田中 新吾

信じるという意思決定において絶対にしたくないこと。

タナカ シンゴ

今日は「信じる」について思うことを少し書いてみたいと思います。

私たち人間は一日のうちに9,000回もの意思決定をしていると言われています。そして、これらの意思決定の手段はいくつかに分類されてくるはずです。

信じるはそのうちの一つだし、考えるもそのうちの一つです。他には、共感するや直感などもありますね。これらを使って僕たち私たちは日々何かしらの意思決定をしています。

この間、たまたま車の中で聞いていたイケハヤラジオが面白かったです。

他人は人生の責任を取ってくれない。

この中で、信じるの対義語について紹介があります。

信じるの対義語は考える。

哲学者の池田晶子さんの本に書かれていたようですが、これにはなるほどなあと思いました。今まで信じるという意思決定と、考えるという意思決定が対義の関係にあるとは考えたことがありませんでしたから。

でも、イケハヤさんのラジオを聞いていたらものすごく納得してしまったんです。

確かに信じるの対義語は考えるだなあと。

興味があれば聴いてみてください。

信じるという意思決定において絶対にしたくないこと

それは、信じた先に責任を持っていってしまうことです。

信じることには何のルールもありませんから自由です。だから何を信じたって構いません。大事なのは信じた時に責任をどこにおくかということです。

信じるという意思決定は、得てして信じた先に責任をもっていってしまいがちです。本当は信じた自分に責任があるのにもかかわらず。

信じた先に責任をもっていっているので、当然ダメだったら信じた先のせいにします。

お前の言っていることを信じてやったらダメだったどうしてくれんだと」と。

正直、そんなの勝手に信じられた側からしてみれば知らんこっちゃありませんよね。

イケハヤさんがラジオのネタにしているのもまさにこれです。

信用も信頼も信仰も信託も、信じるが前に来る言葉は常に自分が信じるのが先です。だからこそ、僕も信じた責任は自分にもってくるのがとかく正常なことだと思っています。

信じるという意思決定をした時に、信じた先に責任をもっていくことは絶対にしたくない。

考えることでしか依存はなくならない

信じるの対義語が考えるであるならば、常にこの二つはバランスしていて二つで一つのような状態にあるということです。どちらか一方が強ければその意思決定はそちらに偏るといったイメージです。

考える力が弱ければ、その意思決定のほとんどが信じるになってしまって、そうした人であればあるほど、信じる先に責任をもっていきがちです。

だから「他人に責任をとってもらいたい」と思ってしまう人は考えることができないのだと思うんです。もしくは極端にその力が弱いかどっちか。

こういうことを当たり前のように思って、言えてしまうひとというのは依存的な人間であることを表明している他なりません。はっきり言ってダサいとも思います。

大事なことは、信じるよりもまず先に考えること、考える力をつけることだと思います。考えるに関しては常に自分が先なのでこういうダサいことにはなりません。

当然、信じることはあっていいと思います。例えば、岡本太郎の言っていることとか僕はとりあえず信じたりしますからね。

参考記事:理解されるなんてことがあると思うのが誤解。

でも、信じるが強くなればなるほど依存体質になり、責任を自分で負わなくなることは間違いないので、ベースはやっぱり考えることに常においておきたい。

考えることでしか依存はなくならないから。

さいごに

元ネタのツイートはこちらです。

イケハヤさんのラジオたまーに聞くんですが、やっぱり先端を走ることもあってしっかりとした哲学をお持ちです。

以前、一度だけ高知のお住まいにお邪魔したことがありますが、ネットの顔と全然違います。超人格者でした。まさに百聞は一見に如かずでしたね。

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