田中 新吾

欠点をそのままにすることで天命を探り、頑張らない自分で生きる。

タナカ シンゴ

最近見たアイドルグループのある企画が印象的だった。

それは、メンバーの1人が事前に「自分が周りから褒められたいところ」をアンケートに書いておいて、それを他のメンバーが当てる、というクイズ企画。

その中で印象的だったのは、メンバーが代わる代わる出てくるものの、どのメンバーの褒められたいところも周りはなかなか当てられないというところ。

例えば、最年長のメンバーが、「子供のように無邪気で可愛いところ」を褒められたいのだが、周りは想像もしたことがない様子。

またあるメンバーは「野菜が食べられるようになったこと」を褒められたいのに、周りには食べられるようになったとは全く映っていない。

そんな状態だから、褒められたいところを種明かしした時に、周りからは「えーっ!」という驚きの反応ばかりになってしまう。

いつも一緒にいるメンバーなのにお互いが何もわかっていないことが、何とも意外で面白かった。

今回はこの印象的だったことから始めてみたい。

他人の良いところばかりを見ている

他人のことはわかりはしない・・・

人間なんてのは、そんなものなんだろうなぁ。

この企画を見た私の最初の感想はこんなところだった。

そしてその理由を考えてみる。

一番の理由は当たり前にそれぞれが異なるから、ということになる。

この至極当然のようなことを意外と人は腹落ちしていないものだ。

自分こそが常識だと思っている人が多くて、それと他人が異なることに過剰なまでのアレルギー反応を起こすことがしばしば。

ちなみにこれは、私が普段からそうならないように私自身に言い聞かせていることでもある。笑。

更にもう一つ掘り下げてみると、人はこれまでの自分にないものを得るために頑張っていることを褒められたいようにできているから、ということになるだろうか?

「これまでの自分にないもの得るために頑張っていることを褒められたい。」

これを裏から見ると、既にできていることは頑張っている意識がなくて、頑張っている意識がないものは褒められるものではない、と思っている、ということになる。

それぞれの持つ才能によって自然に外に表出してくるものは、本人からすると当たり前のように無意識になっていることが多いということなのだろう。

何とも面白いものだ。

持てる才能は、頑張っているものではないから、あるいは不得意なものができるようになるほどは頑張っていないから、褒められるべきではない、ということがどこかで人に刷り込まれてきたのだ。

そして周りの方はと言えば、それとは逆にその人の才能によって現れているものが、すごいなあ!と映る。

だからそれが褒められたいものなのだろう、と想像してしまう。

日本人は謙虚さを美徳とするから、それが日本のアイドルの取るべき姿となり、その結果、他人ができているところ、他人の良いところばかりを自分と比較して見るようになるというのもあるのだろう。

これによって、周りは、その人がこれまで上手くできていなくて、それを克服するために頑張っていることには全く気付けない、というわけだ。

自分が苦手でないものを苦手な人がその克服にどれだけ苦労しているかにも気づけない。

この見ているものが自分と他人では異なる、それは自分と他人との構造的ギャップとでも言ったらいいか、埋まらない溝が何とも面白いものだと私には感じられた。

ところで、

「褒められたいことは、頑張っているところ。」

「頑張らないと褒められない。」

この当たり前のような感覚を誰しもが持っているということにも妙に引っかかる。

人はどこまで頑張り続けなければならないのか?

頑張り続けることが人生なのだろうか?

という私という怠惰な者ならではの疑問がまたもたげてくる。

物事には絶対的なものはなくて、すべてのものに光と影が包含されているわけで、それは「頑張ること」も同じで、頑張ることの弊害が必ずあるはずなのだ。

人は「頑張ること」に人生を奪われてしまうと無駄に消耗してしまっているのではないか?

年を重ねたせいか、そういう思いが強くなってきた。

「頑張ること」が絶対的になった時、逆の「頑張らないこと」が必要になるのだ、と感じるのだ。

天命を占ってもらう

ある人に自分の天命を占ってもらったことがある。

いつの頃からだろうか、「天命」という言葉に惹かれるようになった。

それは「いただいた天命を全うしよう!」そう思ったから・・・・と、言いたいところなのだが、正直そんな敬虔な?思いからではなくて、「天命」が見つかれば頑張らなくてもよくなって、単純に楽なのではないか?そう考えたからだ。汗。

何もできないことを頑張るのではなくて、元々与えられているものを使って生きていければそれでいいんではないか?

頑張るを自分に意識付けなければならないものよりは、知らない間に頑張ってしまっているものを選べばいいんではないか?

私が思いつくものは、所詮はどうすれば楽になるか?どうすれば得になるか?なんていうような安直なことバッカなのだ。

そして、楽になるのならば何でもあり!天命のようなある種のスピリチュアル的なことでも構わず飛びつく・・・この節操のなさも私らしいところだろう。

私のこの節操のなさは、遂に天命を見つけさえすれば頑張らないで済む、という一つの抜け道を発見するに至る!笑

・・・・・

占いの事前アンケートで生年月日の他に、自分の変わっているところ、あるいは、自分の直したいところ、を聞かれて、

「どうでもいいような細かいことを覚えている」

「落ち着きがない」

「お調子者」

というようなことを書いたと思う。

これらは周りからとても褒められたものではない欠点であってどこか変でお恥ずかしいようなもの。

そしてまた、覚えておこう!とか、落ち着きをなくそう!とか、お調子者でいよう!とか一切頑張ろうとしてないのだが、切らぬ間にそうなってしまうものでもある。

この事前アンケートに対して、占いのフィードバックは以下のようなものだった。

「どうでもいいような細かいことを覚えている」

→ストーリーテラーとしての役割

「落ち着きがない」

→ドンドン新しいものを取り入れて変化していく役割

「お調子者」

→人と人の架け橋になる役割

モノは言いよう!

これらは、欠点のすべてをポジティブに変換したもので、何とも私に都合が良くて、私に甘い内容で歯が浮くような感覚になったのだが・・・・

天命に繋がるのかどうかはともかくとして、もしこれらのことをそのままにやって生きていけたなら、無理しなくて済むのは確かなように思う。

無意識でやっていて頑張っている感覚がないのだから当たり前と言えば当たり前のことだ。

そしてこんなことも感じてくる。

「天命」とはこの漢字二文字が醸し出すような大仰なものではなくて、無理せずに自然体でいれば誰もが巡り合うものなのではないだろうか?と。

欠点に注目する

この頑張らないで生きることを考えた時、どうしようもなく変わらない自分の欠点、自分が持っているコンプレックスを克服、あるいは抑制によって排除するのではなくてむしろやりたいだけやらせてあげたり、放置したりする方がいいように思える。

一般平均に対して「〇〇しすぎ」「〇〇しなさすぎ」が欠点やコンプレックスになるわけだが、一方で振り切ってやること(やらないこと)で希少価値が出るものでもあるはずだ。

私で言うと、どうでもいいような細かいことをドンドン思い出して書き留める、行きたいと思ったところには落ち着きなく動く、お調子者をやり続ける、ということになるのだろう。

できるだけ自然体のまま放置して生きること。

頑張らないために大切にすべきものは、とかく排除しようとしがちな欠点だ。

そう考えると、自分の欠点をもっと発見していきたい、そう思えるように自分が徐々に変わってくる。

そして、これは自分のことに限ったことではない。

他人に対しても同様である。

アイドルの企画がそうだったように、他人の良いところばかり見るのではなくて、逆に他人の欠点、他人のコンプレックスに注目する。

それは従来であれば、相手の弱みを見つけて優越感に浸るためのものだったのだろう。

あるいは、迷惑だから直してもらうためのものだったのだろう。

これからはそうではなくて、相手の欠点にその人の希少価値を高めるものがある、そして楽に生きるためのヒントがある。

それを目的に、他人の欠点やコンプレックスに注目する。

そんな新たな視点を持って周りの人に接して見たい、最後にそんなことを思うのだった。

「個性とは、欠落しているところにある」

by ゲーテ

Unsplash毛 祥が撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

一般的に欠点だと言われるようなことを親が個性だからいいんだよ!と子供の頃から教えられてきた人にとって、今回の内容は当たり前のこと過ぎて全くピンとこないんだろうと思います。汗。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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