RYO SASAKI

人生は「余剰エネルギー」の消費に過ぎない!世の中を逆から観るとまた面白い。

タナカ シンゴ

前回、アートに触れたという話では、哲学者ジョン・デューイのことを書いた。

今回も、アートそっちのけで、また別の哲学者に興味をそそられた話になる。

今回の哲学者は、ジョルジュ・バタイユ(1897年〜1960年)。

バタイユの有名な著書に、

『呪われた部分』

がある。

こちらの本に私は妙に共感を覚えたのだ。

共感したことを後から整理すると、いつもながら、世の中を逆に観ることで、固定観念を外す、というところに行き着いた。

逆の視点から日常を眺めると、やはり世の中が変わって見えるものだ。

あらためて新鮮に感じた。

楽、便利を追い求めた先

“人間社会には恒常的に「余剰エネルギー」が生じ、その余剰は必ず消費されねばならない。”

これが、「呪われた部分」の中の印象深い一節で、これまで私が気になっていたことにすぐつながった。

便利を追い求め続ける我々は、一体この先どうなっていくのだろうか?

という疑問。

その答えのひとつに、身体に「廃用性の萎縮」が起こる、ということを置いたことがある。

「廃用性の萎縮」とは、使わなくなると体の機能が自然に弱まるということだ。

例えば、運動しなくなると脚が細くなる、というようなこと。

楽になる、便利になる、ということは、これまで体が頑張ってこなしていたことをする(できる)必要がなくなるということになる。

これは退化と言えるのだが、不要な機能が体から削ぎ落とされた、と表現するならば逆に進化した、と捉えることもできる。

また少し違う角度から眺めてみた時、子孫繁栄が人間という種に備わっている目的だとすると、子育てが終わった大人が生きる意味は何なのか?

割とよく聞く疑問だが、私はこれに対してハッキリした答えがないままに放置してきたように思う。

ただただ、健康で長生きするためである、というステレオタイプの答えを信じて過ごしているような感じでしかない。

しかしこれもちょっとツッコむならば、長生きは手段であって、何をするという目的になってなくて、怪しいものである。

もちろん、目的としては社会への貢献だとか、目的というよりも死は単純に悲しい(苦しい)ものだから避けたい、だとか、いろいろな意味づけはできるのだろうけど・・・。

バタイユは、こんなような私の疑問にヒントを与えてくれるのではないか?そんな期待が湧いてきた。

余剰エネルギーの消費

「呪われた部分」の一部を紹介する。

“人間社会には恒常的に「余剰エネルギー」が生じ、その余剰は必ず消費されねばならない。”

「余剰エネルギー」は、以下の非生産的なものによって消費されることになる。

◯祭礼・儀式

◯贈与(ポトラッチ)

◯芸術

◯性(エロティシズム)

◯戦争

「余剰エネルギー」はこれらのいわゆる浪費なくしては消費できない。

バタイユは、「余剰エネルギー」が、暴力・儀礼・贅沢・戦争などの“危険な消尽”を呼び込むことから、「呪われた部分」と呼んだ。

そして、文明を分けるのは、この「余剰エネルギー」をどのように消費するか?にある、として、

「余剰エネルギー」を戦争に使うのではなく、芸術や儀式や贈与に消費するべきだ、ということらしい。

・・・・・・

なるほど、この枠組みではわかりづらいが、バラバラと上げると、スポーツ、運動、フェス、推し活、eゲームなどなど、現代の趣味や娯楽のほとんどがこれに当たる。

現代は生き延びるのに必要のない(そう言う意味においては非生産的)もので溢れていて、ほとんどのことが「余剰エネルギー」の浪費をしているように見える。

ちなみに、貯めこんだお金もそれによって何でもできるという意味では、余剰エネルギーと言えるのだろう。

そうだとすると、楽や便利を追い求める社会は、人が日々の生活で消費するエネルギーを減らしても生き延びられるということになるわけで、楽や便利になればなるほど「余剰エネルギー」がまた増加していくという理屈が成り立つのかもしれない。

この楽をした分は何に現れるものなのか?

わかりやすいのは、現代人の肥満傾向になるのかもしれないのだが・・・。

エネルギー消費を上手く小出しにできれば、退化(進化)しながらの長生き、という結果が得られるのだろう。

ただ、そう簡単では無さそうで、小出しでは間に合わないくらいに「余剰エネルギー」は溜まり続け、処理してしまわないとどうしようもないところにあるようにも思える。

そう思えるのは、それだけ世の中が急激に便利になってきたと感じるからだ。

人は、「余剰エネルギー」の処理に常に困っている存在なのかもしれない。

敢えて物理的に見る

種の目的の話とバタイユの視点について。

年をとって生きる意味を考えてみる。

子育て、両親の介護、が終わった時生きる意味とは何なのだろうか?

生きる意味を見つけてそれを自分がそれをやれていることを自分の価値に据えるのが一般的なものだろう。

自分に価値がある、と信じることで自信を持って生きられる。

人生そういうものだと捉えているからこそ、バタイユの視点はその逆に見えてかなり面白い。

自信やら価値やら、そういうものを一切無視して、人を敢えて物理的なものとしてだけで観る。

エネルギーが余っている物質として人を捉えるところ。(これは私がそう捉えただけで、バタイユに尋ねると私はそうは言ってない、と言われるかもしれない)

私はバタイユの視点をそのように捉えることで腑に落ちたのだ。

人として社会の役に立つように・・・

人それぞれが価値のある存在だ・・・

これらのことが、まことしやかに言われていることが、本当なのだろうか?

どこか都合のいい説を誰かがこしらえたのではないだろうか?

どんな説であっても、その説に対してみんながなるほど、となるとそれが観念となって、今度はその観念に縛られる、というのがまた人でもあるわけで・・・。

そもそも人間も何の価値もなくただのエネルギーの塊なだけである。

そういうものなんではないのか?

天邪鬼の私は、観念を疑うことが楽しくなってくる。汗笑。

人間のすべての活動は意味があるからやるのではなくて、エネルギーが余っているからその消費先として、生み出さざるを得なかったのではないだろうか?

儀礼も、祭りも神や仏といった尊大なものを創りだしたのも、エネルギーの消費先が必要だったからで・・・。

もちろんエネルギーを消費するために創った、という意識はないのだろうが、体が疼いたと言ったらいいか?あるいは無意識に導かれたと言ったらいいか?

因果関係が思わされているものの、逆なのかもしれない、そんなことを想像してみたりする。

ーーーーーーーーー

物事を逆さまに観る。

例えば今回のような「価値がある」といった観念。

荒唐無稽のように感じられるかもしれないが、これに限らず何事も、逆からも観ないことには観念から抜け出すことができない。

そして、逆から観ることの恩恵は何か?

人生の目的を「余剰エネルギー」の消費ということに据えるならば、その中身を問われることはない、という理屈が立つ。笑。

何であれ「余剰エネルギー」を消費すればいいのだ。

目的という観念から楽になることになる。

無責任でいられる。

目的もなければ価値もない。

そうなった時に、すべての制約が外れて勝手に意味付けすることができるようになる。

制約が外れた時に初めて自由になっていろいろな生き方が可能になるということに着地する。

何ともパラドックス的だ。

最後に

今回もまた逆に観るという天邪鬼の私にはもってこいの視点をバタイユからいただくことになった。

この「余剰エネルギー」の視点を持つと天邪鬼はイキイキし始める。汗笑。

国と国の紛争が続くニュースを、余剰エネルギーが溜まってしまっているようだ、と一蹴し、

ワイドショーでやっていた保育所の園児に対する虐待のニュースに、

「余剰エネルギーの発散が上手くやれなかったんだね!」

と、煙に巻く・・・

そして、自分が同級生したこちらの質問。

「これから何を一番やりたい?」

私が聞きたかったのは、自由に選択できる余剰エネルギーの消費先に興味があったんだな、とつなげてみたり・・・。

「余剰エネルギー」の消費というものは、案外難しいものなんだよね!

などと、さもわかってるげ、に解説を始める。

そんな解説をするのも、まあ、私自身がこの年にもなると「余剰エネルギー」の塊であって、それを意味もなく消費しているだけなんだからしようがない。笑。

開き直って都合のいいことを言いながら、所詮は「余剰エネルギー」という見方でもって気楽になって、エネルギーを自由にドンドン消費していこうと思う。

ただし、バタイユが言ったように戦いには使わないようにしながら・・・。

・・・・・・・

さて、自分を価値も目的もない者である、と蔑んで、更には「余剰エネルギー」の塊と呼んでしまったこと。

このような自分をただの物質として捉えるような言動は、自分を蔑み、自分の尊厳を踏みにじるものであって、人としてあるまじきものではないだろうか?

このような観念がまた浮かんでくるのだが、蔑みも踏みにじりも、それらを一旦受け入れてみると・・・。

何と楽なことだろうか!

このことでもまた、観念となってしまっている価値、意味、尊厳が、人を窮屈にさせているということに気づくのだ。

価値も意味も尊厳も関係なく、ただ楽しいことにエネルギーを消費していく、それでいいように思える。

頼りない締めになってしまったが・・・

ん?

価値も意味も尊厳もなくなると楽になる!?ということはその楽によって、更にエネルギーが溜まってまた、それを消費しないとならなくなるってこと?

楽になった者は、その分だけ次のエネルギーの消費先を探さなければならない。

エネルギー消費ってのは簡単じゃない・・・。汗笑。

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