「居心地がいい」のは「風通しがいい」から、という話。
少し前にこんなツイートをしました。
一緒にいて気持ちがいいひとを「居心地がいいひと」と言うけれど、「風通しがいいひと」とも言えると思う。
風通しがいいひとは、正しさを押しつけず、一緒にいるひとが生み出す流れを淀ませない。だから、居心地がいいと感じる。
風通しがいい「家」は居心地がいい、というのと同じだと思うんです。
— タナカシンゴ (@Shingo_tna) July 18, 2018
私の周りにいる居心地のいいひとについてその理由をちょっと考え直してみたんです。
そうしたら居心地のいい家のことを考えだして、そこから「風通し」というキーワードが浮かんできました。
居心地がいいのはそこに流れる「風」にあったんだなあ、と妙に納得してしまったんです。
居心地がいいからなんでも話せるし、時に無言になっても全然気にならない。
さらに、プライベートなところの接点数が増えてくると余計に風通しが良くなるんですよね。
この感覚どうでしょう。わかりますかね?
それと、優しいひとや親切なひとが風通しがいいひとかどうかは「不確か」なんですが、風通しのいいひとはだいたい優しいしひとだし、親切なひとだと思うんです。
少なくとも私の周りにいる風通しのいいひとはそうです。
「偽善」という言葉があるように優しさや親切さは「偽る」ことができます。
でも、風通し(空気)に関しては、偽ることはできないのだろうなあと思うんです。
有機物には風通しが必要
有機物って風通しが悪いところに置いておくとすぐに腐敗するんですよね。
私は「木材」からそれを教えてもらっているんですが、有機物を扱う上で風通しを考えることは本当に大事なんです。
風通しが悪いと腐るけど、適度にオープンで風通しのいい状態におかれている有機体は腐ることはありません。
むしろいい感じに熟成(発酵)していきます。
組織も、コミュニティも、町もすべて人がつくる有機体ですから、これらをつくる側に欠かせない視点も風通しなんだと思うんです。
「風通しがわるい社会」
「風通しがわるい町」
「風通しがわるい組織」
「風通しがわるいコミュニティ」
「風通しがわるい関係」
風通しがわるいと感じたら、それはきっと腐敗の一途をたどっていくのだと思います。
こんなことを考えていたら、読みにくい文章というのは風通しがわるいと言えるなとも思いました。
「風通しのいいひと」と「風通しをよくするひと」
でも組織やコミュニティが腐敗しちゃあまずいですよね。
どうしたらいいのか?
その答えは、全体の占める割合に対して「風通しのいいひと」と「風通しをよくするひと」が多い組織やコミュニティを目指していくことだと思うんです。
風通しのいいひと、は前述のとおり。
「風通しをよくするひと」というのは、風通しのいいひとがイコールである場合もあるけれど、自分の風通しはよくないけれど「全体の風通しをよくする」ことに長けているひとです。
飲み会の場では活躍するけど、個の関係になると逆にうるさ過ぎて困るみたいなひといますよね。
例えばそんな感じのひとです。
全体の風通しはよくしてくれるけど、という。
集団が腐敗せずに、熟成して発酵するためにはどちらも必要で、バランスよくいるときっといいんでしょう。
さいごに
「風」は見えないものなんだけど、よくよく考えてみると意外と重要かも?と思うようになります。
例えば、風物詩、風習、風俗のように地域のパーソナリティーを表す言葉にはなにかと「風」が付きます。
その地域にいくと、目に見えるものに意識がいきがちだけれど、目に見えないそこに流れている風こそが、その地域の1番の魅力なのかもと思いはじめています。
どんな風が、どんな風に流れているのか。訪れた地域で自分なりに言葉にしてみたらそれは面白いかもしれない。
他にも、スタジオジブリの広報誌の名前は熱風ですよね。
名作「風の谷のナウシカ」にも「風立ちぬ」にも「風」が付きます。
さらに「風の帰る場所」という書も書いている宮崎駿さんは「風」という自然現象に影響を多分に受けている一人だと思うんです。
風を考え、風を感じているからこそのあの創作なのかもしれません。
これらはすべて私の勝手な妄想であり、仮説ですがどこか共感するようなところがあったらそのひとは多分風通しがいいひとか、風通しをよくするひとなんだと思います。