RYO SASAKI

自分でコントロールする強さ、偶然を受け入れる強さ〜若さと老いの間で〜

田中 新吾

親しい20〜30代の若者と話していると、よく彼らの周りの人の話になる。

納得いかないことを言われたり、泣かれたり、マウントを取られたり、と厄介な人がいろいろ登場する。

「なんでそんなことをするんだろう?」

その問いに、私はついこう言ってしまう。

「DNAに備わってるからね。」

人は恐怖を避けるために、あるいは自分を有利にするために、いろんな方法をDNAに持ち合わせている。

どれも生存のために必要なことの名残だ。

だが、今では過剰で不要なものもある。

だから、何も驚くことはない。

それぞれが、人の自然な反応なんだ、と。

これを何回か繰り返すうちに、若者からこんな言葉が返ってきた。

「DNAは禁止!」

どうやら本能で片付けてしまうと、厄介な人を改善する手立てが見つからなくて、問題解決にならない、ということのようだ。

たしかに、その通りだ。

彼らの言葉に納得するしかない。

さて、ただの面白い記憶として残っていたこのやり取りだったが、これが後日、意外な形で「人間の強さ」と「若さと老い」を考えるヒントになる。

喜ぶとしっぺ返しがくる

ちょうど同じ頃、別の人と話したことは、「喜ぶとしっぺ返しがくる」という不安感について。

誰もがそんな不安に襲われたことがあるのではないだろうか?

私は以前も、なぜこの不安に襲われなければならないのだろうか?と疑ったことがある。

「喜びがあれば同じだけ悲しみが来る」と考えるのは、どこかで刷り込まれた迷信ではないか、と。

そして、日本人特有の「慎ましさ」という文化の影響もあるだろう。

しかし調べてみると、それだけではない、生存のための切実な防衛本能が働いていることがわかった。

1つ目は、 脳のショックを和らげる。

脳は、大喜びした直後に失敗すると落差を強く感じる。そのため、喜びすぎない安全策を無意識に選ぶ。

2つ目は、自分でコントロールできる方が安心できる

人は偶然を嫌い、原因が明確な方が心理的に楽だと感じる。「偶然より原因があったほうがマシ」と進化的に感じる傾向がある。

補足すると、原始時代などでは予期せぬ病気や事故で部族が全滅することもあったため、「偶然より原因があったほうが生存に有利」という感覚が進化の過程で残ったのだろう。

偶然ミスした──どうしようもない。

油断してミスした──次は気をつけられる。

「どうしようもない偶然」より「自分の油断」のせいにした方が、次は気をつけられるという希望が持てる。

人間には、絶望を避けて自分を守るための、実に巧妙な仕組みが備わっているのだ。

2つの強さ

自分を守る仕組みを持ちながらも、人はどこかで「強くなりたい」と思う。

仕組みがそうさせているのに、消極的な自分のことを弱い人間だと自ら判断して、そこに情けなさを感じることがある。

人間は矛盾を抱えた存在だ。

ここで強くなるためにできることはなんだろうか?と考えてみる。

人は偶然に対して無力であることを恐れる。

だからこそ、偶然を減らそうと努力し、原因を探す。

だが、それでも避けられない偶然は存在する。

ならば、その恐怖が薄まれば強くなったと言えるのではないだろう。

ちなみに普段、私たちが思い浮かべる「強さ」とは何か。

・スキルを上げる

・予測精度を高める

・努力で状況を変える

・原因を探す

こうした力は、自分を改善したり物事を成し遂げたりする力として、多くの人が「強い」と感じるものだろう。

ここではこの力を 「能動的な強さ」 と呼ぶ。

では、能動的な強さとは異なる、偶然を恐れない「強さ」とはどんなものだろうか。

偶然をコントロールできないことを認め、それでいいと受け入れること――つまり、偶然の流れに身を任せる力でもある。

偶然、何か不都合なことが起こると、人は「なんでそうなるんだ?」と苛立つ。

自分は完璧にしているのだから、不都合なことなど起こるはずがない――そんな都合の良い夢をつい描いてしまう。

だから、偶然を許せない。

他人の本能的な反応も、自分にとっては偶然のようなものだ。

先ほどのマウントを取る行動に対しても、人が生き延びるために備えてきた自然な反応だと認める。

周りからは、それをどうすることもできないことを受け入れる。

マウントを取られることは、ある意味避けられないものだ。

だからと言って、マウントによって受ける不利益をそのまま被るわけではない。

その我慢強さとは全く異なる。

同じマウントに対しても、我慢せずに「しようがないな」と俯瞰して受け流せるようになる。

そうすると受け側のダメージが減る。

そしてこれらの結果として、問題のすべてを自分や他人の人格の欠陥や努力不足のせいにしなくなるのだ。

自分ではどうしようもない偶然に、真正面から力を注がないことだ。

これらは、自分の無力さに耐える「受容による強さ」であり、自己だけでなく他人や社会への怒りを減らし、心理的な安定を高める力でもある。

何かを成す力ではないが、自己攻撃・怒り・不安にエネルギーを使わなくて済み、失敗からの回復も早まるのだ。

若さが選ぶもの、老いが選ぶもの

このことが冒頭の「DNA禁止!」の話に重なる。

DNAによるものだ、と言う私は、受容の強さで扱おうとしていて、どう改善したらいいのかを考える若者は能動的な強さで扱おうとしている。

私が若い頃、自分の中でも似たような気持ちがあったことを思い出す。

自分も、先輩が「DNA」のような言葉を使うと、何かごまかしているようでずるく見えて、とても嫌だった。

私も大きく変わったのだ。

それは、若者にとって、「諦め」や「言い訳」に見えるのだろう。

これが「老い」というものか……と少し苦く思いつつも、ただ、老いによるもの、と片付けるのはもったいない。

強さには2つある。

・若さ:前へ進む、変化を作る、突破する力

・老い(いや成熟):受け入れ、無駄な摩擦を減らす力

これらは両方ともが、人が持つ「強さ」であり、向き合う対象によって、目指す目的によって、それぞれが価値を持つ。

得意、不得意はともかく、年齢にかかわらず、両方を持ち合わせて適宜使い分ける。

そうすることで人はより強くなる。

両方を学びながら日々を重ねるのだ。

私自身も、若者から「ずるい」と思われることを、甘んじて受け入れる。

この「分かってもらえなさ」を恐れず、そこに身を任せることもまた一つの「受容による強さ」と言えるのだから。

UnsplashSara Cottleが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

「分かってもらえなさ」を恐れない、と言いつつ、やはり分かってほしいものになりました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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