田中 新吾

偶然は「世界でその人のみの固有の出来事である」という定義を胸に、日々のレビューとジャーナリングに取り組んでいる、という話。

田中 新吾

偶然とは、世界でその人のみの固有の出来事のことである」。

この一文を、私は角幡唯介さんの『43歳頂点論』(新潮新書)で知りました。

以来、この定義がとても好きで、特に日々のジャーナルを書くときに意識するようにしています。

なぜなら、偶然をそう捉えると、日々起きたことや出会いを「自分だけの履歴」として丁寧に扱う感覚が生まれるから。

本記事では、『43歳頂点論』の「過去の履歴と偶然のきっかけと思いつき」の話を軸に、その定義がなぜ自分にとって重要か、そして日々のレビューやジャーナリングとどう結びついているかを書き残しておきたいと思います。

人生を動かすのは「過去の履歴」と「偶然のきっかけ」が生む思いつき

角幡さんは、人が何か行動に踏み出すときの原動力は思いつきだと言います。

しかも、それは単なるひらめきではありません。

植村直己の南極横断や平出和也のK2西壁のように、生の履歴から導かれた必然的な思いつきであれば、思いついたが最後、振りほどくには多大な苦しみが伴う。

一方で、そうした思いつきは何かきっかけがないと顕在化しない。

その「きっかけ」こそが、偶然なのだと。

角幡さん自身の例として、アザラシ狩りの失敗がきっかけで「犬橇でもっと北の地をめざす」という衝動が意識にのぼってきた、というエピソードが紹介されています。

角幡さんこう書いています。

きっかけは偶然だとしても、中身は必然だ。〈犬橇でもっと北の地をめざす〉という次なる衝動は、それまでの極地旅行の結果として私の無意識の層ですでに胎動していた。

ただ、それはまだ潜在的なものにすぎず、意識の表面にのぼってくることはなかった。それがアザラシ狩りの失敗がきっかけとなり、あたかもコップの表面で張力をたもっていた水があふれだすように意識の層にのぼってきたのである。

水をあふれかえらせるには誰かがコップに石を投げなくてはいけないのだが、そのきっかけを作るのはつねに偶然の出会いや発見なのである。

つまり人生を動かすのは偶然である。

そして、「偶然による思いつきが人生の固有度を高める」とも。

では偶然とは何か?

角幡さんはこう定義します。

それは世界でその人のみの固有の出来事のことである。

この定義に触れたとき、私は「偶然」に対して今まで以上に価値があるものとして捉えるようになりました。

偶然を「たまたま」「ランダム」としてだけ捉えるのではなく、その人にしか起きない、替えのきかない出来事として見る。

そうすると、日々の小さな出会いや失敗や気づきも、すべて「自分だけの履歴」を形づくる材料だと感じられるようになると思ったからです。

角幡唯介さんとの接点—「狩りの思考法」で得た「真の現実」への視点

角幡唯介さんからは、以前『狩りの思考法』という本を読んだときにも強く影響を受けました。

当時、その読後感をブログに書いています。

関連記事:「狩りの思考法」は、これからの時代の生き方を考えるのにきっと役に立つと思う。

あの記事では、角幡さんが語る「未来予期は混沌とした現実を見ないようにするための仮象」という言葉に触れ、目の前の真の現実に対峙し、その瞬間に入り込むことに、人間の「生」が動き出す始原があるという考え方に深く共感したことを書きました。

思うに、『43歳頂点論』で説かれる「偶然」と「思いつき」の話は、この延長線上にある。

偶然のきっかけが、潜在していた思いつきを顕在化させ、人生を動かす。

そのプロセスは、未来予期に頼らず「今、ここ」の現実に触れ続けてきた角幡さんだからこそ、説得力をもって語れるのだと思います。

だからこそ、「偶然は、世界でその人のみに固有の出来事である」という一文は、単なる定義ではなく、その人らしい生き方そのものを支える視点だと、私は受け止めました。

日々のレビューとジャーナリングに「偶然」という名のレンズを向ける

今の私には日々、レビュー(行動の振り返り)とジャーナリング(感情の振り返り)書く習慣があります。

ここ数年で、その書き方や意味づけは形を変えながらも続いていて、以前のブログでは「日記は無意識のOSをアップデートする技術である」という整理もしました。

関連記事:日記は「無意識のOS」をアップデートする最強の技術である。

そこに、角幡さんの「偶然」の定義を重ねるようになってから、「今日、自分にだけ起きた固有の出来事は何だったか?」を意識して書くようになったのです。

  • 誰と話したか、どんな一言が残ったか
  • 何かがうまくいかなかった「失敗」や、予定外の流れ
  • ふと浮かんだ考えや、本の一節との出会い

これらは、他人から見れば些細でも、その日の自分にとっては「世界でその人(自分)のみに固有の出来事」になり得る。

こう捉えると、レビューやジャーナリングは「記録」であると同時に、将来の思いつきを育てる「過去の履歴」の蓄積にもなると感じられるのではないでしょうか?

少なくとも今の私はそう思います。

偶然はコントロールできません。

でも、偶然として起きたことを忘れずに書き留めておくことはできる。

その積み重ねが、いつか「コップに石が投げ込まれたとき」に、あふれ出す思いつき(属人性)の母胎になる。

そんなイメージが強くあります。

タスクシュートは「偶然を歓迎する」——割り込みに対応していくスタンス

私が愛用しているタスク管理ツール・メソッド「タスクシュート」には、「偶然を歓迎する」というマインドがあります。

つまり、割り込みへの対応です。

誰かから突然用件を頼まれたり、予定外のことが入ってきたりしたとき、それを邪魔者として排除するのではなく、むしろそれを歓迎し、対応していく。

そういうスタンスを取るのです。

割り込みは、言い換えれば「その瞬間、自分にだけ降りかかってきた固有の出来事」です。

それを「計画の乱れ」と見るか、「偶然として受け止めて応じるか」で、一日の過ごし方も、その先の思いつきの種も変わってくる。

タスクシュートは、予定を守るためのツールというより、偶然を歓迎しつつ、やることを記録し柔軟に調整していくための仕組みとして、私の中では『43歳頂点論』の「偶然」の定義と完全に繋がっています。

随分前から私はタスクシュートに「自分以外の人からの割り込み」と「自分の割り込み(脱線)」を記録するようにしてきたのですが、その記録の価値がこの本に出会ったことで今まで以上に価値あるものに変わりました。

レビューやジャーナリングで偶然を書き留め、タスクシュートで偶然に応じる。

記録と実行の両方で、偶然を「自分だけの出来事」として扱う。

こういう感覚を今、めちゃくちゃ大切にしています。

偶然を「自分だけの出来事」として扱う

偶然とは、世界でその人のみに固有の出来事のことである」という定義は、角幡唯介さんの『43歳頂点論』で明確に語られています。

過去の履歴と偶然のきっかけが化学反応を起こし、思いつき(事態)が生まれる。

その思いつきに飲み込まれることで、人生はあらぬ方向に進み、各人はそれぞれ固有の生き方を歩む。

この考え方を知ってから、私は日々のレビュー、ジャーナリングを、そうした「偶然」や「思いつきの種」を逃さないための場所として非常に強く意識するようになりました。

あわせて、タスクシュートでは割り込みとして現れる「偶然」をより歓迎し、対応していくスタンスも引き続き大切していく。

この定義が、この記事を読んでくださった方の振り返りや記録の仕方、あるいは日々のやることの扱い方のヒントに少しでもなれば幸いです。

今日、あなたにだけ起きた「固有の出来事(偶然)」は、何でしたか??

UnsplashPatrick Tomassoが撮影した写真

【著者プロフィール】

著者:田中 新吾( X / note )

実は、角幡唯介さんの『43歳頂点論』、面白いので、色々な人にオススメさせてもらってますww

◼︎ ハグルマニ(プロジェクトコンプリメンター)
◼︎ 命名創研(命名家)
◼︎ 栢の木まつり 実行委員会
◼︎ タスクシュート認定トレーナー

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