「客観視したら負けだよ!」~客観視を一旦停止せよ!
『客観視したら負けだよ!』
TVから聞こえてきたこの言葉が妙に耳についた。
この言葉が気になったことで、これまで私が”客観視”というものをどこか大切にしてきた、ということに気づかされる。
TV画面を覗くと新人のタレントさんがミニコントに挑戦する企画をやっていて、そのタレントさんが演技している途中に、吹き出してしまって上手くいかない様子。
それに対して先輩がアドバイスしたのがこの言葉だった。
『客観視したら負けだよ!』
演技中に例えば、
「なんてバカなコントをしているんだろう?」
「下手な芝居をしてしまってはいないか?」
「周りにどう見られているんだろう?」
こんな風に演者が客観視をしてしまう。
そうすると気が散ってしまって演技自体が上手く行かない。
客観視は時に集中を削ぐ場合があるのだ。
そんな意味合いのアドバイスだったと思う。
この時思い出したのが、私のスピーチでのこと。
ずいぶん前になるが、会社の大勢の前でスピーチさせられたことがあった。
スピーチの合間に頭の中で高速で客観視が回転して膨れてしまって、話すどころではなくなってしまったのだ。笑。
スピーチの上手い人というのはもちろん会場の雰囲気を察知するという適度な客観視を入れて臨機応変にやるんだろうが、私のような者は逆に迫りくる自分の客観視によってスピーチ自体が溺れてしまったように思う。笑。
これはその時はわからず、スピーチ下手くそと自分にFBしただけだったが、ずいぶん後からこのように理解できたのだった。
「観衆を畑の芋だと思え!」という上手くスピーチをするための教えは、客観視をなくすという効果によるものなのだろうと思ったりもする。
”客観視”が仇になることがある・・・他にもそんなようなことがあるものなのだろうか?
客観視は万能である!?
”客観視”
これは生きるのに必要なことで、それができることは素晴らしい、と一般的には言われている。
人は、自分の言動がどんな風に周りに映っているのか?評価されているのか?これを常にチェックして、周りに迷惑にならないように、更には周りに評価されるように立ち振る舞うものだ。
自分の言動に問題はなかったか?常に自分を監視する。
問題が見つかれはその場で改善する、もしくは次回に向けた改善のために記憶する。
こうすることで失敗が少なくなり、周りに気を使える人だとか、仕事のできる人だとか評価されて立派な大人に成長するのだ。
逆に”客観視”ができない人は”KY(空気が読めない)”などと言われたりもする。
また、ある目標を目指す時に、その目標まで現在どれだけの乖離があるのか?どこが問題か?何の事象を、あるいは、何の能力をどの程度上げないといけないのか?
これらの”客観視”することによって、現状が明確になって目標実現のためにやるべきことが明確になったりもする。
こんなように”客観視”というものは、世の中に順応するためだったり、周りと上手くやっていくためだったり、目標を達成するためだったり、自分の能力を上げるためだったり、とあらゆる場面で有効なものだ。
それゆえ、私は知らぬ間に”客観視”を万能だと思ってきていた。
子供の頃を振り返ると、私はテストの点数(間違い)によって自分の無知、同時に自分の実力を知り、間違えたところを次回に向けて復習するという癖がついたように思う。
その癖が、その後勉強の領域を越えて、「今日一日のパフォーマンスがどうだったか?」を復習して次回に向けて改善点を考える習性を作り上げたようにも思う。
これがわかりやすい”客観視”の始まりで、いわゆる行動の分析・評価の始まりだったのではなかっただろうか・・・。
音楽を存分に味わうには?
先日、久々に知人のライブを見に行った。
ピアノとバイオリンによるライブ、その演奏が始まってすぐに、私はCDと違う生の迫力に圧倒される。
そんな矢先私の頭によぎったのは、なぜだか「この音楽を存分に味わう」にはどうしたらいいだろうか?というものだった。
もし十分に味わっている人と味わっていない人の差があるとするならば、それはどこからくるものだろうか?
会場のお客さんの中で最も存分に味わった人になるにはどうしたらいいのか?笑。
そんな比較ができるものでもないし、そこで1等賞を取りたいわけでもないのだが、そんな極端なことまで思ったりしてみた。
すると私の脳はその音楽の素晴らしさを言葉にしようとし始める。
「懐かしい感じがする」
「天に向かって希望が広がっているようだ」
・・・
うーむ、どうも違う。
言葉にした時に音楽を浴びることがどこかおろそかになってやしまいか?
言葉にするのは二次的なことで、その前にまずは感じねばならないのではないだろうか?
それで今度は、言葉を抑制することを試みる。
そうすると瞑想に近い状態だ、と感じる。
瞑想状態の時は何も考えていない、などと言うが他にもいろいろなやり方がある。
過去の思い出、楽しかったこと、今周りにまとう目の前のそよ風など、何でもいいからひとつのことに集中してそれだけを思い浮かべて他の思考をシャットダウンする。
この方法に習うとすると、流れる演奏を感じることだけに集中してただただ受け取るということになる。
そう言えば量子力学では、物質すべてが波動であるという。
ただただ受け取る状態になって、更に人間の体の波動と音楽の波動を共鳴できれば、存分に音楽を味わったことになるんではないだろうか?
などという妄想もよぎりはじめる。
そうしていると自然に首がダラっと下に垂れ、半眼になるのがわかる。
こんな状態で少しだけ瞑想できている時間があったように思う。
それでもまた音楽の感想が言葉になろうと抵抗し始める。
更によろしくないことに、自然に首がダラっと下に垂れ、半眼になっている自分は、周りから居眠りしている人に見られはしないだろうか?そんな思いがよぎる。
まさにこれが客観視が働いて音楽から集中が解かれてしまった状態だ。
ここであの言葉がやってきた。
『客観視したら負けだよ!』
物事を言葉によって意味づけ(感想や評価)し始めたらそれは客観視であって、客観視は既に音楽そのものへの集中を欠いている状態で、ならば音楽を存分に味わえていないのではないだろうか?
そんなことをツラツラと思い廻らしているうちにライブは終演となった。
とにかく、“客観視”という言葉をTVで聴いたことをキッカケに、客観視(言葉に)することと音楽に集中して十分に受け取る(感じる)ことは邪魔し合う可能性があるように思えた。
だとすれば、音楽を存分に味わうには、まずは言葉にせずにただ受け取ること、そして音楽が終わった後に時間をかけて言葉にする。
そんな手順がいいのではないか?
そんなところまで思い至ったのだったが、それが実行できるまでに至らずだった。
客観視を考える
音楽を存分に味わおうとすることで、音楽を存分に味わうにはどうすればいいかを考えてしまって、気が散ってしまって逆に音楽を味わえなかったという何とも散々な結果だった。笑。
まあ、そんな散々な結果でも、新しい気づきもあった、と思っている。
それは、”客観視”をどこか万能なものと崇拝していた(意識もしなかったくらいだが・・・)自分なのだが、やはり何事にも万能はないというところに意識が向いたこと。
客観視によって分析・評価を癖にしてきた自分だからこそ、その癖に囚われることなく、逆に分析・評価を停止する時間を作ってもいいんだろう。
分析・評価を停止すると集中度が上がって没頭できるはずである。
この別メリットを享受できるように思いはじめたのだ。
何事もそうだが、何かに傾倒すると別の何かが失われる。
だから自在性があった方がいい。
このことが客観視にも当てはまる、となっても何の不思議もないだろう。
具体的には、客観視のON/OFFをコントロールする、ON寄りの私ならば、少し客観視OFFの訓練をするのがいいんではないか?
でも、どんな時にどの客観視をOFFにするのか?これもなかなか難しい。
そして、何かをやりはじめる訓練も大変だが、癖づいたものをやらなくする訓練もまた簡単ではないだろう。
それでもできるところからチャレンジしたい。
そんなような仮説と思いに今回着地するのだ。
敢えて客観視の危険な面を追加しておくとすると、自分の客観視には限界があって、周りからの評価をもらわないとわからないところがあること。
そして、自分の狭い客観視、あるいは周りがそう思うだろう、という客観視に依存してしまうと、それらの視点に監視されるという何とも窮屈で生きづらいことになってしまうということ。
“客観視”は生きるのに必要不可欠だが、万能ではない。
こんなことをあらためて確認した上で、いい塩梅でつきあっていきたいと思うのだ。
さて、そんなことを思ったからか、冒頭に書いた”客観視”ができない人が”KY”と呼ばれる件について最近こんなことを感じはじめた。
世の中には”客観視”ができない人ばかりがいるのではなくて、ある場面においては”客観視”を意図的にしない人がいるのではないか?と。
何に対しても客観視による調和と成長を追いかけずに、どこかでそれを放棄して周りから何を言われようが自分の感じるまま自由に言動する人がいる???
こんなような人が今やどこか憧れる存在である。
自分もどこか”KY”と呼ばれてみたい。汗。笑。
などと、自分がさも”KY”ではない前提で書いておいて、すでに裏で”KY”と呼ばれているのかもしれないのだが・・・。
そうならばこれがまさに私の客観視の限界なのだろう。
P.S.
音楽を存分に味わうための基本は音楽に集中すること、というのは当たり前に言えることだろうと思う。
ライブの途中に、他の仕事や家のことが気になって、頭によぎるならば残念ながら味わったとは言えないだろうから。
これはそうとして、今回はその先にもっと味わうには?という欲が湧いたわけなのだが、結局わからずじまいだった。
そもそも味わうのは自然であればいいのであって、もっと味わうなんてのは頭が考えたナンセンスなことなのかもしれない。
それでも、そんな思いが浮かんできて、量子力学で言われる「人間も波動である」ということをそこに活かせないだろうか?更にそんなことまで浮かんできた。
ライブ中瞑想状態の時に、自分は波動であると言い聞かせ、音楽の波長に共鳴しようというとんでもないことを意識してみたのだった。
それで共鳴ができたのか?というと正直わからない。
それでもライブ終わりに指先がジリジリと震えているのが感じられた。
これは単なるフラシーボでそう思い込んだからかもしれないが、そうだとしても反応が現れたということで引き続き、試してみたいと思う。
こんなとんでもないことを思いつく根底には、折角学んだ学問(今回は量子力学になるが)なのだから、学んだすべての学問を日々の生活に活かしたい、という強い思いがどうやら自分にあるようで・・・。
なぜそこに強い思いがあるのか?それはハッキリしていない。
単なるモッタイナイ精神なのかもしれない。
UnsplashのJeremy Bishopが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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