連想ゲームの行きついた先は、「人生は人それぞれのゲームなのだ」という結論だった。
ある女性が、その女性の当時の彼氏を奪おうとした恋敵のことを話してくれたことがある。
私はその女性の悲しみをさもわかっているかのように女性に寄り添おうとして、
「ひどい、おんなだねえ、そんなおんながいるんだねえ。」
と応えたところ、いきなり叱られることになった。
「おんな」という言葉を使ってはいけないというのだ。
私は、その理由を聞く隙間もないほどに、その後何度も何度もこっぴどく叱られ続けたのだが、結局なぜ叱られたのかわからず仕舞いで終わった。
恋敵だからといって「おんな」という蔑称は仁義にも劣る、というようなニュアンスだったような記憶があるが、それにしてもそんなに叱られるようなことなのか?と感じた。
思えば私という者は、こんな風にいきなり叱られるということがよくある。悲。
以前このブログで「人生はゲームである」と書いたことがあったが、
その言葉を会話の中で使ってみた時のこと。
「人生はゲームだからね。」
これに対してある女性から、
「(人生のことをゲームだなんて)そんなことは口が避けても言ってはいけないんだよ。
絶対に(ゲームなんて)そんなことはあり得ない。」
と強い抵抗があった。
私がどうしてそんなことを言うのか、その理由を述べる前だったから、いきなり過ぎて驚いた。
それは、私の脳天気さによって私が人生をなめてかかっているように捉えられてしまったからなのか?
それとも想起させる嫌な出来事があったからなのか?
この時もまた、この叱咤の言葉が呪文のように繰り返えされるものだから、なぜなのか理由がわからず仕舞いだった。
誰もが年を重ねると叱られなくなって裸の王様のような恥ずかしい状態になる、とはよく言われることだが、私に関しては、良きにつけ悪しきにつけどうもその心配はいらないのかもしれない。汗。
今回は、これらのことをスタートとして日常に起きたことをつなげて考えていってみたい。
それは、ただの連想ゲームのようなものかもしれない。
はたしてこの連想ゲームが最後に行きつくのはどんなところだろうか?
金融投資
世の中がNISA、NISAとうるさいこともあって、金融投資について少しだけ勉強することにした。
これまでの私と言えば、投資手法にファンダメンタル(企業株でいうとその企業の業績、業績見通しで判断すること)とテクニカル(業績見通しではなくてチャートの株価の値動きで判断すること)があるということだけを知っているくらいの超初心者だ。
大変後れ馳せながらではあるが、ちょっと学び始めただけで、金融投資をする上で考慮すべきことはそれだけではなくて、他に基軸通貨のドルをもつアメリカの金利やら、市場のマネーサプライ(M2)やら、ロシアーウクライナ、イスラエルーイランといった地政学的な状況やら、いろいろな要素がある、ということがわかってくる。
そしてそれらを正確に捉えることはこの先も多分自分にはできないだろうし、仮に捉えたからと言って、他に見えてないこともあるだろうし、その中のどの要素の影響が大きく市場に反映されるのか?これらについて、全くわかる感じがしない。
世の中は複雑で未来予想なんてできないのだ、と早々に感じるのだった。
このあきらめるスピードこそが、私の投資センスのなさとでも言ったらいいだろうか・・・。汗。
投資のセンスのことはおいておいて、私が投資をかじって感じたことは、私の聡明な判断やら、気丈な志やら、たゆまぬ努力やら、といったものには全く関係ないところで自分の置かれている状況が、簡単に変わり得るのだ、という言わば当たり前のことだった。
米連邦準備銀行(FRB)、ロシア、イラン・・・・それぞれはそれぞれの利益のための判断を行う。
彼らが、私のための判断をすることはないが、私の方はその判断によって大いに影響を受けるのだ。
わかりやすい例でいうと円安になるは、物価は上がるは・・・。
現金を持ってるだけでは単に目減りしているということだ、ということもよく聞くようになった。
この聡明さも志も努力も無意味で、私だけが一方的に影響を受けるというような様は、まさに隷属だと言うしかない。
実はこのことは以前から薄っすらわかっていたことであって、投資しない自分は支配者の存在を意識から薄めることができて、自分でコントロールできる世界だけを見て楽しんでいた、ということだったのだ。
投資をしようとすることで、自分が支配されてるものの輪郭がクッキリと浮かんでしまった。
投資に詳しい人が言った、
「(投資で)損した時は、セラヴィ!って思うんだよ!」
セラヴィ(C’est la vie.):フランス語で「それが人生!」という意味で、何が起こっても「自分の人生!」と受け入れるそんな前向きな言葉。
という言葉の意味がわかるような気がした。
サイゴンの一番長い日
最近読んだ近藤 紘一さんの本がある。
この3部作は、長きに渡るベトナム戦争の末、1975年に北ベトナムによってサイゴン(南ベトナム)が陥落した時の様子から始まるドキュメンタリーである。
著者の近藤さんは、当時サイゴン陥落を現地で目の当たりにした記者だ。
興味深かったことは、北軍に、そして南軍に、あるいはそれぞれに加担する外国に、どんな政治的な意図があろうが、それとは別に現地の人に日々の生活がある、ということだった。
著者は、サイゴン陥落の政治的な意味を捉えるよりもそこに住まう人の厳しさと逞しさを描写していた。
それは、サイゴン陥落の年号と政治的な出来事を単に記憶する、という私がずーっと得意にしてきたものとは全くかけはなれている部分である。
政情も住民に正しく伝わらないだろうし、更に言ってしまえば住民はそこに興味がない。
人は、何が起っているか知るか知らぬかにかかわらず、とにかく生きて行かなけらばならないのだ。
著者は、また勝利した北軍の人々のここまでの苦しさや敗北した南軍の人々のその後の苦しさといった具合に、そこに対しても一人の人に焦点を当てた。
起った政治的な紛争、それに人々は大いに影響されるが、その紛争とは全く関係なく人々(軍の中の人であっても)の生がある、その生を浮き彫りにされたように感じた。
紛争によって人それぞれの一瞬一瞬に必死な悲喜こもごもが湧き上がる。
その悲喜こもごもを捉えずして歴史を理解できるものではない。
さて、私には、このサイゴン陥落の話が、先ほどの投資によって支配者が浮かび上がったことと妙に重なって見えてきた。
紛争と投資は別物ではあるのだが、サイゴンのように目立った紛争が起こってないにしても、我々も自分ではどうすることもできない大きな支配者の支配のもとに生きていることには変わりはない、ということを痛感するのだった。
正義はそこ、ここにある
「人の役に立つ」
これはかなりメジャーな人間のあるべき価値観の一つである。
これに対して、それを打ち壊すような投稿がSNSにあった。
中身をザックリ言うと「人の役に立つ」というものもエゴかもしれないし、「役に立つ」とことさら思わなくても生きているだけで役に立っているものだ、というような意味合いだった。
この身勝手極まりない私ですら、「人の役に立つ」ということを一度は考えたことがある。
またこれとほぼ時を同じくして、私は金融投資の経験者にこんな質問をしたことがある。
「金融投資は(冷暖房完備のパソコン前での作業だから)汗水たらして働く、っていうこととは違いますよね、そこは気になったことはないですか?」
今思えば(私らしい?)なんとも失礼な質問をしてしまったものだ。
後から気づいたこと、それは「汗水たらして働く」も私の中にある価値観で「人に役立つ」というのも同種のものなのだ、ということ。
同じ価値観同士ということでつながった。
「人に役立つ」と「汗水たらして働く」もいまだに私の中にある正義だったのである。
さらにまた別の話だがやはり同じ頃、あるお店の常連さん3人とご一緒させていただいたことがあった。
その場は、常連さんの1人の言動に対する文句?のようなものに終始した。
「この人は変わり者で面倒くさい奴だ。」
「この人は呑み過ぎを注意した方がいい。」
などなど・・・。
私はその話を聞いていて、変わり者というのもわからないではないし、呑み過ぎも気になるし、そのどれもが一理ある、としか言いようがなくて、風見鶏のように相槌をうち続けていたのだが・・・。
これらの文句?に感じた始めたことは、「変わり者で面倒くさい奴だ」と言った時にそこに込められているものとは、言った当人は、変わり者ではない、面倒くさい者ではない、という認識があって、変わり者にも面倒くさい奴にもなってはならない、というその人なりの正義だった。
「呑み過ぎに注意」にも言った当人は呑み過ぎはしないし、呑み過ぎてはならないというその人の正義がある。
そして今度は、この「変わり者にはならない」「呑み過ぎ注意」が彼らの正義であるのと同様に、「人に役立つ」「汗水垂らして働く」がまた私の正義なのだ、と正義同士がつながった。
どうやら正義というものがそこ、ここにある・・・。
人はそれぞれの意味付けをして自分の正義を築き上げる。
そして、その正義を選択することでよりよく生きようとしているのだ。
そしてこのことは人間の素晴らしさでもある。
しかしそうは言っても、正義があるということはその正義の裏が露わになるということでもある。
「変わり者にはならない」には「変わり者になる」、「呑み過ぎない」には「たんまり呑む」、「人の役に立つ」には「人の役に立たない」、「汗水たらして働く」には「汗水たらして働かない」
そして、この裏もまた正義になり得る。
「変わり者でいいじゃないか?」
「たんまり呑んでもいいじゃないか?」
「人の役に立たなくってもいいじゃないか?」
「汗水たらして働かなくたっていいじゃないか?」
これらの裏を正義として生きている人だっているだろう。
正義は人によって相反する場合もあるだろうし、同じひとりの人間の中でだって時に相反するものだろう。
その正義の選択は人それぞれの自由なのだ。
※人に迷惑がかからない範囲で、ということにはなるのだろうが。
人生はそれぞれのゲームなのだ
さて、ここまでのとりとめのない連想ゲームをここでまとめることにしよう。
結論はやはりこう言うしかないだろう。
「人生はそれぞれのゲームなのだ!」と。
そのゲームは二層でできていて、まずひとつは、それぞれの人がそれぞれが意味付けした正義を自由に選択していく、という層だ。
ここは自分の力で変えることのできる層である。
例えば「変わり者にならない」、「変わり者になる」を当人が自分で選ぶ。
あるいは、「人の役に立とうとする」、「人の役に立とうとしない」を当人が自分で選ぶ。
これらの選択肢を眺めるだけでも、すべての選択肢の表と裏のどちらにも一長一短があることを想像できる。
そして、どちらかを選ぶことになると選ばなかった方の一長一短を経験することはできない、というものでもある。
変わり者は変っていない者の安寧を知らない。
変わっていない者は変わり者の自由を知らない。
人生は、あらゆるところに選択という分岐があってその選択の両取りはできない、取捨選択のゲームなのである。
※程度によって両取りをできているように見えることもあるが、その時の経験はまた程度が浅くなるのだろうと思う。
次にもう一つの層について。
国や米連邦準備銀行といったような大きな社会に支配されている層がある。
これは自分のコントロールでは何ともならない層で順応するしかない。
この層は、ボードゲームの『人生ゲーム』でいうところのサイコロを目という偶然に翻弄されるようなものだ。
そうだとすると、第一の層はサラリーマンコースを選ぶのか芸能人コースを選ぶのか、といったコース取りが当てはまると言ったらいいだろうか・・・。
人生というゲームは、この第一層と第二層が混在するゲームである。
第二層を大きいと捉えれば、自分の無力を感じて人生に絶望を感じる可能性もある。
第一層を大きいと捉えれば、自分の責任を重く受け止め過ぎて苦しむ可能性もある。
何が大きいと捉えるかもまたそれぞれが自分の正義に基づいて選択することになるわけだ。
どんな人生がベストなのだろうか?
一概にこれというものがもはやなくなったのではないだろうか?
どんな人生にも一長一短が入り混じるからどんな人生も”あり”なのだ。
人類すべてに共通する正義なんてものはほとんどなくて、そもそも正義とは人それぞれの中にある別々のものなのではないかとすら思えてくる。
そして自分の選択によって別の選択をした場合の経験は絶対にできないのだから、たぶん人生を完全に満足するなんてこともないんだろう。
いずれにしても支配されてしまってどうしようもない足枷がありつつも、自分独自の正義を選択していくことができる、自分だけの唯一無二の不確実なゲーム、それが人生なのである。
これだけ不確実なゲームなんだから、たとえ上手くいかなかったとしても、問題が起こったとしても、悔やんでる場合ではない。
ただただ与えられた折角のゲームを遊び楽しむにつきるのだ。笑笑。
そんなところが今回の連想ゲームの着地になった。
最後に、冒頭の話に戻ってみる。
恋敵の女性を「おんな」呼ばわりする私を叱った女性。
ここにもその人の正義がある。
奇しくも「人生はゲームだ」と言った私を叱った女性。
ここにもその人の正義がある。
「人生はゲームなのだ」という今回の私の結論にだって当然裏の選択があるわけだ。
いずれも尊重されるべき正義である。
でも私はその正義を選択しないから、いくつになっても叱られ続きのゲームをしているということらしい・・・。
それでも私という者は、叱られても懲りずにめげずに自分独自の選択をしていくんだろう。
「セラヴィ!」
何が起こるかわからないのがゲーム。
何が起こっても、それが自分の人生なのだから。
【著者プロフィールと一言】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
子供の頃、ボードゲームが好きだったことを思い出しました。
そんなゲーム好きの私なのだから、ルールを理解することで人生というゲームがもっと楽しくなるように思いました。笑。
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