「学ぶ」とは何か?なぜ学び続けるのか?いろんな言葉を考えることで少しだけ見えた。

このRANGERの田中さんの最新のブログ「本が、自分を飛行機よりも遠くに運んでくれるのは「読書サマリー」を作ったときだけ。」の中にあった次の言葉に目が留まった。
「自分の経験やその他の事柄とリンクさせながらまとめる」というプロセスを経ないと、真の理解にはたどり着けない。
これは、共感する言葉だ。
自分の経験、その他の事柄とリンクしないものは、「覚えた」留まりのものであって、それはとても「理解」とは呼べないものだと私も思う。
そう言えば、全く異なるものなのに、「理解する」と「知る」とを普段は区別していないことに気づく。
田中さんのこの言葉に目が留まったのは、私がちょうどこちらの本を読んでいるタイミングで、「学び」というものを考えていたからだ。
ブログの言葉と私の中の「学ぶ」が、まさにリンクしたのだ。
「学び」とは何か
「学び」に近い言葉に、勉強する、習う、教養を身につける、などいろいろなものがある。
そのどれもにそれぞれのニュアンスがあって、何をどのようにして学ぶのか?かなり幅広いものだとあらためて感じる。
自分はこれから何を、どうやって学んでいくのだろうか?
子供の頃、あれほどまでに時間をかけた受験勉強での「学び」とは一体何だったのか?
振り返ってもどうしようもないことなのかもしれないが、これからのことを考えると興味が湧く。
少なくとも「学ばなければならない」はもう辞めにしたいものだが・・・。
『勉強の価値』著:森 博嗣の中に、この「学び」というものを整理するためのヒントがあった。
自分のハイライトを抜粋すると・・・
※一部自分の言葉に変換しているものがあります。
・「知る」と「わかる」、「覚える」と「理解する」を人は混同している。
・(老人は)「学び」というものを勘違いしている。
教えを請う、教えてもらう、というのは勘違いである。
・(老人になると)人は考えなくなる。
そもそも考えるということの意味を勘違いしている。
考えることを思い浮かべること、思い出すこと、そして、覚えることだと思っている。
物事に対して、反応はする(良いとか、悪いとか、好きとか、嫌いとか)が、それ以上考えない。
まずはじめに感じたのが、ここにある「勘違い」「混同」が私の中にもよくあるということだ。
そして、この「勘違い」に急に意識が行ったということは、私の中に「勘違い」だけは避けたい、という思いが強いことに気づく。
「勘違い」が気になりながらも、「学び」を具体的にするために単語の方を先に見ていくことにする。
「知る」「わかる」「覚える」「理解する」「教わる」「考える」「気づく」・・・・
これらのたくさんの単語が「学び」にすべて包含されている。
蓄えてきた知識(知る)は何かの役に立っているのか?
いつまで教わり続けるのか?
どこまで理解できているのか?
ほんとに考えているのか?
「学び」で大切なものは何か?
・・・・・・
これらの単語を使っていろいろな疑問が湧いてくる。
これらの言葉の違いを意識した上で、「学び」のことを考えたことがあっただろうか?
・・・
チャンと考えたことがない。
これひとつをとっても考えていない。汗。
「覚える」や「教わる」ばかりをしてきたのだろうか?
「人は考えなくなる」という言葉が刺さる。
一緒に「老人」という言葉も刺さる。
いつの間にか「老人」という単語が刺さるようになってしまった。汗。
人は何を考えているのか?
でも、何も考えていないはずはない。
考えていることは何だろうか?
何と言っても仕事のことだろう。
仕事で都度課せられる目の前の課題の解決のために考える。
そして、家事のことを考える。
やはりこれらが生きるための最優先で、これらのことが中心になる。
一方の生きるため以外のことは、優先順位が低くて考えるなんて、そんなコスパの悪いことを人は好き好んでしないものだ。
その、生きるために必要な家事でさえも、より良くしようと思わなければ考えることが少なくなるわけで・・・。
そうだとすると、老人(私というサンプルでいうところの)は生きるための仕事もそこそこになり、家事の創意工夫もそこそこになるから考える必要がなくなる。
考えなくなるのは当然のことのように思える。
定年退職すると生きがいがわからなくなるケースがあるというが、これは考えることがなくなる、もしくは、考える必要がなくなる、ことによる側面があるのではないか?
そんな風にも感じる。
ここで、先ほどの「勘違い」について考えてみる。
なぜ、「勘違い」(以下「混同」は省略する)が起こるのか?
それはザックリと覚えて記憶して終わらせたからなのだと思う。
少なくとも私はそうだった。
とりあえずこうなんだな、とスピーディーに知る。
「知る」「わかる」「覚える」「理解する」「教わる」「考える」「気づく」の単語の違いで「学び」を捉えなくても、表面的であっても生きるのに何の支障もない。
深く掘り下げることは今風に言えばとにかくタイパ(タイムパフォーマンス)が悪いわけで・・・。
これは確かに合理的な判断なのだが、裏を返すとだいたいのことは考えてない、ということが露呈する。
必要のないものは、考えて理解しようとしない。
ということは、私に「勘違い」なんてのは、そこら辺で起こりうるものだということになるわけで、チャンと考えた作家の方の指摘にすぐに納得してしまうのだ。
どうやら私は、考えてもいないのに、「勘違い」が起こる、と嘆いていたようだ。
考えているつもりでも全然考えていない、ということが見えてしまった。
「勘違い」をなくすには、「覚える」ではなくて
考えないとならないのだ。
何を、どうやって、なぜ、学び続けるのか?
自分が、「勘違い」を避けたいのはなぜなのだろうか?
昔は、たくさんの「勘違い」によってプライドが傷ついて嫌だったのだが、今はそこではない。
自分の固定観念が、分厚いことに気がついたことによるものなのだ。
自分の中でこうだと思っていることだけが正解なわけではない。
他にいくつもの正解がある中で、ひとつの正解に固執することで自分の自由を自分が奪っていることに気づいたのだ。
だから、生きるために特段必要がないにもかかわらず、「勘違い」についてだけは取り除こうと躍起になっている。
「自由を獲得するため」これが私が学ぶ目的なのだ。
今更?ベテランにはとても似合わない若者のような目的になってしまった。汗笑。
それでも今回考えていくうちに、この目的が自分の中でハッキリした。
そして、本の中のこちらの部分が、私のこの目的をを後押ししてくれる。
お金で言うと、知識は持ち合わせ、教養は資産。
資産のある人は、より多くの可能性を持っていて、自由な選択ができる。
余裕を持った生き方ができるから、多くの方面に興味を持ち、他者に対しても優しくなれるだろう。
優しくなれるかは自信がないが、私は、自由のために「学ぶ」のだ。
ここで、冒頭の田中さんのブログに戻る。
自分の固定観念も、そこから自由になることも、自分の中のことで、自分で変化したことを認識するしかない。
すべて自分自身の理解でしかなくて、私のこの「学び」は特に自分の体験や事柄にリンクなしでは全くできないものだ。
だから、田中さんの言葉に異様なくらいに深く納得した。
加えて、リンクさせるには「気づき」が必要で、これが非常に大切な要素だ。
そもそもハイライトがされる(特定の言葉が光る)のは、その言葉が自分の中の何かにリンクしたからで、一般的に興味を持っていると感度が高くなってリンクしやすいと言われるが、これについて少し別のことを最近感じている。
常に自分が、あやふやな状態、モヤモヤ状態、不安定な状態でいること、不完全な状態、でいること、そして、その状態を自分を許している状態でいること。
これはニュートラル状態に近いのかもしれないが、少し違うニュアンスだ。
この状態によってリンクしやすくなるような気がするのだ。
なぜかというと、新しいものは不安定なものに入っていきやすいからであり、完全なものは壊されまいとして、身を強固にするからであり、自分を許してないと興味が外に向かないから・・・。
・・・・・・・
さて、ここまでツラツラと思うところを綴ってきたが、そこから自分が「学び」について私なりのまとめをして終わることにする。
〈気づき〉
・考えているようで、考えていない。
だから、「考える」余地は至る所にある。
・意図的に「覚える」のは苦痛でしかない。
「覚える」ものは無意識に苦痛なく覚えている。
・「気づく」と「理解する」は楽しい。
〈目的〉
・自分の固定観念から自由になる。
〈やりたい「学び」〉
・不完全な状態でいることで、「気づく(リンクする)」
・「気づく」ことをキッカケに「考える」ことで「理解する」
・「覚える」「教わる」ではなくて、「気づき」と「理解」
何とも自分都合の内容だ。
これだけでは社会生活がままならないだろうけれど、それよりも大事なことのように今感じている。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
世の中はすべて重なり合った状態。
それを確定してはほどいて、確定してはほどいて・・・そのかりそめの連続なのかもしれません。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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