穴埋め問題にずーっと「正解」を埋めようとしてきた自分が、今「正解」に思うこと。
倫理観に関する田中新吾さんの最近の記事を読んだ。
倫理で言えば、学生の頃に学んだ授業が偉い人の話を聞くこと中心で、物凄くつまらなかった。
記事から田中さんも似たような感覚だったと知って、自分の当時の感覚を思い出した。
倫理がつまらなかった理由は、正解の倫理観を強要されたような感覚があったからなのだ、と今は思う。
私は、穴埋め問題の正解をずーっと求めてきた人間なのだが、一方では正解を強要されることに苦痛を感じていたのだ。
倫理における正解とは何なのだろうか?
例えば、こんな穴埋め問題を考えてみる。
サハラ砂漠マラソンの参加中に、給水所に順番待ちの行列ができていた、とする。
その行列に自分も並んだのだが、後からそこに横入りする者が現れる。
文句を言うと横入りした者と一緒に走っているパートナーが、ひどく熱中症ぎみで体調が悪いので、早く助けたいのだ、と返ってきた。
倫理的な行動とは、□□□□□□をすることである。
□を埋めよ。
さて、□に入る正解は何だろうか?
順番に並ぶというルールを守ることが正解なのか?
不調の人を助けることが正解なのか?
熱中症ぎみなのはみんなも同じなのだから、横入りを許さないことが他の人にとって正解なのか?
とても穴埋めできる正解があるとは思えない。
この例のように、自分の欲求、人を助ける、ルールを守る、などの正解らしきものがせめぎ合う中で、簡単には結論がでないことを自分の内で感じて葛藤する、この葛藤の過程こそが倫理の正解というものなのだろうと思う。
この感覚は、田中さんの記事の中にある、漫画「チ。」の、
「迷って。きっと迷いの中に倫理がある。」
という言葉にピッタリと一致した。
学生が、倫理を偉人から学ぶよりも漫画から学ぶことが多い理由は何か?
教科書にある偉人の葛藤はもちろん深いんだろうけど、到達した結論が書かれてる、に対して、漫画の方は、主人公の親しみやすい迷う経緯が満載だからなんだろう。
そんな風に感じるのだった。
ありとあらゆる正解に夢中になってきた私なのだが、この倫理の一件から、逆に世の中の「正解」というものを疑う気持ちが、湧いてくるのだった。
「正解」への愛が強ければ強いほど恨みも強くなるものだ。笑
正解はどこにある?
かつての私ならば、倫理における葛藤なんていう過程は、まどろっこしくて効率が悪いから、早く正解をくれ!と言っていただろう。
ところがその効率のいい正解を信じるということは、自分で感じることも考えることもなく、他人任せにしてしまうことになる。
当時は、正解が、自分で感じて考えるという葛藤にある、とは夢にも思わなかった。
別の科目算数ならば、それは1+1=2 というわかりやすいルールに則っているから正解があるのだが、そんな明確なルールがあるものは世の中に多くはない。
倫理のように物事の正解は単純に見つけられないものなのだろうか?
以前書いた記事では、物事の正解を偉人の言葉や故事に求めたのだが、そこに絶対的な正解の法則はなかった。
例
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」→ 大きな成果のためには危険を冒す事も必要だ
「君子危うきに近寄らず」. → 徳のあるものは、危険なところには近づかない
「三度目の正直」か「二度あることは三度ある」か
故事は物事の正解ではなくて、自分の決断の後押してくれるサポーターでしかなかったのだ。
人生はある時には危険を冒すことが必要で、ある時には危険を避けることが必要なのだ。
正解だと思った選択に、メリットとデメリットの両面が含まれていて、時には裏目に出たりもする。
明るいは時にうるさく迷惑で、暗いは時に静かで迷惑がない。
慎重は時に臆病にもなり、軽率は時に勇敢にもなる。
今事で言えば、力のあるものはパワハラを起こす可能性が高まったりもする。
中庸(陰陽説によると物事には光と影がある)が大切であると知った。
しかし、中庸という言葉はまた非常に曖昧だ。
中庸は間のどこかにあるんだろうけど、それ以上は教えてくれない。笑。
正解にすがる私は、中庸にもフラれてしまうのだろうか?
中庸を求めて
ネガティブとポジティブの中庸。
ネガティブ過ぎてもポジティブ過ぎても問題が起こると表現したらいいのか?
ネガティブ思考もポジティブ思考も必要だと表現したらいいだろうか?
以前の記事「ポジティブ思考で長生きするには~」
こちらでは、ネガティブ思考をポジティブ思考に変えるには、了見を広げることだ、と結論づけてみた。
ネガティブな人には真面目な人が多くて、真面目な人が陥りやすいのは、正解があると信じていて正解だと思ったことを真面目に実行しようとする。
別のポジティブな見方を頑なに受け入れないのだ。
自分がそうだったからこの件には詳しい。笑。
ネガティブ思考から抜け出せない理由はその頑固さにある。
頑固さをなくすことがそもそも難しいんだ、と言われてしまいそうではあるものの、このアプローチは、ネガティブ思考の解消方法であり、ネガティブ思考とポジティブ思考の中庸を求める方法のひとつであると思ったのだが・・・。
ちょうどこれを書いた後に、ある人(以下Aさんとする)とこんな話になった。
A「(人の)強さにもいろいろあるね。」
私「例えば、大木の太さ、硬さよりも柳のしなやかさ、というようなことですよね。」
A「柳が最強なの?」
私「(意表を突かれて、間をおいて)確かに万能な強さではないですね。」
柳のしなやかさが嵐による風の強い場合に折れることがなく強い、これも故事のような有名な話だ。
「柔よく剛を制す」とも言うのも近いのか・・・。
しかし、硬さに対して柔らかさが万能なのかというとそうではない。
硬さが強い時もある。
このことで、私は物事を陰と陽の2項対立(ここでは硬さと柔らかさ)だけでは、強さを語れない、という当たり前と言えば当たり前のことに気づかされたのだった。
2項対立での表現はシンプルにして分かりやすくするため配慮であって、同時にごまかしでしかなくて、そこに正解なんてものはないのだ。笑。
Aさんはこんな話を続けた。
「物事は、正12面体なのかもしれないけど。」
出典:正十二面体
あらゆる角度から見た時の、様々な要素の組み合わせの何かに本当の強さがある、ということなのだろうか?
あるいは強さの要素はたくさんあるから、その要素をすべて兼ね備えた人でないと、本当に強いとは言えないというのか?
場面場面で必要な強さがあるから一様ではない、ということなのかもしれない。
強さを裏表で説明できるわけはなくて、直線の両端の間の中庸というものでもない。
そんな単純なほど世の中はつまらないものにはできてないんだよ!
などと私はなぜだか強がりながら、この正12面体のことをツラツラと考えた。
このことを私のポジティブ思考とネガティブ思考にあてはめてみよう。
ネガティブ思考の人はポジティブ思考に含まれるものの見方が欠落しているという2項対立は基本の”キ”として、もっと多面的に観るとはどういうことだろうか?
例えば、ポジティブ思考とネガティブ思考という概念枠から離れてみる、忘れてみる、というような見方。
改善しようという思い(ポジティブ思考)が、粗さがしを積極的にさせる(ネガティブ思考)こともあるから、ポジティブにネガティブが含まれているなど、もはやポジティブもネガティブもないような見方があると言ってもいいのかもしれない。
このようにして、正12面体に向けて角が増えていくんだろう。
話がつながっていくように感じるのだった。
正解のない世界の答え
思えば、
時に勇敢であれ、時に慎重であれ、
時に大に越したことはない、時に小がいい
時に人の運命は決まっている、時に運命は自分で変えられる、
などなど、いろんな説?が蔓延しているのが社会というものだ。
そのどれもが一理あると認めるものばかりではあるのだが、そのどれもが万能だと確信に至るものではない。
だからそこに正解があるわけではなくて、同時に、そのどれもが正解なのかもしれない。
正12面体のようにもっと角(視点?)を増やさないとならないのかもしれない。
私の視点、パートナーの視点、親の視点、子供の視点、政治家の視点、地球の視点、更には神の視点(笑、私は神を知らないけど。)。
視点が異なれば正解は異なる。
自分の中でも身体はどう感じるのか、頭はどうありたいと言うのか、魂はなんと言っているのか(魂がどこになるのかわかりませんが)など、別々の見方をする。
更に言えば、正解は失敗をしないように選択するものなのだが、失敗しないとわからないこともあるし、失敗を経験したことで人は強くなる面があるから、失敗すること=正解を選ばないことが正解である、というようなパラドックスにすら広げることもできてしまう。
このように多面的にものを観ることはどこまででも可能で、このようにして了見を広げることは1点に固執せずに人生の可能性を広げて行けると感じるのだ。
ちなみに、正解がないとは言ったが、足を踏み外すと崖から落ちて命が危ないから踏み外さないのが正解、と言った単純なことには正解があるものだ。
また、来年〇〇の資格をとる、という短期的でわかりやすい目標があるならば、そこに向けての正解は狭まるのだろう。
このような比較的単純なことは外して続けたい。
物事の正解があるようでないのならば、いかようにでも自分で想像すること、そして、創造することができる。
たくさんの正解を自分で創造して、その全体から好きな言動を選択していけばいいんだ。
もし、正解が確定している世の中だったことを想像してみよう。
そうならば、正解を押し付けられることにもなり、その正解にすがって生きることにもなりうる。
自分で考えなくていいから楽かもしれないが、これでは、牢獄にいるようで自由ではないし、納得もしていないし、地に足がついていないようで、苦しい方を今の私は感じるのだ。
倫理の話でいうと、違和感のある外の倫理観ではなくて、自分で納得した倫理観で生きるのが健康なはずだ。
こう考えると、正解なんてなくって良かったとまで感じるのだった。
さて、自分がミスした時、あるいは、他人から間違いを指摘された時に活かすとしたならば?
・良かれと思ってやったのだが、自分の見えない視点があって周りの迷惑になったのだ。
・そこの気づきがあって早く指摘してくれて大事にならずに良かった。
・今度はミスしないようにしよう。
・ならば別件も同様に注意が必要だ。
・大切なところは譲れない、指摘は無視していいことだ。
・指摘されたことは細かすぎる。指摘した人の問題だ。
・これを無視したから早くできたのだ。
・そこに気がつかないだけ、自分は本丸に注力してやったんだ。大変だった。よくやった。
・ミスは忘れよう。
・・・
これらのどれかが正解ではない。
どこかに偏らずに、この謙虚さと傲慢さが混じったこれらすべての総和が答えなんだ。
周りに申し訳ないという思いと、申し訳ないことはないという思いを共存させている感覚。
正解をどちらかに寄せようとすると自分の本当から離れるから苦しむんだ。
余談ではあるが、ミスをした時などのこの「反省」という言葉の意味を見てみると、
普通のとらえ方や自分の普段の行動・あり方を振り返って、それでよいか考えること。
とある。
修正や改善という印象が強くて気持ちわっるー!
と過激に言い放ってみた。
私の中のどこかがこう叫んでいる。汗。
ミスにすら、自分への賞賛も忘れてはならないのだ、と感じている。
そしてこの思いに負け惜しみのようだと高みの見物をする別の視点がまた生まれる。
物事をもっともっと多面的に観よう!
その多面的に観たすべてを自分に受け容れよう。
正解についてここまでのことをまとめてみると、正解とはこんなものである、と言える。
・正解は、それを考える過程である。
・正解は、複数の矛盾しているものの総和である。
・正解は、たくさんある。
・正解なんてものはなくて、ただ選択があるだけである。
こう書いておいて、これらがまたすべての場合に当てはまるものではない。
まあまあ私の了見が広がってきたものだと思う。笑。
Aさんの話の最後はこんな言葉だった。
A「正12面体も遠くからみると球に見えるよね。
それから、正12面体の角を増やしていくと球にもなるね。」
んっ?一体これはどういう意味なんだ?
雲を掴むのようなのだが・・・。
それでも今回の私は、正解というものに対して2項対立を語っていた頃よりも、少し具体的に、そして文字どおり”立””体””的”にイメージができるようになった、として今回は終えようと思う。笑
UnsplashのJeswin Thomasが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
この一件で、AI(人工知能)に正解を語って欲しくないという思いがもたげてきました。
AIには、ルールが明確なものをお願いしたい、囲碁とか将棋とか・・・。
みなさんはいかがでしょうか?
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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