夢中なことをしていない人間は終わり。
こないだこんなツイートをしました。
タモリさんの「一芸を成し遂げたひとは何かに夢中になっていただけのこと。そういう人たちは夢を持ってやってたかっていうと、そうじゃないよね」という発言は鋭く本質に迫っている。そして「夢があるようじゃ人間終わり」と言うことの真意は「夢中なことをしていない人間は終わり」だと思うんです。
— タナカシンゴ (@Shingo_tna) October 30, 2018
一芸を成し遂げる人はただ何かに夢中
” 一芸を成し遂げたひとは何かに夢中になっていただけのこと。そういう人たちは夢を持ってやってたかっていうと、そうじゃないよね。” by タモリ
タモリさんのこの発言は本質に鋭く迫っていると思います。
ちょうど、新R25のISSAさん(DA PUMP)のインタビュー記事にも似たようなことが書かれていました。
参考記事:「DA PUMPの看板を下ろすことは考えましたよ」ISSAが語る“不遇時代”の話
” 練習だって「努力」とか思ってないんですよ。
いいパフォーマンスがしたいっていう目的はあるけど、基本は好きなことをやってるだけだから、努力なんて思わない。
(中略)
練習はしてるけど、努力ではない。好きなことを楽しんでるだけです。ダンスは足をケガしたりとかなんだかんだトラブルもあったけど….
「病は気から」とはよく言ったもので。
やろうと思えば、空飛ぶ以外はできるんですよ。”
ここでISSAさんは「練習を努力だと思っていない」と答えていますが、これはまさに努力が娯楽化されている状態(「努力の娯楽化」は一橋大学の楠木建教授の言葉)です。
参考記事:「無努力主義」の仕事術
努力の娯楽化とは、つまるところ「夢中」だと僕は思うんです。
記事を読んでいると、ISSAさんには「もう一度ブレイクしたい」という夢があったわけではなく、とにかく「ただ踊ることに夢中だった」ということが伝わってきます。
そして、読んでいた時にふと、タモリさんの言葉を思い出したんです。
「夢を叶えるためには努力が必要だ」
僕は小さい頃こうやって周囲の人から教わってきた記憶がありますが、本当は「夢を叶えるためには努力の娯楽化(つまり夢中)が必要だ」ということだったのかと今思います。
「夢があるようじゃ人間は終わり」の真意
“夢があるようじゃ人間は終わり” by タモリ
タモリさんは夢についてこんな風な発言もしています。
一見すると夢に対して否定的でイラッとする言葉ですが、この言葉の真意は「夢中なことをしていない人間は終わり」だと思うんです。
夢は夢中にならないかぎりずっと夢のままだから。
夢を夢のままにしておくことを人間がしたらそれは終わり。
人間にとっての夢は叶えるもの。だから夢中なことをしよう。
真意を考えるとこういうことなんじゃないかなと思います。
夢も「そのことに夢中になれれば実現できる」ってことだと思う。その逆に夢中になれないものは夢のまま。
— タナカシンゴ (@Shingo_tna) October 31, 2018
さいごに
そして、これらの思考のまとめとしてツイートしたのがこれです。
夢中は努力を超える。でも、夢中になれるものって意識でつくり出せるものではないので、夢中になれるものが見つかった時はそのことを本当に幸せなことだと思うべきなんだと思うんです。
— タナカシンゴ (@Shingo_tna) October 31, 2018
なんども言うように、夢中とはすなわち努力の娯楽化なので、通常の努力よりも高い次元にあるものです。夢中は努力を超える概念で最強。
「だったら、なんでも夢中になればいいじゃん」となるのですが、難しいのは、夢中は意識が作り出すものではないということです。
夢中になろうと思ってなれるものではありません。だからこそ、夢中になれるものが見つかった時はそのことを「本当に幸せなこと」だと思うべきだと思います。
それにしてもタモリさんの言葉は本質を捉えていることが多い。これからもよりよく生きるための参考にしていきたい思いです。
それでは今日はこの辺で!