RYO SASAKI

直感を紐解くことで、昔から引き継がれる賢人の言葉に向き合う

タナカ シンゴ

ある人がお薦めしてくれた『東坡食譜』という漫画を読んでみることにした。

こちらは11世紀の中国において、最高の詩人にして四大書家のひとりと謳われた蘇東坡(そとうば)の話。

蘇東坡は実は革命的な料理家でもあり、かの東坡肉(トンポーロー)の産みの親だという。

出典:中華料理@東坡肉トンポーロー3時間で作る柔らか絶品レシピ

この漫画は史実を元にして創った蘇東坡の料理にまつわる話である。

ちなみに、私が漫画を読んだのは十数年ぶりになるだろうか・・・。

読み始めてすぐに気づいたのは、登場人物の顔がどれも似て見えてしまう、という自分自身の老化だった。汗笑。

セリフを誰が言っているのかわからなくて、ストーリーがつながらなくなってしまう。

これが聞くところの中年がアイドルグループのメンバーを区別ができない現象と同じようなものなんだろう。

それでも、何とか登場人物の顔に神経をすり減らしながら、読み進める。

すると、ひとつのセリフが私の目に止まった。

「己で体験する味よりも、書の記述を重んじそれに盲従し、後進にも盲従させ先生ヅラしておる。」

これは、料理を引き合いに出して、聞いたり学んだりするだけでなく、実際に味わってみないと(経験しないと)ホントのところはわからない、という意味合いを皮肉タップリに言ったものだ。

このセリフは、非常に有名な「百聞は一見にしかず」という言葉に似たような意味であまり珍しいものではない。

それでも、目に止まったのにはなぜなのだろうか?

今回はこの言葉が目に止まった理由を紐解いてみることから始まる。

目に止まった理由

目に止まるという行為は、一瞬の直感によるもので、意識しない限りその瞬間になぜ目に止まるのか、ハッキリしないまま流れてしまうものだ。

一旦立ち止まって、目に止まる理由を少し時間をかけて言葉にすることでやっと見えてくる。

やってみると、まず単純に”あるある”だと感じたのがその理由のようだ。

この話は11世紀のことだから、現在は1000年以上が経過している。

それでも未だに”あるある”だということになる・・・。

そんな長い間、よくもまあ変わらずに”あるある”でいられるもんだと思う。

これだけ続くということは、多分聞いたことだけを頼りにする、これはいわゆるショートカットになって、労なく済むことが人間にとって変わらずに魅力的なものなんだろう。

そして、先生としてマウントを取りたいのも人間変わってないんだと。

これを人間は進歩しないものだ、と言ってしまえばそれまでなのだが・・・

もう少し付け加えるならば、少なくともこのやり方がここまで何らか功を奏していて未だに手法として残っている、というのもまた確かなことなのではないだろうか。

功がなければ廃れて当然のはずだ。

もうひとつ目に止まった理由は『盲従』という言葉が何とも新鮮だったこと。

言葉は新鮮だが、『盲従』という行為自体は私が日頃やっている行動ではないか!?

少なくとも昔の私にはピッタリの言葉だ。笑。

若い頃は正解を学んで、あるいは正解を自分で決めて、決めたら深く考えずにそれに『盲従』してきたように思う。

何事に対しても『盲従』するのは、シンプルだから楽なのである。

そういう意味で功を奏してきた!?

今思えば、それは同時にやりたくないことでもあったので、シンドイことだったのだが。

当時は体が不調になるまで、自分がやりたくないことに気づかなかった。

これは真面目さゆえの反応というか、無知ゆえの反応というか、やはり自分は、体力で勝負をしてきたんだなあ、と振り返る。

それはともかくとして、この件で一瞬の直感にチャンと理由があることを確認できた。

人に何と言われようと気にしない

「人に何と言われようが気にしない。」

この言葉もまた、少し前に私の目に止まったものだ。

そしてこちらも、これまで何度も聞いてきた有名な言葉でもある。

この言葉についても、何が引っ掛かったのか、言葉にしてみることにする。

この言葉に、未来形であって完了していない、というニュアンスを感じた。

更に言うと、本人のただの希望にすぎないのではないか?とも・・・。

そう感じたのはこんなことがあったからだ。

私はこの言葉を自信ありげに口にすることができていた者だ。

そんな私は私をある意味「面倒くさい奴」であることは理解しているつもりの者でもある。

そんな私が、先日実際に「面倒臭い人だ」と言われた時のこと。

「バレてしまったか!」といったような気まずい思いが生まれた。

もちろん、想定内だから大きなショックはないのだが、ショックが全くないとは言いきれず・・・。

そのショックは、そんなことで面倒臭く感じるのか、といった面倒臭さの原因となった自分の言動についての納得感のなさもあるようで・・・。

更に、面倒臭さを隠しているわけではないのだが、その面倒臭さを私から感じてしまった人は少なからず不快なんだろうから、それ以降は面倒臭さを少し抑えた方がいいなあ、と気づかいも出てきたりして。

人間は社会的な生き物だから、気にしないなんてのは相当難しい。

そして、その中で私は開き直れるほどの根性もないのだ。汗。

こんな風に、ただ「気にならない」と自らが主張する時に感じているものと、実際に言われた時に感じるものには大きな差があることがわかってしまったのだ。

自分が本当のことを言っているかどうかは、具体的に言われた時でないと判断できないものなのだ、とあらためて感じた。

少なくとも私の場合は・・・。

直感に向き合う

この理由を紐解こうとした2つのことに共通するものがあるとすればそれは何だろうか?

「己で体験する味よりも、書の記述を重んじそれに盲従し、後進にも盲従させ先生ヅラしておる。」

「人に何と言われようが気にしない。」

それはどちらの言葉も、自分に当てはまる、ということだ。

前者は「盲従」という行為が自分に当てはまり、後者は「気にしない」ができないということが、また自分に当てはまる。

どちらもできないというネガティブ部分が自分に当てはまったことに引っ掛かった。

直感がそうさせているようなのだ。

直感は、『盲従』や『気にしないができない』といった言わば私の過去のトラウマ?を呼び起こしている!?

そういうことなのかもしれない。

それをポジティブに捉えれば、直感は自分の弱さを教えてくれていて、その課題に向き合うことで改善のキッカケをくれるようにも感じるのだ。

そしていると、今度はこれが直感を大切にする具体的な方法なんだろうと思ってくる。

一旦立ち止まって、直感の理由を探ってみる。

そうすることで、自分が何者であって、何を求めているのか?が見えてくるのだ。

情けなくて見たくない自分を目の当たりにしないとならないこともあるんだろうけど・・・。

直感を紐解く

さてここまで私は、直感で私にはできない、ネガティブなことに気づいてしまったのだが、これは私だけのことなんだろうか?

そんなことが気になってくる。

「己で体験することで、書の記述に盲従しない。」(←わかりやすくしました)

「人に何と言われようが気にしない。」

これらの言葉は、これまで少なくとも何度か繰り返されてきた賢者からのメッセージだ。

ものによっては1000年経っても未だに語り継がれている。

これらのメッセージは人間にとってなかなかできるものではないから、繰り返し言われてきているものなのではないだろうか?

解決しているならば、繰り返されないはずで。

「人に何と言われようが気にしない。」

人がこの言葉を持ち出した時、それは時にできていると自信を持ちたい自分のごう慢さの表れであり、時にできていて欲しいという自分の願望であり、時にできていない自分への戒めであり、時にそこに向かおうとする自分へのエールだ!

これらの言葉に限らず、何度も何度も繰り返され、ずーっと語り継がれる世の中の賢者たちの言葉が他にもある。

そしてその言葉を思い出してはその都度向き合い方を考えさせられるのだが、簡単にできるものではない。

できないものだから繰り返し思い出す必要があってその結果、言葉が受け継がれるのだ。

逆に賢者の言葉どおり完全にできている人がいるならば、その人がこの言葉を口にすることはないのだろう。

そして、私のようにこの言葉が目に止まることもないのだろう。

できていることが当たり前のことなのだから・・・。

できないことだから、言葉が目に止まるし、できないことだから、それをもう一度言葉にして戒めるのだ。

言葉にしている私こそが、できないそのひとりなのである。

引っ掛かるうちはできる手前にあるのであって、できるまで何度も直感に引っ掛かってくる。

頭で考えて”気にしなかった”ことにして一気に合理的に処理することはできるだろうが、それでも直感が消えることはないだろう。

ならば、直感を探ることなんて意味がないのかもしれない・・・いや・・・

できないままだとしても、時間をかけて繰り返しているうちにできない自分を認めることで、できない自分へのショックが薄まり、迷いがなくなる。

そうしていくうちにできるようになるわけではないが、できないことへの向き合い方が徐々に上手くなって消耗が減るのではないか?

そして、昇華するとはこんなようなイメージなのではないか。

そこにひとつの希望を感じてくる。

! 

そして、だとするならば、この希望が、直感と向き合って直感を紐解く、この行為の意義だ、と思えてくるのだ。

さてここまでのことは、どうやってもできそうにない私ができないことから逃げるための、ただの都合のいい屁理屈なのかもしれない。

そうだとしても、希望を感じられたのだから、これからささやかな自分の直感を大切にしていきたい、そう思った。

UnsplashSteve Johnsonが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

漫画の中の記述にしたがって、東坡肉(トンポーロー)を作ってみました。

美味しかったのですが、蒸し時間をショートカットしてしまったので、柔らかさはもうひとつでした。

ここにも受け継がれてもできない私がいました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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最後まで読んでくださりありがとうございます。

これからもRANGERをどうぞご贔屓に。

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