「葬送のフリーレン」から、また幅を意識してその中を自在に行き来することの大切さを確認した話。
ある店のカウンターで一杯やっていた時のこと、隣の席の男性の残念がっているこんな声が聞こえてきた。
「葬送のフリーレン、連載ストップしてしまったんだよ。」
「葬送のフリーレン」は大人気マンガで、私も勧められて以前アニメを観たことがある。
それを聞いて、逆隣りの女性が周りに聞こえるか聞こえないかくらいの声で、「ストップなんだ・・・」とまた残念そうにつぶやいた。
どうやら私は「葬送のフリーレン」のファンに挟まっていたらしい。
私は観たと言っても数話だけなので、ファンと会話できるほどの知識はない。
なので隣に声をかけるのは控えて、「葬送のフリーレン」についてひとり思いを巡らすことにした。
1000年以上生きるとしたら
「葬送のフリーレン」は静かに染み入るような新鮮で不思議な感覚になる作品だったことを思い出す。
主人公のフリーレンは魔女で、1000年以上生きている、という設定。
フリーレンが仲間と共に旅するところをずーっと描いていく。
フリーレンは冷静沈着で、感情を表に出すことが少ない。
この冷静沈着さに私は、若いのにうらやましい!と感じるわけなのだが、実際には若くはないわけで・・・見た目が老けていないから、どこか錯覚してしまうところがある。
一方で、感情が抑制されているように見えてどこか可哀想にも感じてしまう。
見た目の若さから、冷静沈着なのは不健康だと見立ててしまうのも、また私の錯覚なのだろう。
ところで、フリーレンはもともと冷静沈着だったのだろうか?
ひょっとして、1000年も生きていれば、誰でも自ずと冷静沈着になっていくものではないだろうか?
フリーレンは老けないし、死なないが、多くの周りの人は寿命を迎え、亡くなっていくわけで、フリーレンはその葬送を幾度も経験してきている。
これが「葬送のフリーレン」というタイトルの意味するところ。
たくさんの別れを経験することで、別れが当たり前のものになり、涙も枯れてしまっているものなのではないだろうか?
1000年にはとても及ばないが、私もここまでの人生で、両親や知り合いが亡くなっていくことを経験してきて、若い頃に受けたショックがだんだんと薄まってきている感覚がある。
「順番が来たのだ」と受け入れる感覚もある。
だからフリーレンにもそんなことを想像をするのだ。
死別に限らず、新しい出会いもまた当たり前に感じ、日頃起こることも以前どこかで経験したようなことばかりで、新鮮さがなくなる。
人は経験することで、新鮮さを失う代わりに冷静沈着さを得ていくものなのではないだろうか?
フリーレンは1000年以上生きることで、感情が薄まって冷静沈着にならざるを得なかったのではないだろうか?
もらってしまう人
「よしもと祇園花月」という劇場がある。
先日、この劇場が閉館することになった、とある芸人さんが話していた。
それを聞いた時、意外にも私に何か切ない思いが湧いてくるのを感じた。
私はお笑いは好きではあるが、この劇場はもちろんのこと、お笑いライブを見に行ったことはない。
そんな「よしもと祇園花月」に縁遠い私が、切なくなるのはなぜなのだろうか?
何事につけ、あったものが無くなるということは切ないものなのだろうか?
物が無くなることで、ガッカリするであろう人を想像してその気持ちに寄り添おうとするからなのだろうか?
たま〜に、「人からもらってしまう人」がいる。
他人への感情移入がすごくて、他人の苦しさや悲しさを同じように感じてしまう人。
「もらってしまって」、自分も感情が落ち込んでしまったりもするが、共感性が高く、人に寄り添うことができる。
この「もらってしまう」のは、私が、閉館を切なく思うことの延長線上にあるように感じる。
フリーレンなら、この閉館にあまり感情が動かないのではないだろうか?
私のこの感情はお人好し過ぎやしまいか?と、私はフリーレンの冷静沈着さが欲しくなるのだ。
幅を意識して活かす
物事に対する態度は、無関心と関心の間に幅がある。
そして物事への反応は、感情と無感情の間に幅がある。
生きていく上で、時に無関心である必要があり、時に関心を持つ必要がある。
時に感情が必要で、時に無感情になることがまた必要だ。
どちらかだけになると人は壊れてしまうものだろうから。
時に冷静沈着が必要で、時に人に寄り添うことが必要になるわけだから、この幅の間を自在に行き来できることがまた大切。
この柔軟性、自在性を獲得するために、私は例えばフリーレンの冷静沈着さを学び、例えばもらってしまう人から、感情移入を学ぶんだろう。
フリーレンから学ぶには、手っ取り早くフリーレンのようにすべての出来事を経験したかのように振る舞ってみるのがいいだろうか・・・。
目の前に起こったことを過去に、前世に、あったこととして平然と受け入れるようにする。
それによって、冷静沈着に振る舞うことに近づくことができるのかもしれない。
・・・・・・
「葬送のフリーレン」が人気なのは、感情を出さないフリーレンが、逆に人との出会いによって人間の感情と、一瞬一瞬を大切にすることを学び、成長していくところにある、と聞く。
冷静沈着になるには、感情を無視したり、感情が薄まることが必要だ。
しかし感情を無視したり、感情が薄まってしまうばかりだと人に学び、一瞬一瞬を味わうことができない。
人々は、「葬送のフリーレン」から、
冷静沈着であろうとするあまり、日頃忘れがちな感情を大切にする、
ことに気づかされているのかもしれない。
私の憧れは冷静沈着だが、感情を大切にする逆方向も私がもっと学べるものなのだろう。
ともかく、私はフリーレンの冷静沈着さを求め、フリーレンは人間の感情を求める。
お互いがないものねだりだ。笑。
いずれにしてもこれからは、右にも左にもないものを学んで幅を広げ、新たな幅を設定した上で、その幅の中を自在に行き来する、そんな旅をしていきたいものだ。
追記
この幅のことを考えた時、思い出したものがある。
何かで学んだ階層モデルだ。
人の中に体・情・魂・霊・神の5階層がある、とイメージする。
そしてこの階層間を自在に渡り歩くというような考え方。
情(感情的に)ばかりになっていないか、観察して、情の階層を時に抜け出る。
時に、魂の階層に入って自分の魂が何を求めているのか、聞き耳を立ててみる。
人は神ではないが、神のような視点で物事を観ることもできる。(もちろんいつもできるわけではないが・・・)
このモデルも幅をもって幅の中を行き来することの大切さを教えてくれるものなのだと思う。
Unsplashのthe blowupが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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