RYO SASAKI

記憶は感情とともにある。~感情&記憶の数珠つなぎが”生きること”そのものだ~

タナカ シンゴ

トライアスロンをしている男性と話す機会があった。

初対面の人との会話は、知識の中から共通項を見出してその共感から始まるのが通常である。

トライアスロンについて私が知っている少ない情報の中から出てきたのは、「トライアスロンのバイクがとにかく怖い」というものだった。

トライアスロンについて私は、とにかく過酷なものだという認識を何となく持っていたのだが、最近までバイクがそんなに怖いものだとは全く思っていなかった・・・。

その認識が変わったのは、少し前にたまたま私の知り合いの女性がトライアスロンに初挑戦する、と知ったことに始まる。

その女性は、バイクが「怖い、怖い」とやたら繰り返していた。

初めの私は、「女性だし、これまであまり運動をしてこなかったのだろうからそんな反応になるんだろう!」というくらいに「怖い」を自分の想定内の既知の情報として無視しようとしたのだ。

私の運動歴の長さ、そしてラン経験、ロードバイク歴の長さなどが、そうしてしまおうとしたの・・・だが。

それでも繰り返す「怖い」がどうしても気になって、「何がそんなに怖いの?」と訊いてみたところ、バイクは、足先がペダルと固定されていて、下りはとんでもないスピードが出る、とのこと。

少し想像するだけで、これは「怖い!」と認識することになった。

バイクでは当たり前のこんなことを私は知らなかったのだ。

このやりとりが早速、トライアスロンをする男性との会話に生きることになる。

「ペダル固定ってのは相当怖そうですね・・・」

投げかけてみると、その男性は眉毛のところや頬のところの傷を指さして見せてくれた。

この男性は、足がペダルと固定されたまま、何回かコケて顔を擦りむいている・・・。

転倒シーンを更に具体的に想像してしまってもっと怖くなった。

感情から展開する

その男性とは、その後もずーっと話が続いた。

なぜ、トライアスロンを始めたのか?

なぜ、スイム一本、バイク一本、ラン一本に絞らずにトライアスロンなのか?

いろいろと興味が湧いてくる・・・。

一本に絞らない理由は、自分が飽き性であること、フルマラソンなどを走ると身体に負荷がかかりすぎること、などと非常に明快だった。

その後、話は人生観に展開。

私が、「人は不平等にできてますよね?」と投げかけると、

「そう、そう!人生平等なんですよ!」

と逆に聞き間違えて共感してくれてしまう。

そして、後輩に「人は平等なんだ!」と常々伝えているのだと話し、平等だと思う理由も話してくれた。

途中その男性から「自分は話すのが苦手なんですよ。」(ただの謙遜のようにも思えたが・・・)という言葉が出てきて驚いたのだが、話すのが苦手な人ほどいろいろ考えているはず、といった自論がいつからか私にあって、余計に話に興味が出る。

私の「人は不平等」にも一定の共感を示してくれた。

そう、「人は不平等」である、を通った人でないと「人は平等だ」という結論に至るはずはあるまい。

私の自論が当たっていたのか・・・男性はどんな質問にも言葉をかみ砕きながら明確な回答が返ってくる、そこが印象的だった。

さて、これは一例に過ぎないのだが振り返って感じたのは、ここまで話が展開をしたのは、「怖い」という感情が発端だった、ということ。

女性のバイクが「怖い」を私が「既知のこと」と無視していたならば、ここまでの展開にはならなかったのではないだろうか?

もちろん、私が「怖い」を無視しても同じような展開になっていたのかもしれない。

たまたまなのかもしれないのだけれど、エンジンの駆かり具合によって最終到達点が違っていたようにも思う。

いつもながら大げさな話だが・・・。

感情と記憶

ここで、私の記憶の中に自分がスラスラと話せる記憶とそうではない記憶がある、ことを思い出す。

そしてスラスラ出てくる記憶には大昔のどうでもいいことがある。

ある時、いつまでもどこか変だ、が残っている上司の言動とか、温厚なAさんが珍しく怒った時のこととか・・・。

記憶を知識や知恵という言葉にすると、自分のものになっている知識・知恵となってない知識・知恵(以下知識に統一する)。

あるいは、ただ詰め込まれた知識と自分から欲して獲得した知識とでも言おうか・・・。

欲したと言ってもただ覚えたいと欲する、だけでは効果が薄い。

歴史の「本能寺の変」を例にしてみると・・・

この出来事が自分のものになるには、当時、織田信長がどんなリーダーで、明智光秀がどんな家臣で、なぜ謀反に至ったのか?

そしてその行動は自分にとって、酷いと感じるのか?鋭いと感じるのか?

そのあたりの感情まで届かないと自分のものにはならない。

他のケースもいろいろ思い返してみると、これがスラスラと話せる記憶と話せない記憶の分かれ目であることに気づく。

しかし、当時の受験勉強というものは、すべての歴史をその背景から感情を揺さぶるまで学ぶにはとても時間が足りない。

よって、自分のものにならないのに記憶しないとならない、というまさに私にとっての拷問が課されてきたわけだ。笑。

これが、私が歴史を好きにならなかった理由であって、多くの人が歳をとって初めて、歴史(あるいは他の学問でも)を学ぶことが楽しくなる理由なのではないだろうか?

可哀想、素晴らしい、などなど、知識(記憶)は様々な感情とともにある。

そしてまた、この感情が起こるためには、そこに『疑問』があるかどうか、というのが大きい。

何で光秀は信長を殺しちゃったわけ?

あり得ない!変だ!

例えばこんなような疑問。

そして、そのまさに”変”の理由を知りたいという好奇心、欲求。

私の場合、まあ謀反を起こす家臣のひとりやふたり、普通にいるもんだろう、としてそこに一切疑問が湧かなかった。

私にとっては”変”でも何でもなくて、だから、自分のものにならなかったのだ。汗。

今回のトライアスロンでいうと、なんで「怖い」の?という疑問からのどこか変、という感情。

そこから理解したペダル固定という知識だから、忘れることはないだろう。

感情を抑える

こんなことを考えると、「感情がないところには記憶がない」というひとつの認識が見えてくる。

人は老いると記憶が衰えるものだ。

老化はある程度避けられないものではあるが、それ以外に記憶を衰えさせる原因に「感情を抑える」があるのではないか?

あるいは感情を無視する、感情をなかったことにする、ということに原因がある、と言ったらいいだろうか?

そんなことを感じる。

「感情」というものは社会で何かと悪者扱いされる印象が強い。

ある意味、感情は社会とそこにいる社会人の敵であって、人は大人になるために「感情を抑える」ことを学ぶのだが、この言葉を額面どおりに受け取ってきた私は、感情を抑えるという不感症に向かっていたように思う。

でも不感症に向かうと記憶は衰えるから、由々しき問題である。

感情を抑えるのではなくて正しくは、『感情による言動をコントロールする』という言葉で認識しないといけない。

少なくとも私は。

感情を味わうことが”生きること”そのものである。

ここまでのことから人生を眺めると、「感情を味わうことが、生きることそのものである」ということにあらためて納得する自分がいる。

生きるということは、感情の数珠繋ぎであり、感情&記憶のペアの数珠繋ぎであるように感じる。

(感情&記憶→再生)→(感情&記憶→再生)→・・・・・

この(感情&記憶→再生)が学習のことだ。

何で?おかしい、変だ、そうか、そうなのか、へーっ、ほーっ、まさか、意外だ!、すごい、面白い、悲しい・・・・

さまざまな感情が記憶とともにつながっていく・・・・。

そして、生きるために必要なものの根源を知識でも能力でもなくて、「感情」であると据えてみるとしっくりする。

知識を高めるために、能力(いろんな能力があるから、人間らしい能力と但し書きを敢えてつける)を身につけるために、まずは感情ありきである。

少なくともここ数十年は、感情の地位が低かった時代だったのではないか?

さて、どうだろうか?

そうだとするとまずは「感情」を押し殺しているものをできるだけなくしていこう!となる。

「感情」を押し殺しているものとは何か?

感情を押し殺さないといけない、という感情悪の教え(どこぞの教義)がある。

まずは、これを捨てること。笑。

次に、私のトライアスロンのように、自分が知らないことを知ったことにしてしまうこと。

そうする原因は見栄にある。

人は、自分が知識のある人間であると思うことで自分を満たそうとする。

そして、感情に左右されない落ち着いた人になりたくてそういう人を演じてしまうものだ。

その見栄によって、人は感情を失ってしまう。

『感情』を押し殺す原因のもうひとつは、無関心にある。

その無関心が何によるのかというと、

・忙しいこと

・疲れていること

・ストレスがたまっていること

・興味範囲が狭いこと

 

 ※これはひとつに集中するために意図的に興味範囲=なすべき範囲を狭くしていることもあるだろうけど。

などになるだろうか・・・

日々忙しく疲れているといろいろなところに関心がいかなくなって当然だろうし、自分が何らかの問題を抱えるなどストレスがたまっていては、周りに興味を持つ以前に、まずは自分のことを吐き出すのが先だろう。

そうすると結局、食事・睡眠という当たり前のところに着地するが、人が健全であるには食事・睡眠以外に感情を抑えないこと、というのも是非付け加えておきたい。

・・・・・・・・

更に思いを巡らすと、ひょっとして、人が老いるのは、本人が敢えて何モノにも感情を持たなくなるようにしている、ことが影響をしているのではないか?

それは私の「感情」が人様のご迷惑になりこそすれ、社会のために何ひとつならないからという謙虚さがそうさせるのではないか?

あるいは、自分が無知ではない、あるいは無知であってはいけない、と思い込むことがそうさせるのではないか?

更には「悟り」といった言葉の誤解によるものなのではないか?

どれも定かではないのだが、私にはそんなような直感が働くのだ。

とにかく、感情は記憶とともにあり、感情とともに知識がある。

だからこそ、自分の感情を十二分に味わっていこう!と再認識する。

感情を失ったら終わり。

それは、また物事を知ってしまったら終わり、ということでもある。

なあーに、物事を知り尽くすことはない。

へーぅ!ほーっ!そうなんだ!

無知に純粋に向き合えば自然に感情が湧いてくる、そう、感情を味わうとは、どこまでいっても変わらない自分の無知を味わい続けることでもあるのだ!

最後は、いつもながらの無知の言い訳に誘導して、終わることになってしまった。汗。

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

感情なく記憶しないとならない年号、さらには資格試験などというものは、あまちゃんの私にはもはや無理なのかもしれません。汗。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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最後まで読んでくださりありがとうございます。

これからもRANGERをどうぞご贔屓に。

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