構造的理解による諦観の先にあるもの、それは自分らしさ
ある人から教えてもらったバーがある。
こちらは他のバーより、ワンショットあたり100円〜300円程度安く提供されているように感じて、それを教えてもらった人に話したことがあった。
そうしたところ、このバーが入っているビルが、自社ビルなのだ、とその人は教えてくれた。
なるほど、賃料がかからない分、安く提供できていたのだ。
そういえば、昔通っていた、家族経営で美味しくて安い町中華も、自宅で店をやっていた。
今は、店を閉じてしまったのだが。
そしてまた、私はどこかで忘れていた漠然とした「当たり前の前提」を思い出した。
さらに、それが日頃から自分の中で引っかかっていた別のものと、自然につながる感覚もあった。
それが後になって、その共通点が、「構造的理解」という言葉として輪郭を得ることになった。
欲深さが必要であるということ
「欲深いのはよろしくない奴」
この言葉について、以前から引っかかるものがあった。
欲深い人に対しては、周りが迷惑だと思うことが多く、好かれにくい。
そんな人が周りにいると良い気はしないのは確かだ。
でも、それだけで「欲は悪だ」と片付けてしまっていいのだろうか?
たぶん昔から人は欲深かった。
何百年も、何千年も、消えることなく繰り返されてきた。
欲がなくならないのには、それなりの理由があるはずだ。
有限な資源を奪い合わなければ生き残れない社会が続いてきたからだ。
形は変わったが、今でもその傾向は残っているように感じる。
欲深さは、単なるわがままや悪意ではなく、生きるための素養だったのだ。
もちろん、欲が過剰になれば周囲に害を与えることもある。
だから私たちは、欲を「抑えろ」と教えられ、反省させられる。
しかし、本当に消せないものを無理に消そうとしてはいないだろうか?
欲深さは、環境に適応して形成された人間の構造そのものの一部であり、短期的にはなくせないものなのだ。
仮に、奪い合う必要がない社会が、これから数千年続くとしたならば、人間の構造が進化、いや、欲深さが退化することはあるのだろう。
それは、奪い合いを前提として形成されてきた欲が、次第に必要とされなくなるという意味である。
もし、欲が人から急に消えるならば、それは生命力を失ったと同等のことなのだと思う。
そう考えると、欲深さを単純に悪者扱いするのは、結構乱暴なことだ。
このような構造を変えるには、とてつもなく長い時間が必要なのだ。
だからむしろ大切なのは、欲深さを前提にして自分や他人が迷惑を被らないように工夫すること。
欲そのものを根絶するのではなく、どう付き合うかを考えるべきなのだ。
構造とは何か?
「構造」とは、仕組み・成り立ち・制度などのことであり、それはより本質的なもの、そして時にそれによって致命的な制約を受けるものである。
小手先では動かしようもないもののことだ。
ゆえに、ここで言う「構造」とは、個人の努力や意志では動かせない前提条件のことである。
冒頭のバーの例で言えば、賃料を支払う店舗では、その賃料分が価格転嫁されることになる。
※工夫によって価格を抑えることもできますが、それでも限界はあります。
これは、ビジネス(商売)における言わば当たり前の構造である。
人が欲深さを持っているという構造と、ビジネスの構造、これらは共通する。
人の構造で言えば、例えばこんなものもある。
人は生まれ持ったものが異なるということ。
これもまた誰もが知っている当たり前なようなことだが、そんな中で最近あらためて思ったことがある。
それは、人の魂が、何をもってして喜ぶのかということだ。
ある人はリーダーシップをとることで慰められるだろうし、また別のある人は、職人のようにコツコツやることで癒されるだろうし、そしてまた別のある人は人の役に立つことがこの上なく嬉しかったりするだろう。
これは、稼げるから、あるいは評価されるから嬉しいというものではない、無償の純粋な喜びのことだ。
純粋な喜びを何で感じるか、それも生まれ持って異なるということだ。
この構造を理解すると、そのまま他人に嫉妬するのが結構危険なことであることがまたよくわかる。
それは、自分が本当は喜ばないものを追いかけてしまうからだ。
そして、喜ぶものは千差万別であるのにもかかわらず、あるものに喜ぶ方が、別のものを喜ぶよりも人として優れている、として特定のものの方に寄せていくような圧力が社会にはあったりする。
さらには、こっちが楽しい、あっちが正しい、などと、日々意見が合わないことに悩まされていたりする。
こうして考えると、なかなか滑稽な話でもある。
もう一つ、欲深さという人の構造の話から、少し広げて社会の構造というものの例を上げてみる。
政府と国民のお金について。
これを上げたのは実は自戒を込めてのことで、こんな根本的なことを、私は長らく言葉にできないまま過ごしてきたのだった。(苦笑)
政府の財源はどこから来るのだろうか。
もちろん税金は国民が払うものだ。
でも、国民が潤えば、その余剰分がどこかで政府の財源に影響する──ただ循環しているように見える。
さらに、政府は通貨を発行することもできる。
通貨を増やせば必要な財源は生まれるが、その代償としてインフレが起き、私たちの貯金の価値は少しずつ減っていく。
つまり、政策や財政は「善悪」の問題ではなく、避けられない仕組みの中での調整でしかなかったのだ。
では、選挙や政権交代で何か変えられるのだろうか?
もちろん、変えられることもある。
しかし、通貨や財政の仕組みそのものは簡単には変わらない社会の構造なのだ。
構造的理解の先にあるもの
さて、ここまでいくつかの構造を挙げてみたのだが、これらの構造にどう向き合えばいいのだろうか?
大切なのは、構造的なものとそれ以外の表面に見えているものに気づくこと、そしてそれらを区別することだ。
ここで言う「表面」とは、努力や工夫によって可変なもののこととしよう。
欲深さについては、他人に迷惑をかけられないようにすることと、欲そのものを根絶しようとすることを区別するべきだ。
それは、人に欲深さがない前提ではなくて、欲深さがある前提で一定の警戒をもって接する。
その上で、自分に迷惑をかけるものに対しては是々非々でそれを除外して、終わらせる。
しかしそれ以上は踏み込まないことだ。
欲深さの根絶に対して努力しない、そしてそれができないことに悩まないこと。
諦めが必要である。
これは、自分のできる範囲を区切ることと言える。
政府と国民のお金のことについても、選挙によって変えられることと、そうでない構造に気づくこと。
国が良くなるように、選挙という手法で臨む。
当然ながらまず、自分ができることをする。
そしてこちらについては、選挙では変わりづらい構造、インフレというものに気づいたのならば、それに対してまた別にできることがある。
通貨以外のものを保有することだ。
例えば、スキル、人との信頼関係、実物資産など。
いずれも、通貨の価値とは別の軸で蓄積されるものだ。
このように区別することで自分ができることがはっきり見えるようになる。
厄介なのは、これらを同列のものとして混同してしまうこと。
欲深さやお金の制度を変えようとすることは、地球に重力がある以上、怪我をせずに高いところから落ちることはできない、と誰もが知っているようなことを何とかしようと努力するようなものだ。
区別ができないまま努力すれば、報われずに疲労・疲弊してしまうことになる。
ダメージはあるのに、怪我のように外傷は見えない。
だから余計に厄介だ。
このように、多くの構造的理解には、ある種の諦観がつきまとうものではある。
しかし、諦めることは実は非常に前向き。
無力感ではなく、選択の明確化。
動かせないものを認めて、動かせないものを動かそうとすることに努力しない。
その上で、自分ができることに集中する。
曲がりなりにも、このような構造的理解を進めてきた私は、最近特に、人が何に喜ぶのかについて興味を持つようになってきて…。
今までは、自分との共通点を探す会話ばかりして、共通点が見つかるとどこか安心していたような気がするが、今は逆に相違点を探していて、日々以前との違いに感心する。
構造的理解による諦観の先には、相手を尊重する自然体があり、それが同様に自分の個性を尊重することにもつながっている。
(相手と比較して自分に欠落があると思わなくなるからだ)
何とも意外な副作用が起こっている。
構造的理解によって自分はさらに自分らしくなれるように思えたのだ。
自分のできることをやる。
ダメージを最小限に抑えながら自分というものを最大限に活かすには、構造的理解が欠かせないのだ。
今そう感じている。
これからも自分らしくあるために、物事を構造的に捉えることを続けていきたいものだ。
UnsplashのStanislav Ivanitskiyが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
構造的に捉えることは、自分らしく生きるための自己防衛の手段になっているのかもしれません。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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