RYO SASAKI

「怒り」は体に良くない。怒るDNAを、どこまでOFFることができるのか?

タナカ シンゴ

ある人から、知り合いに言われた一言が今でも許せない!という話を聞いた。

もう数カ月前のことなのに、未だに怒りが収まらないようで、同じ話を何回も繰り返して、怒りを吐き出している。

久々にこんなに怒っている人をみたように思う。

私は、他人事だからかその様子にどこか冷めてしまって、話を聞きながらなんで人は怒るんだろう?などと、寄り添うことそっちのけで自分が興味があることを考え始めてしまう。

私も上司に怒られたことがたくさんあった。

中でも午前3時の居酒屋で、板の間に正座させられながら、怒鳴られ続けたことは強烈な思い出だ。笑。

あの「怒り」のエネルギーは凄まじかった。

自分はその「怒り」によってどこまで削がれてきたんだろうか?

逆に、自分が怒ったのはいつのことで、何についてのことだっただろうか?

あまりいい結果を産まなかったような記憶しかない。

思い返すと、「怒り」なんてものは先の時代にはなくなってしまっていい感情ではないだろうか?

私は生きてないだろうけど・・・。

そんなことまでツラツラと考えてしまった。

「怒り」は体に良くない

「怒り」がなくなってしまってもいい。

そう思えたのは、最近、「怒り」というものも体に負荷をかけている、と気づいたことによる。

健康オタクの私は、健康のためには人間の大切な感情、喜怒哀楽を変えてしまおうとしているのかもしれない。汗。笑。

以前、そんなことをこのブログに書いた。

気圧の急激な変化や、血糖値の急激な上下動が体に負荷をかける。

血糖値が乱高下することで血糖値のコントロールが効かなくなる有名な病が糖尿病で、大きな変化が体に良くない、というものの代表と言える。

急激な上下動と言えば、血圧も同様で特に高血圧が体に良くないと言われる。

ここから激しい上下動が、「怒り」にも当てはまることを知る。

人は怒った時、血糖値も血圧も上昇する。

戦闘モードに切り替わるように、血糖値や血圧を上げるためのホルモンが分泌されるらしい。

砂糖を代表とする糖質によって血糖値が急上昇するのと同等のことが怒りによっても起こっている。

現代人にとって砂糖を控える必要があるのならば、「怒り」だって控える必要があるという理屈が立つんではないだろうか?

専門家に指摘されるような単純な考えではあるのだが・・・汗笑。

「怒り」の目的とは?

そもそも、人はなぜ怒るようにできているのだろうか?

人の怒りというものは、多分、身の回りの危険に反応して危険を逃れるために生まれたものなのだろう。

逃れるために時には危険と戦わなければならない、だから、戦う準備が必要なのだ。

血圧や血糖値の急激な上昇、そんなように体に負荷をかけてまでも、やらなければならないこととは、生命の危険を回避するためと言ったような、重要事項でなければバランスが取れないはず・・・。

こういう理解に妙に納得する自分がいる。

検索してみると、怒る5つのケースがあった。

・価値観や理想の侵害:自分の中で「こうあるべき」という価値観や理想、期待を裏切られたと感じたとき。

『自己防衛』:自分の生命や安全、または大切なものが危険にさらされたと感じたとき。

『支配欲』:相手を自分の思い通りに動かしたいという欲求から。

『正当性』:自分が正しいと信じていることを守り、主張したいという欲求から。

『不満やストレスの蓄積』:不安や恐怖、悲しみなど、他のネガティブな感情が蓄積され、怒りとして表れる場合がある。

これらを見ると、危険と言っても命に直結するものからそうでもないものまでいろいろあるし、それに怒ってもどうしようもないというものもある。

ここから、その怒りはなくせるのでないか?という視点で見てみることにする。

例えば、

「ありもしないことを言われる。 盗んでもいないのに泥棒扱いされると激しく怒り、抵抗する。」

この場合は、先ほどの項目で言えば、『自己防衛』と『正当性』が合わさったものになるだろうか・・・。

罪人にされるという危険は、結構危険度高めのもののように思う。

ただし、状況にもよるが、そもそも盗んでいないならば、堂々としていればいい。

怒ることによって余計に盗んだように感じられて余計に泥棒扱いに拍車がかかるものだ。

人は簡単に勘違いするものだ。

間違いは訂正した上で、怒るのではなく間違いを諭す方がいい。

次に、

「普段から自分でも気にしていることを言われると 激しく怒る。(いわゆる図星) 」

この場合については、やはり『自己防衛』に当たるのだろうか。

自分で気にしてること=嫌なことをシンプルに言われたくない、ということだ。

自分自身で、その嫌なことがわかっているのに他人から言われるのが嫌だ。

考えてみれば不思議なものだ。

言われるのはプライドが許さないということなのか。

誰にどんな風に言われるかにもよるんだろうけど、自分の嫌なところが避けられない(直せない)のであれば、開き直って自分の特徴、癖として受け入れるしかない。

受け入れてしまえば言われることが気にならなくなる。

できないものに無理にプライドを持つ必要は全くない。

できることにプライドを持てばいい。

怒るのはできない自分を受け入れられていない証拠なのだ。

もうひとつ、

「誇りを感じている母校をけなされた時など 激しく怒る。」

この場合は、まずは母校がいかに素晴らしくともいいところもあれば悪いところもあるわけで、その両方を見れてないことがあるのだろう。

更に言えば誇りというものを自分からなくせばいい。

誇りも一種の過去への執着で、この執着があるから、苦しみから逃れられない、よく聞く言葉だ。

誇りをなくしても母校で経験した良い思い出や充実感は記憶からなくなりはしない。

最後に、

 「愛する人をけなされる。 大好きな家族や恋人の悪口を言われると激しく怒る。」

この場合は、先ほどの嫌なことを言われるのと一緒だが、身近な人だって万能ではないから、いい悪いの両方があるという認識は必要だ。

それはそうとして、これについては(先ほどの母校もそうだが)悪口を言う側を疑ってみる必要がある。

不満やストレスが溜まっているのか?

何か恨みがあるのか?

理由を探る。

理由は必ずある。

怒りから理由に視点を移した方がいい。

怒るよりも相手をカウンセリングするイメージだろうか。

もう少し続ける。

『価値観や理想の侵害』『正当性』について言えば、価値観や理想、期待が裏切られることなんてもはよくあることだ。

この情報社会は情報が多くて価値観が一致する方が珍しい。

そして多様性を許容する時代になろうとしているわけで・・・。

そんな中で、自分の正当性と言っても多様性のひとつに過ぎず、主張することは自由だが怒ったところで共感を得ることは難しいと考えた方がいい。

『支配欲』については、支配しないと生きていけない、という恐怖の名残りが強いDNAが、怒りを使って支配しようとしているのだろう。

今の時代は、支配される側の人々が怒りによる支配の理不尽さをオープンにすべき当たり前の危険として認識するようになった。

「怒り」による支配はだんだんと効力を失っていっているように感じる。

『不満やストレスの蓄積』については、周りからはとばっちりでいい迷惑だから、ないに越したことはない。

それでも本人としては間接的ではあるが、これも怒ることで生命の危険からリセットを試みているものだと言えるのかもしれない。

でも、ストレスによっても血糖値・血圧が上がるようにできているから、「怒り」と同様に体に負荷がかかる。

なのでそもそも不満やストレスを溜めないで生きる方法を探るべきだ、とシンプルに思う。

不満やストレスの処理方法は、便利な現代だからこその現代の大きな課題でもあるように思う。

不要な「怒り」を減らす

さて、ここまで「怒り」を疑ってきて、理屈で言えば過剰で不要な「怒り」がいろいろとあるように思う。

法整備が今よりも不十分だった昔は生きるためにすべての「怒り」が必要なもので、それが現代のある意味安全な社会では生きるために不要となった、と見ることができるかもしれない。

とにかく、今思うことは怒っても何にもならないというものが多い、ということ。

危険度の低いものに対する「怒り」は、以下のスキルによって減らすことができるのではないだろうか?

・慌てずに堂々として相手に視点を移し、相手を諭す。

・できないことへの変なプライドを持たず、できないことを受け入れる。

・誇りを持たない。

・価値観の多様性を受け入れる。

・支配しないことを怖がらない。

・不満やストレスを溜め込まない。

これらは、言葉でいうほど簡単ではないのかもしれない。

簡単でない理由は、「怒り」をDNAに持ってしまっているからなのだろう。

現代人が今の環境に適応しようとした時に、DNAにある「怒り」の余剰分がダブついている、と言ったらいいか・・・。

時代の変化が早いから、DNAの見直しも急ぐことを迫られている。

DNAによって湧いてくる「怒り」の感情。

湧いてくるのに、それが周りに受け入れられないからイライラする。

現代人は、この「怒り」を抑制しようと頑張らないとならない、という新しいイライラを抱え出しているようにも思える。

そしてこのストレスもまた「怒り」と同様に体に良くないから減らすべき対象となるのだ。

現代人はこの新しいストレスともしばらく向き合っていくことになるのだろう。

それは数十年から数百年の時間をかけて、ということになるだろうか。

さて、今回は血糖値や血圧を上げると体に負担がある、ということを理由にして、そんな「怒り」を減らせるのではないか?と考えてきたわけなのだが・・・。

ふと自分にある矛盾が生じていることに気がつく。

普段の私は、本来の自分になるために思考よりも感覚を大切にしようとしているが、今回はその逆のことを言い出している。

DNAに刻まれていて自然に湧き出てくる「怒り」といった感覚が現代において過剰に出ているならば、それを修正していくには、思考による強制以外ないのでないか?

今回ばかりは、思考が大切なのだ!そう思ったのだ。

思考を使って理屈でねじ伏せてまでも、「怒り」を減らして体を長持ちさせたい。

自分がそこまで思うのは、健康オタクだからなのだろうか?

いや、それだけではなさそうだ。

やっぱり「怒り」によっぽど嫌な思い出があるんだろう。汗。笑。

UnsplashMark Timberlakeが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

時代が進むとまた新しいストレスが生まれます。

それとどう向き合っていくかが、我々に知らぬ間に課せられてるんですね。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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