RYO SASAKI

関係性を表す言葉について〜既成の言葉からも自由になる〜

タナカ シンゴ

気づいたら、リピートして飲みに行く知り合いがここ1年くらいで急に増えた。

年齢は20代〜40代と年下ばかり。

ある人は、飲みの場で初めて出会ってその日に次の約束をして、それから度々一緒に飲むようになった。

またある人は、仕事で初めて電話で話した時に、仕事以外のことにも話が弾んでしまって、気づけば1時間が経過していた。

それでは話足りなかったので、すぐに会うことになって、仕事も兼ねて喫茶店で4時間近く話がまた弾んで、そこから飲みに行くようになった。

お酒が強い人ばかりでもないし、それぞれ異なる経歴だし、性格もバラバラなのに、なぜかそんな流れになる。

年上だからといって、私がおごるわけでもなく、ほとんどが割り勘なのにもかかわらず、彼ら(私から見れば)若者たちは、なぜ私のようなオッサンに付き合ってくれるのだろうか?

不思議に思う。

キッカケが仕事の人は、ビジネスパートナーに括れてしまうが、私と呑むことがその人の立場を良くするというわけでもないし、何かを売りつけようと私が狙われているというわけでもないようで・・・。

過去には、狙ってきた人ももちろんいたが、そういう人とは意味を持たない呑み会は続かない。

買ってしまえば、それから会うことはないし、買うまでは、相手は客として気を遣うわけなのだが、それが長引くと気を遣った割には身入りがない。

結局、諦めて二度と会うことはなくなる。笑。

もちろん、その前に客として気遣われるこちらも、気遣われることに耐えられなくなって自然に距離を置くようになる・・・。

・・・・・

さて、このような若者たちとの関係性を何と呼べばいいのだろうか?

こちらから呑み友とかいうのもおこがましいから「知り合い」と言うしかない。

相性というもの

「相性がいい」という言葉がある。

それで括ってしまえば説明がつくものなのかもしれない。

だが、「相性がいい」というのはわかったようで何も説明していないから何もわからない。

「相性がいい」をもう少し細かくみる。

相手の何かの見方、考え方に自分が似ていて、しかもそれらが誰も彼もが持っているものではない。

そのようなややレアな?価値観に共感ができる過去とに安心して相手を信頼するようになり、それでいて他のさまざまな経験は異なるからそこは別に新鮮に感じる・・・。

こんな具合に安心と新鮮が混じり合っている感覚だろうか。

あるいは全く別のポイントで、自分との対話を十分に重ねてきている人と相性がいいのかもしれない・・・

それは自分との対話によって、人は謙虚になって誠実さがにじみ出てきやすいから・・・ということになる・・・そんな風に思ったりもする。

こんなところだろうか・・・

でも、相性の良さを言葉で説明した途端に、その説明では何か不足していて本当のところから離れてしまったような感じもする。

それは「ヤニすう」

こんな私の知り合いの話を、また別の知り合いに話したところ、

「それは”ヤニすう”だ!」

という呪文のような言葉を返されてしまった。

言葉の意味を尋ねてみると、それはコミックスーパーの裏でヤニ吸うふたり」の略称だ、とのこと。

なぜそのコミックが出てきたのか、説明が難しそうだったので、取り寄せるてみることにした。

勢いでポチッとしたため、3巻目だけを掴んでしまっていて、登場人物の相関図も全くわからないままに読み始める。

読み進めるとスーパーの若い女性店員とその店の常連のどこか冴えない中年サラリーマン男性とが、スーパーの喫煙所でタバコを吸うことを重ねながら、恋愛に進展しない何とも曖昧だがお互いが気になるといった関係のまま展開していくストーリーのようだ。

私は、読んだだけではピンと来なかったのだが、次の作者の後書きで”ヤニすう”と言われた理由を理解することになる。

恋人やら友人やら親友やらというハッキリした関係ではなくても、一体なんだろう?と右往左往しながらも一緒にいようとすることも価値ある行為なわけで・・・

現代はより複雑な社会だ。

そんな現代ならでは、のコミックのように感じる。

社会が複雑ならば、その複雑さの一面を描く作家がまた必ず生まれるものなのだろう。

情報がたくさんあるから何の情報を得るかが人それぞれでバラける社会。

だから、世の中をどのように見ているのか?についてもバラける。

バラけるから共感が中々難しい社会。

バラけるからどんな風に互いが寄り添えばいいのか、その方法もまたバラける社会。

難しいからこそ逆に、年齢性別などは関係なく、共感できる人に食指が伸びるのが必然ということだろうか・・・。

こんなにバラける時代だからこそ、共感できる人が現れれば、それが有り難く新鮮で嬉しいのだ。

年齢関係なく繰り返し呑む知り合いがいる。

この私の話をまた別の女性にした時にこんな答えが返ってきた。

「私も歌舞伎を観に行く時には、親ほども年の離れた男性と一緒している。」

それがどこか落ち着くんだとか・・・。

そう言えば私の子供時代よりは、親と同じアーティストを推して、一緒にライブ観戦する、なんてことも今は当たり前になっているようで・・・

これがシームレスと言ったらいいか、世代感ギャップが少ない状態と言ったらいいのか・・・。

ことさら私自身の最近を珍しいように紹介するまでもなく、世の中ではもはやそういう関係性が当たり前になっているのかもしれない。

バラければバラけるほど、共感による絆のような逆の力もまた強くなる!

何とも面白いものだ。

言葉からも自由になる

この”ヤニすう”からもうひとつ気づいたことがある。

「恋人」「友人」「親友」は、コミュニケーションに役立つ共通の言葉であり、概念なのだが・・・。

そんな共通認識できる便利な言葉があると、どうやら今度はそれに寄せなければならないという感覚が無意識に生まれてしまっているようで・・・

それは人に伝えて周りから理解されなければならない、という責任からなのか、あるいは、周りから爪弾きにされる恐怖を避けるためなのか・・・

時にその言葉の意味する箱に入らないことに罪悪感を感じたりするのだけれど、その箱は実際はすごく窮屈なもの。

実際の関係性はもっと自由なものだろうし、その自由のままでいいのだろうけど、言葉に寄せに行ってしまう。

自分の中で、本末転倒が起こっていると感じたのだ。

ここにある「恋人」「友人」「親友」に限らず、親子、夫婦、ビジネスパートナー、師弟、ソウルメイトなどなど、さまざまな関係を表す言葉だって、実態はもっとメッシュ細かくて曖昧で個別のものであるはずだ。

親子と一口に言っても、さまざまな関係性があるわけで・・・。

言葉というものは、それによってイメージさせられている固定観念に引き戻されて、実態から遠ざかった表面的で不完全燃焼のままのコミュニケーションが終わってしまう危険性をはらんでいるのだ。

何とも大げさだが、そんなことを思う。

言葉によってこのブログも書いていて何なのだが、言葉は不十分な道具である、とあらためて認識しておきたい。

そして、そのメッシュの細かいある関係性に多くの人の共通認識が生まれた時に、それを表現する新しい言葉が生まれるのだろう・・・

そんな新しい言葉が今後生まれることを楽しみにしたい、そんなことを思うのだった。

追記

最後に余談になるが、”ヤニすう”に出てくる冴えないサラリーマンは「佐々木」と言う。

苗字が一緒で、冴えないサラリーマンというのもどこか自分の重なるようで・・・

シンパシーを感じる。

これもまた引き寄せたのだろうか?

いやいや、単なる偶然だ。笑。

UnsplashAleksandr Popovが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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