのかもしれないのだが・・・汗。

それでも、私の中は変化していると私は感じているわけで・・・。

この私の感覚を大切にして、めげずにこれまでにも増して言語化を、とりわけ感情、感覚の言語化を重ねることでもっと変化していきたいと思う。

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

調べますと、思考の反対語には、「行動」があったり、感情の反対語には、「理性」があったりといろいろですねえ。

どれもある一面の対義を捉えたものです。

何事にも不真面目でいないと、痛い目をみると思いました。汗、笑。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日

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