RYO SASAKI

一周まわって答えがわからないところから、新たな世界が始まる。

引き続き、社会心理学について感じたことを書いてみる。

今回の結論は、いろいろ考えた末に答えがないところが新たな世界のスタートになる、というものだ。

『格差という虚構』著:小坂井 敏晶

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格差の何が嫌なのか?

格差とは、同類のものの間における、程度などの差や違いである。

また、社会問題の一つとしての意味合いを込めても用いられる語であり・・・

(ウィキペディアより)

「この同等なものの間における」というのがどうも微妙なニュアンスだ。

同等なのに差ができることに、人は不満を感じるものだ。

「同等」とはどういうことなのだろうか?

人間であるのいうのが、同等に当たるわかりやすい区分ではある。

確かに「同じ人間なのに・・・なぜ違う?」という不満、嫉妬である。

それを不平等だと感じる。

この平等という言葉は曖昧なものだ。

平等論の究極は、人が生まれたからには誰も同等の生活が保証される、というのかもしれない。

これを現実の制度にすると、社会主義のように金銭を同額配分する、という方法のようなものになるだろうか。

いくら頑張っても同額配分されるというもの。

これが平等と言えるのかという疑問。

働いた量(あるいは質)に応じて金額が配分される、というのが平等であるという主張。

あるいは、機会が均等に得られることが平等である、という主張もある。

自分がたくさん働いたのに働いていない人と同額配分ならば、不満が出る。

すぐに「ずるい」という感覚が頭をもたげる。

上限がなく稼ぎたいとも思うし、上限なく稼いでいる人をみると、憎らしくも思う。

人は人より優れていたいものだが、一方で人より劣っていたくはないものでもある。

何ともご都合主義であり論理的ではない。

感情的なものが多く含んでいると感じるのだ。

我々は格差に関して一体どんな社会であったならば満足するというのだろうか?

格差についてはいろいろ考えないとならないのに何となく「ずるい」というだけで文句を言っていることが確認できる。

すぐに「ずるく」感じるのが、子孫を残そうとする種のたくましさとも言えるのだろうけれど。

そもそも人は不平等である

小坂井氏は著書の中で、人は遺伝と環境と偶然によって形質、特徴が決まると言っている。

親の所得が高いと子供のIQが高くなるというデータがある。

一方で、同じ所得の兄弟でもIQに差が出る。

これは遺伝(DNA)要因によって起こる。

一卵性双生児であっても、兄と弟との関係がすぐにできるなど、日々目の前に現れる事象が異なることで、それに反応して性格や特徴が分かれていく。

この遺伝と環境と偶然はどれも本人がコントロールできるものではない。

後天的に努力だけによってできるようになることは限られる。

そして、その後天的な努力にもコントロールできない環境の影響が必ず混じってくる。

だから、人にできないことが多いことも、あるいは、いろいろな問題を巻き起こすー時には犯罪であったり、仕事の失敗であったりーことも、そのことに人は責任を持たないのだ、と主張している。

『責任という虚構』著:小坂井 敏晶

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にもかかわらず、強制的に責任を持たされるのが社会のしくみである。

本人の努力で変えられる範囲外のものに責任を取らせる、ということの理屈が通らない、と言うのだ。

決定論に含まれるものになるだろうか。

人生は最初から決まっている。

すべてが決まっている、とすると自主的に何も判断して生きていないように思うから、受け入れがたいところもあるが、決定されていない、いわゆる幅というものを持っていながら、その幅は最初から決定されている、という解釈だとするとどうか?

言われてみれば、「確かに!」と思う。

遺伝がどうであっても、環境がどうであっても、努力をすれば変わる、と言われて納得がいかない。

努力してもできないことが人にはある。

また、努力が足りたか、足りない、あるいは、努力したか、しないかについて、評価基準などはない。

また、努力するかしないか、努力できるかできないか、についても遺伝に含まれ、それはまた、環境にも影響を受ける。

人は、バラバラな特徴をもってバラバラな環境に生まれてくる。

多分、遺伝も環境も選ぶことはできない。

人間自体がすでに「不平等」なのだ。

「不平等」という言葉は正しくはないかもしれない。

同じであることを「平等」であるとするならば、そもそも「不平等」なのだ。

なぜ、不平等に生まれてくるのか?について答えを精神安定剤としたくて、過去生に重ねた罪によるものという思想を信じて、人は前に向こうとする。

小坂井氏の主張の中には、人間が真実を見つけようとしているようでそうではない、というものがある。

真実ではなく、自分の不安を解消できるような辻褄合わせになる仮説を作って、それを真実の答えである、と決め込んでいる。

原因と結果が転倒している。

同意して受け入れたから、正しいと形容するのである。

上記、輪廻転生と功徳の積み重ねも不平等を受け入れるための答えに当たるもの、と言いたいようだ。

「その人が超えられない不幸を与えない」などというのもそれに当たるのではないかと思う。

人間には神話が必要なのだ。

このようなことはそこかしこにあるのではないか?と感じる。

真実でなくても答えらしきことを作るのも生きる知恵ではあるとは思う。

私も、輪廻転生をどこか信じているところがある。

実際に前世記憶があるわけでもない。

自分が見えないから、信じられないという考えもまた、かなり自信過剰のようにも思う。

不平等の話に戻ると、これだけバラバラなのだから、確かに人が不平等に感じることはどうも避けられそうにない。

ちなみに、情報格差(情報の非対称性)が、商売の儲けに大きく影響するといったことも常識になっている。

この情報の非対称性は詐欺にも貢献するものだ。

格差というものもなかなか避けられない。

正義がわからなくなった

ナチスが当時行った殺戮のことを、一律の正義が正義でなかった例として紹介している。

一律の正義が全体主義につながり、不幸をもたらすことにもなる。

また、「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」

この疑問に対して明確な回答を人間は持ち合わせていない、という。

死刑制度があるし、戦争もある。

それらによる殺人は一方では必要である、とされている。

これを代表として、世の中の正義とは何か?

正義があるようで、普遍的な正義がこれであると証明ができない。

だから、正義について人間が共通認識を持つこともない。

このあたりがグローバル化に対して引っ掛かりがあるところなのかもしれない。

正当性の根拠を失った近代は正当性を擬して神の死を繕う。

妊娠中絶・脳死・人間クローン・安楽死・死刑などどれをとっても根拠は存在しない。

どんな正当化をしようと恣意を免れない。

「私の価値観は、正しい。なぜなら、私の価値観だから。」と言っているだけにすぎない。

正当性の根拠は、以前は神に、あるいは宗教に、あるいは道徳律にあったのだが、それを人間は破棄してしまった。

そのため、現代が仮の正当性を新たに作らなければならなくなったことを、上記のように表現している。

世の中にあるのは、正義ではなくて、それぞれのいろいろな価値観、ということになる。

こうしてみると、人間は突き詰めると根拠ははっきりしない、ある仮説、仮案をルールとして社会システムを作っていることになる。

だから、別々の都合による矛盾するルールが混在している。

答えのない時代を生きる

小坂井氏は、ここまで常識と言われることを疑って、その正当性を否定してきた。

この視点は新鮮であり、自分は自分が作ってきたたくさんの固定観念の中で生きていることを確認できる。

今回は、以下のようなことが印象として残った。

・格差というものを感情的に捉えて嫌がっているが、そもそも生まれること自体が格差であること。

・社会に普遍的な正義などというものは存在しないこと。

・答えが出ていないものを仮の答えとした社会が構築されていること。

世の中に根拠のある普遍的な答えなどはなく、むしろ、答えがないことがはっきりした、という内容である。

では、ここから何を生活に活かせばよいのだろうか?

ちなみに、小坂井氏は著書の中でどう生きるのか?については言及していない。

まずは、論理的でないことをたくさん思っているのが人であるという認識を持つこと。

辻褄の合わないような文句を言い出すのが人間。

この論理的でない人どおしが、普遍的な正義というものがないのにもかかわらず、自分の主張を正義だとして、自分の価値観で相手を支配しようとして争うのが社会なのである。

その感情的部分を否定しつつ、しかし、この感情的部分、自分の価値観を大切にするという感覚。

ちなみに、格差問題というと貧富の差の問題が頭に思い浮かぶ。

私は、貧富の差を否定はしない。

しかし、貧富の差が広がり過ぎることで以下のような不安を覚える。

・社会に憎悪が広がり、争いが起こりやすくなり、治安が悪くなる。

・富が集中することで企業の寡占化が進み、商品、サービスの選択の余地がなくなる。

・金持ちのお金によって金持ちの都合だけで、政治や司法がコントロールされるようになる。

必ずしも、治安が悪くなったり、選択の余地がなくなったり、金持ちにコントロールされたりする、とは限らない。

だから、これは感情的で正しい怖がり方ではないかもしれないと思いつつ、この湧き上がる感覚は大切にしたいと思う。

正義に答えがないのだから、この感覚こそが頼りになるわけだ。

ちなみに、人を殺していいかどうかは説明できないが、私は私が殺されることを避けたい。

そして、周りの人もそうだろうと想像するから、世の中の殺人が少なくなることを望む、という感覚が確かにある。

次に、人は環境に影響される生き物だから、知らないうちに常識に乗っかる生き方になってしまう。

しかし、世の中でこうだと決められている常識は、結構適当に決まっているのだから、必要以上に固執する必要もないわけだ。

世の中で決まっているすべてのことを拒否すると、それはそれでしんどくなるので、信じて乗っかっていくところがあってもいい。

それが、楽でシンプルな生き方でもある。

でも、拒否もできる、どっちにも行けるという柔軟性があると人生は愉快になるはずだ。

学校で正解を学んだ答えだから信じているのではなく、ただの自分が好きな価値観でしかないのだ、という認識が必要になる。

そして、不平等でたくさんできないことだらけで生まれてきた自分なのだから、

Aさんとの差は当たり前。

Aさんが羨ましくて嫉む、とかいうのはあまりにも意味がない。

Aさんがどうとかいうのは、Aさんが何かを自分に強要してこない限りおいては、自分を自由にさせてくれる限りにおいては、どうでもよいことだ。

できないことだらけだけど他にいない唯一無二の自分という存在に責任をもって生きる、ということ。

自分のできること、したいことをやって全うするということ。

そんな考え方のベースができて、人生に活かせるだろうか。

最後に、今回のように人生に答えがないことがわかった、ということにも意義があるのではないだろうか?

「考えた末に一周まわって答えがない、とわかった状態」と「考えたこともなく、答えがわからない、という状態」

では、答えがわからないことは同じなのだが、全く景色は違う。

そして、そのわからないものへの取り組み方が全く変わってくるものだと思う。

それは、答えがわからないことがわからないままでいると、現れた問題に対して、距離の取り方、無駄な力の抜き方、折り合いの付け方、妥協点の見つけ方、自分の感覚の尊重の仕方などのロスが非常に大きいと思われる。

では、自分が答えを持っていると思っている人はどうか?

自分が答えを持っていると思っている人は、一色に染まり過ぎていて対話が進まない。

答えがあると思っている人は、合意形成という着地に至ることができない。

答えはないとわかっている人どうしが対話することで、着地を見つけることができる。

「答えがない」と思えるところまで考えること、これが大切で、ここが新たな世界のスタート地点なのだと感じるのだ。

そう、答えがわかってしまうということは、新たな世界の扉をふさいでしまうことになるんだろう。

Photo by Jeremy Bishop on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

この世の中は、常識や正義という幻想に囲まれた世界、それは、映画「マトリックス」のように・・・。

ここにきてやっと腑に落ちてきました。

普段は幻想に乗っからざるをえないものの、時に幻想に抗って生きていきたいと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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