RYO SASAKI

人生に空想(創作)が必要であることは「死後の世界」でも確認できる。

タナカ シンゴ

「これ、面白かったよ。」と私がある本をお薦めすると「これも面白いですよ。」とまた別の本をお薦めいただく。

私のお薦め本を相手は読んでいなくて、相手のお薦め本を私は読んでいない。

こうした掛け合いが誠にうまいこといくものだ。

今回私がお薦めいただいた本はこちら。

こちらの本は、前世記憶を持っている人や臨死体験をした人の事例がたくさん紹介されているものだ。

※前世記憶 → 人間には生まれ変わりがあって、残っている前の人生の記憶のこと。

※臨死体験 → 一旦死亡と判断された後に生還する体験のこと。

その体験の中で自分の身体を真上から見下ろすような映像が見えたりする。

こちらはいわゆるスピリチュアル本で、それぞれの経験がインタビュー形式で細かく語られている。

私は以前にも前世記憶や臨死体験を聞いたことがあったので、新しい気づきはあるのだろうか?

読み始めた時は、やや退屈ぎみだったのだが・・・。

最後の非常に面白い部分に行き着いてしまった。

うまいこといくものだ。

ちょうど空想小説を何冊か読んで、空想(創作)が重要だと確認したタイミング。

タイミングもまたバッチリだった。

今回は『死後の世界』という、またまた空想のようなものについて見ていきたい。

何かに押されるようにして・・・。

などと言いながら・・・笑。

『死後の世界』の存在はもはやどうでもいい

本は、インタビュー、それに続いてそのインタビューから考えられる死後のしくみについての仮説、の組み合わせで構成されている。

インタビューが事実ならば、こうなっているはず、あるいは複数のインタビューの共通点をとるとこうなっているはず・・・、と繰り返されていく。

この構成の違和感は一体何だろうか?

どこか懐かしい学校の論文のようだ。

この論理的な書き方というものはどうもスピリチュアルになじまない。

いや、これは私の偏見なのか。汗。

ともかく、まずこの手の本の一番の興味と言えば『死後の世界』は存在するのか?

というものだろう。

ところが、私の目に留まったのは、『死後の世界』の存在はどっちでもよくて、存在すると信じた方が得だ、というところだった。

その理由を大きく以下の3点で説明している。

①恐怖や不安を軽減することができるから。

人生をまたやり直せると思えることは前向きになれるし、死の恐怖が確実に薄まるものである。

これは前世療法などとして、うつ病の方へ施されていたりするものでもある。

②多くの人に感じられるのはそれが必要だから。

ポピュラーなところでの『神』や『仏』は人類の多くがいろいろな形で感じているという事実がある。

神が自分の外にあると信じる人もいるし、自分の中に神(性)があると信じる人もいる。

あるいは、サムシング・グレート: 大自然の見えざる力(大学教授の村上和雄氏)と呼んでみたりも・・・。

みんながそうあると感じるのは、それが生きるために必要でDNAに刻まれたものだからだ。

例えそれが事実ではなくて幻覚だったとしても。

感じるのだから・・・。

死後の世界』もこれと同類と言える。

これが数々の神話が愛され、必要とされてきたことなのだと思う。

神話というものも、それが創作であったとしても時に希望になり、時に理想になり、我々に力を与えてくれるのだ。

③信じない人が後悔する可能性だけが残るから

(もし実際に『死後の世界』が存在していた場合)

『死後の世界』があると信じる人

→信じてよかったと思う。

『死後の世界』がないと信じる人

→信じなかったことを後悔する。

(もし実際に『死後の世界』が存在していなかった場合)

『死後の世界』があると信じる人

→意識がなくなるから間違っていたことを後悔することはない。

『死後の世界』がないと信じる人

→意識がなくなるから当たっていたことを喜ぶことはない。

いかがだろうか?

なんとも肩透かしを喰らったような話だ。

これを見ても、『死後の世界』の存在を信じてしまって、後で存在しなかったという間違いをしたくない、そんな抵抗が私の中にあることがわかった。

生き残った人たちに「あいつは間違っていた」とバカにされたくないからの抵抗だろうか?

いや、しばらくの間『死後の世界』が存在しないことが証明されることはないだろうから、たぶんバカにされることはない。

ならばなぜか?

これは正しさへのこだわりとしかいいようがない。

まだまだ、私に正しさ信仰がこびりついているようだ。

『死後の世界』が存在しないならば、むしろどんなことを信じても一切の問題はない。

都合のいいことを勝手に創作して信じ尽くせばいいのだ。

正しさよりも死の恐怖と不安を減らす、好きに生きる、といった得をとるならば”信じる”の一択につきる。笑。

もはや『死後の世界』のある、なし、なんてのはどうでもいい。

「理性的な人は死後の世界なんて信じない、と言われてきたが、その逆でむしろ理性的な人だから死後の世界を信じるのだ。」と更に追い打ちをかけられてしまった。

・・・うーん、なんとも痛快!笑。

最初からこの本にあった論理的に書かれているがゆえの違和感。

この違和感が最後の締めにも登場して、私はこの意外性によって逆に納得してしまうのだ。

科学とスピリチュアル、この別物がつながっていく

特に最近は、全く別の専門分野の研究者や科学者が書いたスピリチュアル本をよく見かけるようになった。

科学とスピリチュアルのつながりについてこんな話があった。

科学者の先生たちはなぜスピリチュアル領域に踏み込んだのか?

『死後の世界』のようなものを最も懐疑的に思っている科学の先生だから、それを否定するために首をつっこんだところ、否定できずにそのまま研究を続けているというケースがどうも多いらしい。

ミイラとりがミイラになってしまうようだ、という。

何事も「存在しない」ことの証明というものは非常に難しい。

山のようにある前世記憶と臨死体験をすべて否定し尽くさないとならないわけなので。

※悪魔の証明

著者の飯田史彦氏は経営心理学者でもあるが、自身ももともとは唯脳論者だったと言う。

脳がすべてで、その論理性を重視する唯脳論者がスピリチュアル領域の研究にはまっているところがなんとも興味深い。

それから、この本の論文のような構成に納得。

こちらの本の著者である田坂広志氏は、原子力工学出身、世界経済フォーラムのメンバーでもあり、ビジネス学など様々な分野に精通している人だ。

このような人がまたスピリチュアル領域の本を出版した。

論理とスピリチュアル、といった別物(別分野)がつながっている。

肉体の死後も”私という意識”は存在し続けるから死は存在しない。

宇宙誕生からのすべての記憶がゼロポイントフィールドに蓄積されている。

天才と言われる人は、ゼロポイントフィールドにアクセスできる人のことを言う。

こちらにもまた、興味深い仮説が並ぶ。

完璧?なほどの論理でもって、死が存在しないことが説明されている。

このような状況証拠からの仮説に触れると、もはや存在する、存在しないといった争いは完全に過去のものになってしまったように感じる。

ただ、単なる好きか嫌いかの争いのように見える。

私は、このような別物、あるいは対立軸のつながり、そしてその統合が、大好物。

党派に分かれるなんてナンセンスなことは止めて、統合を繰り返す。

これによってより本質に近づいていく、そんな風に感じられるのだ。

こうして時代は、ただの好き嫌いの争いへ、そして争い自体が意味を持たなくなる時代へ、と明らかに変化してきている。

なんとも面白い時代に生かしてもらっている。

それでも、生まれる時代が100年先だったらば、とんでもない世界が見えていたのだろうと思う。

人生に空想(創作)は不可欠なのだ

現実主義者には特に空想(創作)が必要だ。

空想小説を久々に読んで、それを感じたところだった。

今度は『死後の世界』という空想(創作)?がやってきた。

「神」「仏」「神話」といった空想が力を与えてくれるのと同様に、『死後の世界』という空想も力を与えてくれることを発見できた。

※敢えてここでは空想と言っておく。

そして、今回のことで空想(創作)の力がまた別の角度から身に染みるのだった。

力がもらえるものならば、躊躇なくなんでももらっておこう。笑。

そのためには信じることが必要だ。

空想を信じられる人は、とにかく幸せだと言ってもいいだろう。

ここで思うのは、私がこうして幾度も空想(創作)の素晴らしさを書いて自分に刷り込んでいるのはなぜなのだろうか?

未だに空想(創作)を拒否するものが自分の中にあるように感じられる。

それは、空想=事実ではない=嘘、という結びつきが自分の中にあるからなのではないだろうか?

「嘘をついてはいけない。」

これが子供の頃から染みついている。

イソップ童話「オオカミと少年」も強く印象に残っている。

嘘をつくこと=創作することは誠実ではない、とつなげてしまった。

これがパターン化して労少なく白黒つけたいという私の思考の癖なのかもしれない。

私の場合は、嘘をつく訓練(=創作)を少しはした方がバランスがよくなるんじゃないか?笑。汗。

創作の力の話に戻って、創作に興味が薄い現実主義者の私は、現実主義であることを理性的だと思っている節がある。

ところが、今回の例から「そう」とだけ言い切ることはこれまたできない、ということが見えた。

現実主義は、どこか浅瀬での理性であって理性にもまた深さがあるようなのだ。

さて、この本が伝えているように、理・性・的・に・『死後の世界』、そして「生まれ変わり」を信じるとしてみよう。

そうしたならば、私は100年後にまた身体を持ってこの世に戻ってくる可能性がある。

その時には量子力学等の科学が更に発展していて、今はまだわからないスピリチュアル領域の何かが明らかになっている世界を見れるかもしれない。

その時を大いに楽しみにしておこう!

UnsplashSandy Millarが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

私は、嘘に騙されまいと思っているところがあるのですが、「信じるものは救われる」とはこういうことを言うのだと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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