アートに触れてみたら、いきなり哲学者に「完全に生きているのか?」と問われた。
ある人から、オススメの美術館をいくつか紹介してもらった。
こんなことは私にとっては産まれて初めての出来事だ。(相変わらず大げさだが汗)
アートの中の、絵画や彫刻といったもの。
この辺りは特に私が縁がない世界で、これらについて正直に話すとそれはかなり恥ずかしい内容になる。
当然のごとく、アート(ここからは絵画や彫刻といったアートのことを単純にアートと書いて進める)に関して何をどう鑑賞したらいいのか、全くわかっておらず、過去に何度か美術館に入ったことはあるが、私にとっての美術館は、足早に進んで出てくるだけの、散歩の順路のようなものに過ぎない。
美しい、凄いなどと感じることはできるが、それは他人が生み出したもので、それ以上でもそれ以下でもない。
そして年を重ねて、美しい、凄いだけでは何か物足りなくなってきたように感じる。
なので、アートというものに生活の役に立つイメージがあまりないと言ったらいいのか・・・。
現実的なことばかりで頭が一杯なのかもしれない。
更に悪いことに、私にはアートを単なる道楽だと思っているところがあって、そう思う背景には自分に創造する才能と、そして創造することから逃げないだけの強さ、その両方が欠けていることからくる芸術家に対しての嫉妬心がどこかにあるような気もする。
そんな私によくぞ美術館なるものを勧めてくれる人が現れたものだ。汗笑。
美術館の次に書籍まで勧められた。
読み始めるも、アートのことがほとんど初めてと言ってもいい私にとっては、出てくる単語のほとんどが初見のため、単語の意味を調べることに時間を奪われて、一向に進まない。
子供の頃、難解な課題図書相手に辞書を片手していた読んだ苦行に近い。
それでも、この機会を逃すと今生でアートに向き合うことがもうないのではないか?という思いがもたげてきて、何とか粘ってみる。
だが・・・。
今度は、この本の中に引用されている哲学者の方にむしろ惹かれはじめ、課題図書そっちのけで哲学者の本を取り寄せて読み始める始末。
アートを知らない人間の、初めてのアートのしかも入口で、アートの本道から外れる方向に私の興味が向いてしまっている。
どうしたものか、と一度は思ったのだが、あっさりと自分の欲求に負けて流れてしまった。
今回はこんな危うげなスタートになってしまったのだが、それでもここにまた、私が知らなかった私が興味のある世界が広がっているように思えた。
経験としての芸術
課題図書からで早々に、飛び込んできたのが、「経験としての芸術」という言葉だった。
これはアメリカの哲学者ジョン・デューイ(1859年〜1952年プラグマティズム主義の代表的な1人)の言葉。
そして、早速取り寄せたのはこの言葉がタイトルのこちらの本。
この本が言わんとすることは、
「経験そのもの」を重視し、作品を理解することに加え、鑑賞者が作品を通して得る感情、思考、気づきといった経験全体が芸術体験の価値を決定づけるものである。
というもので、このような前提で、芸術を鑑賞するべし、ということのようだ。
ジョン・デューイは、作品の鑑賞は作者の意図という正解を読み取るべきものである(あくまでも私の理解による)、とするモダニズムの時代に、ポストモダニズムの先駆けだったとも言われる。
※ポストモダニズムは、鑑賞者の経験によって解釈が変わるとする。
私が美術館で絵画を鑑賞する時、ただただ通り過ぎるしかなかったのは、作者の意図である正解を事前に学習していなかったから、何もわからないで終わってしまっていたということだった・・・そう自分の態度の理由を振り返る。
正確を事前学習しなくてもいいと聞いて、私は楽になった気がした。
※ジョン・デューイは作者の意図を無視するものではない、とも言っているので、単純にはいかないようなのだが・・・。
こちらの本を読み進めて、次に目に飛び込んできたのがこちらの部分。
「技術(art)において、芸術的ないしは美的であるものと、そうではないものとの違いを生むものは何なのか、それはまさに制作し鑑賞する経験において、その人がどれほど完全に生きているか」になる。芸術作品を、外化された独立した対象として見ていると、こうした芸術作品本来の働きが見えなくなる。
なかなか難解だが、自分の感覚と作品とで創る経験によって、美的なものになる、というようなことを言っているように思う。
そして、ここにまた気になる言葉がある。
「完全に生きている」
どうやら、完全に生きてないとアートの素晴らしさが感じられないということらしいのだが、ここでいう「完全に生きている」とは何のことだろうか?
「完全に生きている」か?
そう問われたように感じて、ならばもしかしたらアートを生活に役立てることができるかもしれない!
アートに生活に役立つイメージがなかった私にそんな希望が生まれてくる。
「星月夜」に感じたもの
随分前に観たことがあったゴッホの「星月夜」。

出典:ゴッホの代名詞「星月夜」に隠された秘密や見どころを新解説
これに関する「完全に生きている」鑑賞者の例示をネットで見つけたので、それと私の鑑賞を比較してみることにする。
最初にこの絵をみた時に私は何も感じなかった。
いや、感じたがそれを感じたということを隠すことにした。
今思い出す隠していたものは、
・子どもっぽい絵だな
・情緒不安定か?
・なぜグルグルに見えたんだろうか?
といったところだったと思う。
これを感じた自分自身に、「だから何だよ?」とツッコむもう一人の自分が出てきて、「拙い」と判断してこの感想をなかったことにした。
多分そんなようなところだったんだと思う。
まあ、こんな具合ならば、鑑賞が数秒で終わってしまって当然だろう。汗。
では、鑑賞例はどうだろうか?
渦巻く空、強烈な青、星の震えるような光を見た瞬間に、
例えば、
・目が引き込まれる
・身体が少し揺さぶられる
・自分の呼吸が絵のリズムに同調しかける
といった身体感覚があること(これは知識ではなく、直接的な感覚)
例えば、
・子どものころ見た夜空を思い出す
・不安と希望が混じるような気持ち
・孤独で眠れなかった夜
その感覚が、自分の記憶や感情を呼び起こすこと
例えば、
・渦巻きは混乱ではなく「生命の流れ」のように感じる
・糸杉は「夜に立ち向かう意志」のように見える
・村の静けさが「世界にある安らぎ」を思わせる
など、鑑賞者の体験の中で“意味”を形づくること。
例えば、
心が軽くなる
世界の見え方が少し変わる
自分の内面のある部分が揺さぶられたと感じる
絵を見終わったあと、余韻が残り、何かが変わっていること。
そこには、
・体感すること
・連想すること(自分のことと紐づく)
・創造すること(意味を創る)
・変化を感じること
の要素が紹介されている。
これらはどれも鑑賞者が主役のものであって、私の感想、「子どもっぽい絵だな」「情緒不安定か?」「なぜグルグルに見えたんだろうか?」は、評価や分析。
自分の変化とは距離をとった真逆のものであることがわかる。
そして、体感できない、連想できない、創造できない、変化を感じられない者は、「完全に生きている」とは言えないのだ、ジョン・デューイが言わんとすることはこういうことなのだ!
そう感じられた。
この中で、創造する必要があることが私にとってはもっとも新鮮で、ならば鑑賞する側もアートに加わらなければならないということなのかもしれない。
「星月夜」に何も感じなかったのは?
さて、ジョン・デューイによれば、私のは「完全に生きてない」鑑賞ということになるのだろう。
そうなってしまったのはなぜなのだろうか?
モダニズム的鑑賞のように、作者の意図の正解を感じなければならないのかも・・・そんな知恵だけが当時からわからないなりあったんだろう。
正確ではないことを言うとバカにされる、ということが子供の頃から染み付いている。
だから、正確がわからないことはとても口に出せない。笑。
そして同様に、目新しくないこと、いわゆる誰もが言うようなこと、これも口には出せない。
私は優秀だったから?バカにされないための動き方を察知して、それを繰り返すことでバカにされないように生きてきた。
こうして、何も感じなくなった。(隠すようになった)
次に、その隠したかった私の評価と分析を観てみる。
評価と分析が真っ先に出てくる背景にあるもの。
それは、自分自身は揺らぎたくない、という感覚があったのでないだろうか?
自分が主体になることを避けて、自分から距離を置く。
周りから影響を受けて悲しくなったり、ナーバスになったりするのは大人としてあるまじきことだ。
これも刷り込まれている。
ましてや、会社で出世争いでもしてようものならば、尚更のこと。
感情に影響されることなく、淡々と稼ぐことが合理的な選択になる。
社会に鍛えられて揺らがない強さが備わった。
このような心の奥に根付いたいくつものことによって、自然に出てくるはずの直感を瞬時に消すという処理方法が身についたのではないだろうか?
創造することは生活する上でコスパが悪いから、そして、どうせ大したことはできないから、と決めつけてやらなくなった。
こうして私はドンドンと不感症になっていった・・・。
自虐が過ぎるかもしれないが、ジョン・デューイの「完全に生きている」という言葉から、どうもこのことに気づくように導かれていたような気がする。
最初は希望が見えたと思ったのだが、あれこれと考えて行くうちに、とても残念な話になってしまった。
最後に
「完全に生きていない」
私はこれを最初に意識した。
自分の不十分さを私の中のどこかが感じていたのだろう。
こんないきなりの攻撃が、アートの入口になるとは思ってもいなかった。笑。
アートのことを単なる道楽だと思っていた自分の視野の狭さをあらためて感じる。
でも、こんな残念な話で終わるわけにはいかない。
「完全に生きているのか?」と挑発されたのだから、もう少しマシな生き方をしたい。
そうなるためにはアートに対して、染み付いた直感瞬時削除処理法をOFFる訓練?をしていこうと思う。笑。
手始めに、ゴッホの「星月夜」を今一度鑑賞してみることにする。

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どこか気持ち悪いこの夜に、今の社会を感じる。
ある特定のところにある欲望がグルグルと渦をなし、美しさを見せつつ周りを巻き込もうとする。
そのグルグルに感じるある種の不快さ、これはギラギラとした強い欲望だ!
社会は青く澄んでいるように見えて必ずしもそうではない。
その青さに巻き込まれる犠牲者が必ず存在する。
社会に消えてなくならないこの不穏は感覚、それがどこまでも後味悪く残り、自分の中がザワザワし続ける。
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まあ、やってみるも拙い感想であることに変わりはないようだ。
それと、鑑賞法を学んだ後付けで無理くり取り作ったようなところも正直ある。
これまで勝手に創造したことがなかったから、何とも居住まいが悪い。
そして、最初よりも暗くてイヤーなものになってしまった。
・・・・・・
それでも・・・これが私の持っている感覚と作品で創る経験なのだ。
どれだけ作者の意図から離れようとも、どれだけ陳腐であろうとも、それらの恥ずかしさを乗り越えて、このような感覚を自分の中でハッキリと表出して繰り返し経験すること。
それが「完全に生きている」状態に近づくことだ!
そう信じて進むことにする。
・・・・・・
ところで、こんなペースでは課題図書を読み終わるのはいつになるだろうか?汗。
少なくても年は越えてしまいそうだ。
まだまだ先は長い。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
完全に生きていると芸術作品が味わえる。
芸術にも哲学があって、芸術作品が世相を反映していたりすることを知りました。
そう言うことならば不感症の私であっても、興味を持てそうです。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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