RYO SASAKI

多様性の時代、AIの時代に、人がバラけることを楽しむ。

田中 新吾

日本で「多様性の尊重」という言葉が使われ出したのが、2000年代に入った頃だったようだ。

この言葉が使われるようになった背景には、社会の豊かさがあるんだろうと思う。

昭和に比較すると商品、サービス、価値観などの選択肢が格段に広がってきた。

私の嗜好に当てはめるていうと(またしてもお酒の話で恐縮だが)、昨今ビールにもこの多様性が現れている。

日本では、これまで数社の大手メーカーがラガーという同じ下面発酵という醸造方法による比較的似た味のビールを安価に大量に提供してきた。

これに対して最近徐々に広がっているクラフトビールには、以前からするととんでもないくらいの種類がある。

国によっても違うし、原料そして醸造方法もいろいろだから、これがビールなのか?と感じるくらいのこともある。

ある人から、ベルギーの伝統的なビールだと勧められたランビックは、酸味も強く樽熟成をしていて、まるでワインのような味わいだったことを思い出す。

若者から、大手メーカーのビールは美味しいと思わなかったが、クラフトビールは美味しい、と聞いたりもするようになった。

女性はビールが嫌い、というのが昭和の常識だったが、クラフトビールのあるお店では、お客さんが女性で占められている時間もあったりする。

嫌いだったものも、選択肢が増えれば、その中に好きを見出す可能性が増える。

そもそも、こんな風に嗜好が分かれるというのが、人の本来であるのだろう。

だとすると、更に自由に選択できるようになると人は本来の多様性にドンドン広がっていくんだろう、そんな予想ができる。

今回はこの嗜好の多様性をスタートとして、人それぞれが異なっていること、人がバラけることによって楽しめること、についてツラツラと書いてみたい。

自分のしたいことをする人が増えるから楽しい

みんなが欲しいものを生産すること、その一方では嗜好(思考も一緒に)がバラけること、この2つの綱の引き合いが商売の一面と言えようか。

生きるためのベースが満たされればされるほど、嗜好(思考)はバラけるようになる。

必然性が薄れまった選択が多くなるから。

その上で、クラフトビールについて続けると、人が本来の嗜好に分かれれば分かれるだけ、小さな生産者にチャンスが訪れるということになる。

生産者は自分が好きな味を追求することができて、その味を好きな人が一定数いれば、規模は小さいが商売は成立する。

大量生産で安価に提供することは難しいものの・・・。

これに対して、大手メーカーはその規模を維持するために、少数の嗜好に対応することが難しい。

これによって、ビールが好きな人が好きなビールを仕事にしようとした時に、平均的でみんなに人気のビールを大量に生産する大手メーカーの組織に自分を帰属させる以外の選択肢も持てるようになる。

人それぞれがやりたいと思うもので、商売が成り立つならばその方が精神が健全である、という思いが私にあるようで・・・

自分の好きなものを造って充実している人が増える社会は、何とも楽しい!

そう感じるわけで、そういう意味では、ドンドン嗜好がバラければいい!そう思うのだ。

バラける体と健康施術器具

ここからは、このビールのことからつながった別の話になる。

世の中には、健康施術器具と言われるものが数多ある。

マッサージガン、バランスボール、ツボ押し器、お灸、骨盤矯正ベルト・・・

これらは医療機器ではないから、病が治ったとか、改善した、ということは法律上、言ってはいけないことになっている。

言っていいのは、体が軽くなった、とか、血流が良くなった気がする、というような気がする、範囲での、個人の感想ということになる。

以前、ある健康施術器具を使う施術者から聞いた話によると、表には出せないけれど、症状の改善例というものをいくつも現場では経験しているらしい。

その施術者は、そのことを言えないでいることにじくちたる思いがあるようで、

「エビデンスを待っていたら、遅いんですよ!」

と言葉に力がこもる。

何かの症状の改善が認められる、という証拠を出すためには、それなりの正式な治験の場を用意する必要があって、一定数以上の治験者を一定期間以上観察する必要があって、更に改善した理屈も示さなければならないのだと思う。(随分ザックリした認識になる)

それはとてつもない歳月を要するから、待ってられない、施術者はそんなようなことを言いたかったんだと思う。

これを聞いて私が一番に感じたことは、エビデンスが出せないほど、人の体はそれぞれ異なるということなんだ!という言ってしまえば当たり前のことだったのだ。

それぞれが異なるから、Aさんが改善したことが、Bさんにも改善するかは言えない。

例えば掃除器具に含まれる電気掃除機は、一定の条件でどのくらいのゴミを吸うかに再現性がある。笑。

それに対して人の体に再現性かある、と言うことは非常に難しい。

それだけ人の体が複雑で精密なもので、人の体がバラけているものなのだ。

よって、健康施術器具はどこまでいっても、病の改善効果を証明することは難しいということになる。

私という者は、証明を学びエビデンスが存在する間違いのない正しい選択をしようとしてきたと記憶しているが、そもそもエビデンスなるものは世の中にわずかしかないわけで、エビデンスを求める人生なんてものはなんと難しいことだろうか?

エビデンスに頼り過ぎの人生の滑稽さを今にして気づく。汗笑。

バラけているから逆に似た人に出会うのが楽しい

人の体は非常に似通っているように見えて、それぞれが異なっている。

人はバラけている。

よって、同じ健康施術器具による施術の結果もバラけることになる。

それでいて、健康施術器具によって症状が改善する人がわずかでもいることもまた確かなようである。

では、このようなエビデンスがないものにどう向き合うのがいいだろうか?

私の選択は、自分の症状が改善するものが見つかるまで探す、になるだろう。

もちろん、できる労力の範囲内になるだろうし、私の体の症状にもよるだろうけど・・・。

そうする理由は、先ほど書いたように体について少なくとも私が生きている短い期間では、そのエビデンスを示せないが、自分に有効ないものが世の中に存在する可能性がある、という捉え方がベースにある。

そこには、せっかくの人生なのだから生きている間にできるだけその恩恵を受けたい、という私の貪欲さがある。

そして、俯瞰して観るとこのことにもバラけることの楽しさがあることに気づく。

私の体にマッチした健康施術器具を求めるということは、同時に私の体と同じ反応をする似た人を求めることでもあり、その健康施術器具の改善を確信している人に出会うことだとも言えるわけで・・・。

それは、人がバラける中で、わずかな似た体、嗜好(思考)の人を探し求めることであって、出会えた時にその希少性と共感によって喜びが溢れるはずだ。

AIによって逆に考え方がバラけるから楽しい

先週のブログで、「不思議な巡り合わせを量子もつれによって説明できる」という内容を書いた。

それでChatGPTにも、「シンクロニシティを量子もつれによって説明して」と聞いてみたところ・・・

いつもの枕言葉、「面白い質問ですね」の後、結論「別物なので説明できない」との回答。

その理由は、量子もつれは物理的な粒子レベルの相関であって、シンクロにおける「意味」や「意識」とは別物だから、というものだった。

どうも私がChatGPTに尋ねる時、ChatGPTが説明できないものが多い。

現在世の中でオーサライズ(認可)されているものがどこまでで、オーサライズされていないものがどこまでなのか、確認するためにAIを使っているようなところがある。

今回のシンクロニシティを量子もつれで説明することはオーサライズされていない。

※誰が何によってオーサライズするのか?という疑問が消えることはないが。

先ほどの健康施術器具の話でいうと、ChatGPTの回答は、エビデンスがあるもののところまで、ということになる。

だがここでも同様に私は、まだ世の中がオーサライズされていないものの可能性を塞がずに、

「意識や思考も電気信号の一つだから、物質のひとつではないのか?」とChatGPTを疑う。

オーサライズされたChatGPTがあることで、返ってシンクロニシティを量子もつれが説明できる、という仮説を自分の中にしっかりと持つことになったようだ。

こうなるのは私が生粋の天邪鬼だからなのだろう。汗。

それに欲深さが重なる。

エビデンスやオーサライズを待っていては人生が終わってしまう、もったいないとも普通に思う。笑。

そして、ChatGPTの中身が認可されている情報ならば、その外にある認可されていないもので仮説を立てたり、推論することこそ、人間らしいところなのではないか?

それによって人間が間違うこともあるとしても。

そんなインスピレーションもやってくる。

人間は証拠と認可を待っていられない生き物なのだ。

それらを待つことはどう見ても人間らしいと私には思えない。

こんな風に都合良く論を展開し、どこかAIに抗おうとしている自分がいる。笑。

AIの中を使うのか?AIの外を使うのか?

そこにも選択があるのだ。

そこでまた別のインスピレーションから更に続けてみる。

人には、論理的に組み立てる思考とインスピレーションからの思考があるはずで、そのどちらを多く使うかで、また別のタイプとして出来上がっていくのではないだろうか?

そしてその思考は、携わる仕事によって強く癖付けられるのではないだろうか?

では自分は、これまでインスピレーション側をどれだけ使ってこれたのだろうか?

論理的に組み立てる思考ばかりだったのではないか?

そんな疑問が湧いてくる。

その偏りは、インスピレーションがその根拠を説明できないから、によるものだった?

根拠を説明できなければ、正しくない、と評価するのが社会というものだから、それに飼い慣らされてきたのだろう。

ともかく、AIの中のものを使うこととAIの外のものを使うこと、その両方が可能で、その使い方が人によってバラけることにまた何とも言えない面白さがある。

論理的に組み立てる思考とインスピレーションによる思考の両方が可能で、その使い方が人によってバラけるのもまた面白い。

AIによってエビデンスが明確になり、オーサライズされたラインが鮮明になる。

そうするとそれとの対比によって、その逆のAIの外を味わうことも際立ってきてそこに新しい発見がある。

それがまた生活を面白くするのだ。

最後に

さて一般的には、人がバラけるとそれぞれの価値観の違いによって、他人から受けるストレスが高まるものではある。

だが、その一方で、バラけることの楽しみもいろいろある、という論を展開してみた。

多様性の時代だからこそ楽しめることがある。

そう言えるのは私が例の天邪鬼だからなのかもしれない。

それでも私は、こんな天邪鬼と似た思考を持つわずかな人をまた探し求めるのだ。

UnsplashJakub Żerdzickiが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

ChatGPTに、「シンクロニシティを量子もつれで説明する仮説を作って!」と聞いてみたところ、意外にももっともらしいものが返ってきました。

オーサライズされたものの外で、仮説を作ってもらう、というのも面白い使い方だと思いました。

次回このことについてまとまりましたら書いてみたいと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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