RYO SASAKI

待ち合わせに早く着くようになって逆に気づいた、「ズレたまま」生きてもいい理由

田中 新吾

最近は、人との待ち合わせをする時に時間前に到着することが多くなった。

ずいぶん様変わりしたもので、若い頃は、ピッタリ到着したいという思いが強かった。

その結果、ピッタリ到着して上手くいくこともあったが、多くは時間に遅れることになった。

※これは仕事以外のプライベートの話です。

なぜそうしていたのか?その理由を挙げてみると、

・時間を1分たりとも無駄にしたくなかった

・(その約束に)気合いが入っている、と思われたくなかった

・忙しさを演出したかった

などがあったのだろうと思う。

今は、これらの思いがほとんどなくなっているので、時間前到着が多くなっているのだ。

以前の理由を眺めるとかなり複雑なことをやっていたものだと思う。

今は、ずいぶんシンプルで自由に変わったのだ。

だが、到着時間を合わせることが億劫だ、ということは今も変わらないことに気づく。

ネット検索すると、行き先までの時間がどのくらいかかるかは簡単に出てくる。

しかし、それ以外の様々な状況(混雑、渋滞、乗り継ぎ、迷う時間等々)を想定する必要があり、その判断を誤ったりする。

そして、出発時間を決めたとしても、そこまでの準備にグズグズして予定時間に出発するには努力が必要だったりもする。

時間を合わせるのにどうしても努力を要する。

この私の性分は変わらないんだろう、と感じる。

努力を要するものをできるだけ排除しようという怠惰な私は、いつもどおり言い訳を探し始めた。

なぜ、私は時間を合わせることに努力を要するのだろうか?

今回は、ここから始まって、「ズレること」の効用に行き着くことになった。

なぜ、体内時計はズレているのか?

人間の体内時間は、約25時間/日となっているらしい。

1日は24時間なのに体内時間はなぜ、ズレているのだろうか?

住んでいるのが地球ならば、1日はずーっと24時間なのだから、それに適応するならば体内時間も24時間になるはずではないか?

それなのに人間はピッタリに合わせないままでいる。

これにはそれなりの理由があるはずだ。

調べてみると、

「地球時間に合わせる」より、「ズレていても調整できること」の方が重要だから。

と書かれているのを見つけた。

体内時計は完璧に正確である必要がない。

正確よりも重要なのは、

朝の光で「早める」

夜の光で「遅らせる」

といった調整ができることの方が生存に有利だった。

例えば、朝から食べ物が必要で狩りにいかなければならない時、早起きする。

夜に他の動物に襲われる危険が迫った時に、誰かが夜営をするなどして身を守る必要がある。

こういった環境の変化への対応の方が、正確さより大切な要素だったのだ。

なるほど、24時間ピッタリだと、誤差がそもそも小さくなる。

誤差が小さいと、ズレを認識しづらくなる。

いつも少し狂う時計の方が、毎日直すきっかけを持てるのと同じだ。

ズレが最初からあると、修正すること自体が日常になるのだ。

私が時間に合わせることが億劫なのは、もしかしてこのズレることが根底にあるのではないだろうか?

都合のいいことが思い浮かんできた。

ピッタリの要請は苦痛なもの!?

ここで、社会が人間に求める「時間感覚」について考えてみたい。

体内時計のズレを考えると、ピッタリと時間を合わせること自体、人間はあまり得意ではないのかもしれない。

人間は「ピッタリと合う」存在ではなくて、「いつもズレて、ズレては修正する」を繰り返す存在だった。

ピッタリ合わせることが人間の常識になったのは、時計が当たり前になったことが大きい。

それまでは、時間がズレてから修正すれば良かったものが、時計の普及によってズレる前に修正するという新しい縛りができてしまったのだ。

ズレる前にピッタリと時間を合わせることが、社会の当たり前の要請として浮上する。

そしてそれに応えていくことが人間の役割になった。

不得意なことをやらなければならない。

だから、私は時間を合わせるためにいつもどこかワサワサしていて、そのことを億劫だと思っていた。

これが、まさにズレる前に修正するという不得意な作業だったのだ。

技術の進化による社会の新しい要請は、大体が人間にとって不得意なことであって、その不得意なことに従わなければならない。

これはある意味、苦しみの始まりとも言える。

だから、できるだけ苦しまないように考えてみる。

私は、「ズレる前のピッタリ」では生きづらい自分と、

社会からの「ズレる前のピッタリ」という要請とのアンマッチがあるという事実を認識する。

そして、この2つの距離を上手く取っていくこと。

これが、自分にとっての落としどころなのだろうと思う。

ズレて生きる、間違って生きる

体内時計に見られたズレの効用というものは、また別のところにも見つかる。

脳の学習。

脳の学習もまた、ズレを前提にできている。

間違いがなければ学習は起こらない。

誤りは修正のための燃料であり、欠陥ではない。

体内時計と同じく、まずズレることが前提なのだ。

体内時計と学習の両方から見えてくるのは、初めにズレること、まず間違うことが、その後の修正を可能にしている、という事実だ。

つまり、ズレないため、間違わないために、ズレるし、間違うという何ともパラドックス的なことだ。

ズレること、間違うことは悪いことではなくて、ズレないため、間違わないためのプロセスに過ぎないのだ。

それにしては、自分のひとつの間違いを後悔して、自分を責めている人がなんと多いことか・・・。

ひとつでも、ズレがあったり、間違いがあったならば、ダメ人間だとする圧力がなんと強いことか・・・。

人間の構造に立ち返るとナンセンスに見える。

まあ、これもピッタリの要請によるものなのだろう。

しかし、敏感になり過ぎることは、双方に負荷をかけ合い、苦しめ合うことになる。

だから、ある程度はズレや間違いを放置し、エネルギーを使いすぎないようにした方が良い。

どう考えても、そうする方が自然だと思えてくる。

このように捉えることで、ズレや間違いにもっと寛容になれるはずなのだ。

さて、最後にここまでのことを今一度まとめてみることにする。

危険なのは、ズレていることよりも、ズレたくないが働き過ぎる「ピッタリ」の方だ。

ピッタリになった時に、ズレに気づきづらくなる。

体内時計があえてズレていたのは、ズレに気づくためであった。

ズレたくないが働き過ぎると、自分のことを「普通=正解=ピッタリ」と思い込みやすくなる。

それは、そのプライドと誇りによって人生を幸せにする側面もあるが・・・。

一方で、それはズレに気づかないことでもあり、変化への対応が遅れたり、できなくなることにつながる。

ズレていることはむしろ健全で、そのズレを認識することが、変化に対応できる立ち位置になる。

ズレを悪いことだと思わず、必要なことだと捉えれば、ズレに寛容になり、自分を責める必要もない。

ズレを認識していれば、修正することも、あえてしないことも選べるわけだ。

私はいつも正しさからズレている。

そう言い聞かせる。

そして、

私はその「ズレたまま」生きる!笑

こんな宣言をしなくても、自分の時間通りに行動するのが億劫なのを、人間の造りのせいにして逃げている時点で、私はすでにしっかりズレている。

だから、ありたいことは既にできている、心配する必要はない。

UnsplashGuilherme Stecanellaが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

今回もいつもながら、自分に都合のいい私見を書いてしまいました。

ただ、感じるのは、私も含めて、みんな無理を通そうとしていることが多いのです。
時間通りに、正しく、完璧に・・・。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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