自分の偏りを認識する。私はずーっと「世間知らず」として生きるのだ!
いつからか、ニュースを見ると気分が優れないことに気がついて、見るニュースをかなり限定するようになった。
気分が優れない理由には、世の中のネガティブなところを見たくない、という単純なのももちろんあるのだろうが、別に他の誰かに固定観念を勝手に刷りこまれてしまうような感覚が生まれたため、それが嫌だ、というのがあって、こちらの方がむしろ大きくなったように思う。
そもそもメディアが取り上げているニュースが、自分が知るべきニュースなのか?
知るべきニュースとはどんなものなのか?
これすら怪しく感じられるようになった。
与えられたニュースだけを見ることで自分が偏っていくような怖さに苛まれる。
最近はYouTuberとネット民が騒ぐことによって、オールドメディアとは一体どんなものなのか?その比較においてあぶり出されてきているから、そんな風に感じられるようになったのだろう。
そんな限られたニュース(主に事件や事故)を見ると必ず感じるのが、
「まじか!?」
「何でそんなことをするかな?」
といったもの。
同じ反応ばかりが自分に起こっている。
「人はそれぞれ違うものだから、どんなことも在り得るんだ!」
などと昔ならば到底思わなかったようなことを自分に言い聞かせてはみるのだが、それは頭で考えたもの。
最初に湧き上がってくる「まじか!?」という感覚。
この私の感覚は、今も昔も全く変わっていないことに気づく。
自分は成長しているのだろうか?という疑問がもたげる。
今回は、今も変わらぬこの「何でそんなことをするかな?」という感覚から思う、自分という者について書いてみたい。
田舎モンを脱してきた!?
大学卒業後すぐに東京に出た私は、本当に田舎モンで世間知らずだった。
世間知らずだったのは、学生までは世間にも(当然東京にも)触れることが少なかったのだから、当然と言えば当然。
当時は、とにかく世間を知るために躍起になっていたように思う。
世間とは、社会人のこと、仕事の内容、ビジネススキル、東京の地図(交通期間)、東京の人の考えていること、などなど多方面に渡る。
「そういうことなのかあ!」
「そう考えるんだあ!」
触れて(経験して)学ぶしかないわけだ。
世間を学ぶことで「何で人がそんなことをすをるか?」を頭で理解するようになった。
私はこうして田舎モンを脱したのだ!
しかし・・・、昨今のニュースに対する、
「何でそんなことをするかな?」
という私の感覚が、東京に出たばかりの私の感覚とさほど変わっていないことに気づく。
「何でそんなことをするかな?」
人がすることが理解できない。
理解できないのは、自分ならば絶対にしないであろうことが圧倒的に多いから、ということなのだろう。
※自分が同じ境遇になった時のことを想像してみると、自分もニュース同様の行為をしてしまうものがなくはないのだが、それでも同様にはしないというケースが非常に多いように思う。
そして、他人を理解できないのだから、私は相も変わらず、世間知らずだ!と言ってしかるべし。
昔に比べて経験が増えてきたが、それでも世の中は、自分が直感的では理解できないことばかりであることに気づかされる。
これは、世の中が変化しているから当然と言えば当然とも言えるところだが、それだけではなく自分の感性にはないから、理解できないというものがとにかく多い。
結局、世間のことを後から頭で理解したことにするしかない。
時代の変化と感性の違いのダブルパンチで、余計に理解が遠のくのが実際のところなのかもしれない。
そして残念ながら、このような自分の感性は、これからも変わることはないように思える。
田舎モンが抜けない、とか成長していない、などと、絶対に言われたくないのだが。汗、笑。
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もうひとつ私の変わらぬところとして避けては通れないのが、騙されやすい、という特徴だ。
私にはどこか周りはみんないい人だと思って情が入るところがある。
※ちなみにこの情というものはビジネスにおいては厄介なものであることが多い。
昔の知り合いからは、「どこが?」などと信じてはもらえないだろうけど(汗)、頭の小賢しさをOFFることをやってみると、元々自分にあったこの厄介な感性を感じるようになる。
それは親譲りのものではなくて、人の良い田舎の人に育まれたことによるものなのかもしれない。
田舎育ちで平和に生かされて、警戒が緩くても大丈夫、ということになったのか?
私は、東京に出た時に都会の人の緊張感を知ることで逆に自分の緩さが悪目立ちして、自分が世間知らずであることを知ったのだ。
都会の人は高い警戒心を持続しながら逞しく生きていることを感じた。
そしてまた、私はこれまで細かくは騙されてきたものの奇跡的に、詐欺に合って大きなダメージを食らってしまった他の人からすると被害は少なく済んできたように思う。
そんなようなことが重なってみんないい人である、と刷り込まれてきた?あるいはどこか勘違いしてきた?あるいはそんな感性を野放しにしたままに?やってきたように思う。
日本人であること
都会と田舎の差のことを言ってしまうと今度は日本と外国の差について、触れないわけには行くまい。
私はどうひっくり返っても平均点な日本人なのだ。
日本人の特徴ワードを思いつくままにバラバラとあげてみることにする。
島国。
平和。
家来服従。
御上のいうこと。
調和を重んじる。
統制がとれる。
我慢強い。
勤勉。(キッチリしている)
恥の文化。(人に迷惑をかけてはいけない、等)
どれも多かれ少なかれ自分に染み付いているように感じる。
これらは素晴らしい特徴ではあるのだが・・・。
物事には必ず裏返しがあって、
↔
警戒心が薄い。(平和ボケ)
騙されやすい。
洗脳されやすい。
統制されやすい。
同調圧力がある。
自分を主張できない。
自由にできずストレスを抱えやすい。
日本人は、海外ではスリやヒッタクリに狙われやすいと言われる。
また、日本人は時間にキッチリしていなかったり、キチンとした態度ではないことにイライラや不安を覚えやすい。
日本ではキチンとしているのが当たり前だから。
素晴らしいということには、その素晴らしさの分だけ悪い面がある。
そこからは逃れられない。
この日本人の両面をまた私は自分の資質として持ち合わせている、ということなのだ。
ずーっと世間知らず
私は、日本人としてそのDNAを持って生まれ、日本の環境、さらには警戒心が薄い田舎で育った。
そして、平和ボケに染まりやすい時代(それはある意味いい時代と言えるのかもしれないが)に生まれ落ちて、しかもたまたまとんでもなく騙されることもなくここまで来れたのだ。
そんな私が、とんでもない詐欺に合った人々にアドバイスできることなんてものは何ひとつない。
経験がないのだから。
当たり前だが、経験のないことについて大したことは語れない。
そんなことを思うと、そんな偏ったところに自分は位置していることにまた気がつく。
人は経験がないことで偏る。
また経験があることでも偏るものではあるのだが。
そして、簡単に偏る割にはこの偏りを克服するのが難しいときている。汗。
せめて、自分の偏りを知っておくことくらいが関の山なのだろう。
そんな風に思う。
そして、いくら経験を積んでも自分の経験する範囲でしかないから、経験のないものに対しては、いつだって
「まじか!?」
「何でそんなことをするかな?」
が最初にやってきて、その理由を頭で理解しようとする。
こうするしかないのだ。
こうすることが、生きている間はずーっと世間を学び続ける、ということなのだろう。
世間には「歳を重ねると世間を知るものだ」という常識がある。
そんなことが未だに自分に染み込んでいるのを感じるわけなのだが、それは幻想でしかなくて、そんなことを信じてはいけない。
私はこれからもずーっと『世間知らず』であるという自覚を持って生きる!笑。
そう心に誓うのだ!
UnsplashのPatrick Shaunが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
変化のスピードの速さ、進む多様化に加えて、自分の偏りによって私はどんどん『世間知らず』になっていきます。
私は世間のことが何もわかっていないのです。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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