RYO SASAKI

自分の取説作成のすすめ~メタ認知は多様性社会への第一歩なのだ~

タナカ シンゴ

気づくといつの間にか、ネット動画(YouTube等)を観ている時間がTVを観ている時間を上回るようになっていた。

日本のネットの広告費がTVの広告費を上回ったのが2021年のことだから、私は時代に2年遅れということになるだろうか・・・。

TVはその数秒の時間が貴重なこともあって、無駄なく非常によくまとまっているが、ネットでは出演者が比較的好き勝手に、ダラダラとグズグズとやっている印象がある。

それでもネットでは、特に出演者の本音に近いところが聴けているように思う。

あまり計算されていない、行き当たりばったりの感じ。

これが洗練されたTVと比較して何とも新鮮だ。

時に過激だったり、時に下品だったりと、人を不快にさせる面はあるものの、それがまた真実に近いところにあるように感じて、そしてまた痛快で人間味も出ていて面白い。

ネットを痛快に感じることで、TVがいろいろ制限してうまく構成されていると気づかされる。

そしてまた、どこぞに忖度していると気づかされるのだ。

いまだ多くの人が見ていて影響力の高いTVだから、コンプラが厳しくなって当然なのだろう。

影響力の大きいものと小さいもののそれぞれのメリデメを認識して、それぞれの使い分けがわかったような気になった。

というよりむしろ、この影響力はかなり拮抗してきているのかもしれない。

さて、この「本音を語る」ということに関して、最近私のアンテナに引っ掛かった言葉が次のようなものだ。

「私は、元来、意地が悪い性格だから・・・・」

自分の悪いところを実に冷静に観て、自分から普通に話すことが、散見されるようになって、ハッとした。

以前ならば、メディアで自らの欠落したところを話すようなことはなかったのではないか?

人気者に悪い評判が立ってしまってはいいことがないだろうから・・・。

もちろん、話したとしても十分計算の上だろうけど。

この「意地悪い性格だから・・・」は一般的にいうメタ認知のひとつだ。

メタ認知:自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること。

自分のことを他人のように外から認識するということ。

今回は、この引っ掛かった言葉をキッカケにして、「メタ認知」というものについて、それも自分の良くない性格を認知すること、について書いてみたい。

脳にできた傷

人はほとんど無意識(意識しているのは5%程度)で動いているというから、普段は認識していない範囲が果てしなく広いということになる。

なぜ、キャベツがそんなに好きなのか?

なぜ、あの言葉にあんなにむかついたのか?

なぜ、そのゲームにそんなに夢中になるのか?

・・・

いちいち行動に対してなぜか?を問えば、切りがない。

それだけ、メタ認知はしがいがあるということになる。

このように”自分の無意識の行動をメタ認知する”に当たって、ヒントになる本があった。

こちらの本では、人間は生理的な欲求以外に5つの欲求を持っている、と言っている。

①コントロール欲求

 自分が(周りを)コントロールしたい

 自分が(周りから)コントロールされたい

②承認欲求

 認められたい

 否認して欲しい

③安全欲求

 安全になりたい

 危険になりたい

④所属欲求

 皆と同じになりたい

 特別になりたい

⑤愛の欲求

 愛されたい

 愛したい

人はこれらの欲求を複合的に持ち合わせていたりすることもあるし、これらの中に特に強い欲求があったりもする。

そして、各欲求の項目の下に書いた両極があり、どちらかに寄っていたり、両極を行ったり来たりすることもあるらしい。

それが個性となって表れる。

否認して欲しい、なんてのがある。

承認ばかりされるとその反動がおこるんだそうだ。

何とも羨ましい。笑。

この強い欲求は「不足」を認識することからくる反動によって主に幼少期に生まれるものだという。

例えば、親から「何をやってもお前はダメだ」と言われ続けた子供は承認されることが不足していると認識して、自分が承認されることを求めるようになる。

「変わり者だ」と言われればみんなと同じになりたいと願うようになる。

物事は、マイナスならば反動でプラスに向かい、プラスならばマイナスに向かう。

実に物理的にできている。

これは万物の理(ことわり)のようで納得するものだ。

この不足の認識はいわゆるトラウマのことで、トラウマのことを一般的に「心に傷を抱える」などと聞いたりするのだが、ここでは「脳の傷」と表現している。

脳の記憶として、強烈な認識が刻印された、という意味合い。

私は全く認められていない存在である、という認識、記憶。

私は変わり者である、という認識、記憶。

その認識はだいたいが間違っていて本来無意味なのだが、素直な子供には特に強く残ってしまう。

人はこの認識によって無意識にずっと認められようと、あるいは、みんなに倣おうと、頑張って生きていくものなのだ。

行動を観察しただけではわからないが、その原動力をたどるとなぜあるのか説明ができない「認められたいといううずき」、この感覚が「脳の傷」ということなのだろう。

この脳の傷を書き換えることで、トラウマが解消して人生が楽になる、というのがこの本の骨子のひとつ。

承認される、されないも、変わり者であるも、ないも、ある部分だけを切り取って誇張しただけで、意味がない。

更には、外から言われることよりも自分の内面で自分がどう認識するのか?が大切だと伝えている。

私のメタ認知

この5つの欲求の中で、私にある強い欲求はどれなのだろうか?

以前は②承認欲求もあったと思うが、今はかなり薄れた模様で、

④所属欲求の「特別になりたい」

②安全欲求の「安全になりたい」

が今現在の欲求ということになりそうだ。

「特別になりたい」は、ここ数年で出てきた欲求だ。

若い頃はー今となっては無理をしていたとわかったのだがー常識人を目指して、周りに倣うように生きていたつもりだったから・・・。

ところが、これに関して先日久しぶりに会った後輩が、当時から私は言いたいことを言っていたと、意外なことを聞いた。

自分の記憶とどうも違う。

どうやら私は過去の不足を補って「特別になりたい」などという欲求を持たずともそのままで十分に特別だった(変わっていた)らしい。

全く私のメタ認知の怪しいことといったらない。汗。笑。

一方の「安全になりたい」は子供の頃からずっと根底に持っていたもののように思う。

思えば、恥ずかしながら何かになりたいと主張した記憶がない。

「食っていきたい」「安全になりたい」以外の欲求があっただろうか?

一時の「もてたい」「カッコよくなりたい」くらいのものではなかっただろうか?

この「安全になりたい」が根底に横たわっている。

だから、突飛なことができない。

新しい冒険ができない。

今思えば、頭が意識する「冒険をしなければ!」という思いと自分の中の何かとが葛藤し、中の何かが強いように感じていた気がする。

これが、私の「脳の傷」ではないだろうか?

「社会は危険なところだ」という親の言葉や親の苦労を見て、社会の安全の不足を強く認識したのではないだろうか?

加えて、ご先祖様からひきついだDNAによる部分もあるように思う。

この本によると、私の「脳の傷」を書き換えると冒険できるようになる、ということのようだ。

でも、私は「安全になりたい」欲求によって苦しんだのか?というと、そうとだけは思えない。

堅く安全に生きてきて今がある。

それはまさに自分の欲求どおりで順調で満足している面がある。

私に限らず、この「脳の傷」で生まれる強い欲求が原動力となり、うまい具合に物事を進めることもあり、それはある意味その人の欲求どおりに進むということである。

その承認欲求を遺憾なく使って、大きな組織の長にまでのぼり詰めることができる人だっている。

強い欲求は、「脳の傷」というネガティブに表現されてはいるものの、その人の人生を彩るものなのだとも思えるのだ。

その一方では、この「脳の傷」(トラウマ)で苦しんでいる人がいるし、順調できた人もどこかでこれに苦しむ場面もあるのだろうから、書き換えで改善することは有効な手段だろうと思う。

この両方に理解が着地するのだった。

多様性社会に必要なこと

足りないものを埋めるために発生する強い欲求。

人は自分をコントロールしているように感じられているのだが、知らず知らずにこの欲求に導かれている。

今回は、そのホンの一部なのだろうけど、無意識のメタ認知を試みられたことはいい機会になった。

無意識の原因が特定できて、更には意識と無意識が矛盾しているというようなことも認識できれば、とにかくスッキリする。

そして対処や放置が選択できる。

また、自分の強い欲求がわかるということは、自分の良い部分、同時に悪い部分も認識できるということになる。

私の場合は、着実だが大胆さがない・・・汗。

冒頭に戻って「私は、元来、意地が悪い性格だから・・・・」という言葉に感じたこと。

自分の悪い部分を認識してそれを平気で話すということに私は多様性社会を感じた。

特に私の生きた昭和の時代なんかでは、私は正しい人になることを追い求め、それを周りにも要求した。

そのために常識で武装しようともしてきた。

さすがにこの年になると「なんか違う・・・」と改心してはきたのだが、自分こそが常識的で普通な人あって、周りの言動に対して「信じられない!ありえない!」と驚くような名残がいまだにある。

周りにもこれと同じような反応をする人が結構いるのも感じている。

普通なんてものは幻想で、正しいなんてものもない。

人が正しいところに矯正することができるというのも幻想。

人は、どうしようもない無意識からくる衝動、あるいは意識的な衝動に苛まれて、それを何とか抑制してギリギリ生きているような存在なのだ。

少なくとも私は・・・。

その衝動が時に周りに迷惑をかけることは避けられない。

もちろん迷惑はかけたくはないが・・・。

そしてまた、今回の強い欲求が人それぞれに違うように、それぞれの良さ、悪さも違っているのだ。

これが人間味というものなのだろう。

多様性を認めるには、まずはメタ認知が必要だ。

自分の良いところも悪いところも。

その悪いところは直すために認知するのではなくて、周りの迷惑になる時に、最低限抑制するために認知する。

そして何よりもポジティブな個性として認知するのだ。

この自分をよく知りそれを容認することで、やっと他人の容認に広がっていく。

そうして多様性社会が実現するのだと思う。

昔から言われていた「自分の取扱説明書」というもの。

自分の変なところ、めんどくさいところを前もって周りに伝えておくものだ。

うまいこと言ったもんだ。

自分の取扱説明書は、自己紹介のプロフィールに入っていたら手っ取り早いのかもしれない。

私の取扱説明書には、

ー着実だけどチキンな生き方だね、という言葉は図星なのでかなり不機嫌になる、要注意。ー

と書くのが適切だろうか?笑。

これは、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公マーティーとどうもかぶってしまった。笑。

多様性の時代は、普通や立派や模範に収れんすることのない自分らしさ=個性の時代。

この自分の取扱説明書は個性を示していて、まさにメタ認知の賜物だ。

社会全般で、自分の悪いところのメタ認知は、以前よりずいぶん進んでいるように感じる。

それでも一方では、その悪さがあるのは個性ではなくて欠陥であると認識してしまって、その悪さに真正面から向き合えないケースもまだまだあるように思う。

また、自分の悪さを自分は容認しているのだが、周りに話すと引かれてしまうから言い出さないでいるケースもあるのだろう。

いずれにしても、みんなのメタ認知がもっと進んで、自分の変なところ=個性を隠すことなく話せるようになるともっと社会は面白くなるだろう、とあらためて思うのだった。

UnsplashMartin Sanchezが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

大胆になれない自分の言い訳を探したつもりはないのですが、さてはて周りの人にはどう映るでしょうか?汗。

ともかく、一度、自分の取扱説明書を作ってみようと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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