RYO SASAKI

すべては生きながらえるため。

どうしても釈然としないことがある。

「なぜ、人は自分の中に生まれる矛盾で悩むのか?」

ということ。

人は何かを欲しがり、また、それが得られないことで苦しむ。

人は知り合いと自分のどちらが犠牲にならないといけない場面で、選択を迷う。

先日、このことをまた思い出した出来事があった。

路上を歩いていると、ワンボックスカーが大音量の音楽を流しながら近づいてきた。

一瞬で、不快感と恐怖という直感が自分を襲い、「こいつら、ヤバイ薬やってないか?危険だ。」などと思い、その後落ち着いてきて「天気がいいから楽しいんだろうな」などと思考が追いかけてきた。

そして、更に思考する。

「なぜ、自分はそういう人にもっと寛容になれないんだろうか?」

最近の世の中は、”ダイバーシティ”(多様性)を大切にしよう、などと言われている。

この周りに対する否定と寛容性という矛盾。

ここについて、一旦、自分なりの仮説を立てて決着をつけておきたいと思う。(おおげさな。笑)

いろいろな教え

禅や仏教など様々な教えでは、

「欲をなくすと苦しむことはない」

「人様のために、、、利他的でありなさい」

などと言われる。

このことは、大切なことだと思うし、解決方法のひとつではあると思う。

しかし、何か引っかかるものがあった。

最近読んだこの本も禅の教えを日常に取り入れて生活すると心配事のほとんどがなくなる、という内容のものだ。

<参考書籍:心配事の9割は起こらない>

手放して、減らして、忘れたりすると楽になる。

この本によって、結果的に引っかかっているものの解決につながることになった。

「なぜ人は”教え”を学び、修正する必要があるのか?」

「自然に習得して自然にできるようにならないのはなぜなのか?」

という疑問がまた生まれる。

この本を読んで「なるほど」と感心してやってみたりして成果が出る人もいるだろうが、成果が出ない人もいる。

まずは、この本の教えを抜粋し、それぞれを逆からみてみる。

~いまに集中する~ → なぜ、人は今に集中できないのだろうか?

~色眼鏡をはずす~ → なぜ、人は色眼鏡をはずせないのか?

~もっと寛容になる~ → なぜ、人はもっと寛容になれないのか?

~正論を振りかざさない~ → なぜ、人は正論を振りかざすのか?

なぜ人は、これらのことをできずに苦しみや不安を抱えて生きているのだろうか?

人間はここまで地球を席巻してきているのは優秀な生物ではないのか?

そんなに、愚かではないはずの人間がこれらが上手くできないのには理由がちゃんとあるのではないか?

そんな風に思うのだ。

「色眼鏡をはずせない」については、人間の持つ認知バイアス(認識の偏り)というものがそうさせていると言われている。

人間は間違った(偏った)認識を簡単にもってしまう。

非常に有名な認知バイアスは、人種差別の原因にもなっている。

「黒人は怖い」「ユダヤ人は愚かだ(危険だ)」などのバイアスなど。

なぜ、このような認知バイアス=間違いが多くの人の頭に浮かぶのだろうか?

私の仮説はこうだ!

結論から言うと、これらがうまくできないのは、

「人間が生きながらえるために持っている機能ゆえである」

という考えに至った。

当たり前の結論かもしれない。

今に集中できない→過去を後悔し、未来を心配する機能

色眼鏡をはずせない→瞬時に白黒判断する機能

寛容になれない →周りの違和感、危険分子を排除する機能

正論を振りかざす→自分を正当化する機能

もし、人間が過去を後悔する機能を持ち合わせていないとすると、反省せずに繰り返し失敗を犯すことになってしまう。

未来を予測することで、未来の危険を事前に回避できる。

瞬時に白黒判断することで、危険を避けるようにしている。

周りの危険分子を警戒して、非難して、自分の正論という方向に修正することで危険を排除する。

また、自分が優位に立つことで、生存率を上げようとする。

認知バイアスには、人間の持つカテゴライズが影響している。

人間は目の前の物事について、瞬時に、レッテルをつけてあるカテゴリーに入れる行為をしている。

人種に対しても、会ったすべての人に対しても。

「怖い」とレッテルを張ることで危険回避を行い、「好き」とレッテルを張ることで、子孫を残すなど人生を快適なものにしようとする。

瞬時に間違っているかもしれないカテゴライズをしてしまうのは、とり急ぎの判断で危険をさけて生きるために必要だったからだ。

「怖い」と瞬時に判断できなければ、襲われて殺されてしまう可能性があったからだ。

「好き」という判断は、そんなに急がなくてもいいようだが、早いに越したことはない。

同時に、人間の身体が省エネで生きたい(DNAはいつ次食べられるかわからないことを経験している時代が長い)ものだから、白黒つけて終えてしまい脳の負荷を終わらせてしまう。

ある面、実に合理的にできている。

<参考書籍:無意識のバイアス>

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また、プライドがあって、無視にされたり、軽視されることを人間は嫌う。

負けず嫌いで、頑固で、聞き分けがないことも含めて、生存本能であり、生きるための機能なのだろうと思う。

ずっーと長い間、勝たないと生き残れなかった。

すべては種が生きながらえるための機能。

これだけの繁栄を見せている人間には生きるための智慧がDNAに刻まれてきているはず。

DNAに刻まれているから、ふとした瞬間に出てしまうはずなのだ。

時代とマッチしない

現代は、全体的に食料が満たされている類まれにみる時代だとも言われる。

人間が保有している、食料不足に対応して脂肪をどこまでも貯めておく機能ゆえに、肥満になって健康でいられない、という適応障害が起きているくらいだ。

その昔と大きく環境が変わっている。

現代では世の中の秩序のための法も施行されてきたが、法なども存在せず、戦いや奪い合いを長く繰り広げてきた人類。

いつ襲われるかわからない、理不尽な弱肉強食の時代を相当長く生きてきている。

自分が正しいとして推し進めることで敵に支配されてしまう危険性を避ける必要があった。

そのために、自分にとっての危険分子を瞬時に察知して排除する機能は、保持しなければならない優先の高い機能だったはずだ。

人間の言動の源である怖い、嫌い、痛い、好き、楽しいなどのすべての感情も、生きながらえるための必要な機能であり、時代を生き抜くために湧き上がってきていると言える。

瞬時の色眼鏡で判断せず、人に寛容であっては、生きながらえなかった時代が非常に長かったから、それがDNAに深く刻まれて残っているのではないだろうかと思う。

現代の世界は、法も整備され、急に理不尽に襲われることは非常に少なくなった。

(特に日本などは。場所にもよるのだが。)

生きるために瞬時の判断が必要な時代から、もっと複雑で瞬時の判断では解決できない事象が多くなった。

もちろん未来を予想して、事前に準備する、という機能を人間は身に着けたのだが、まだまだ、即時的なものが反応してしまっていて、「損して得とる」ようなことはみんなができるようになっていない。

そして、生きる目的が変化してきた。

【生きる目的の変化】

食べて生きながらえて、子孫を後世に残す

 ↓

長く健康に生きる

 ↓

より豊かに生きる

目的のレベルが難しい方に上がった、と言ったらいいのか、目的が達成されると次の難しい目的が設定される、と言ったらいいのか。

豊かに生きるためには、自分に危害を加える人間を排除していけばいい、という単純なものではなくなった。

協力し合わないと豊かには生きられない。

これは今に始まったことではない。

人間が長い間学習中のことだろう。

そして自分が豊かに生きることの中に、人の幸せが含まれるようになってきた。

もともと人間が持っている感覚なのかもしれないが、それを表す余裕が出てきた、と言ったほうがいいのか。

最近では、多様性を受け入れる、といったようないくつもの高度な生き方が人間の目的に格上げされるようにもなっている。

このように見てくると、人間というものは、環境にアンマッチになっているこれらの古い機能が過剰に働いているように見える。

免疫細胞が過剰に働くことで自分の細胞までも傷つけてしまうといった、まさに、アレルギーと同じような症状にすら感じるのだ。

環境に適用し続けている

では、これらの古い機能はなくしてしまった方がいいのだろうか?

ただ周りから攻撃される原始的な時代はずいぶん前に終了しているはずではないのか?

必要がなくなれば合理的な体は機能を退化させるはずだ。

しかし、世の中にはいつの時代にも悪い奴は存在するものだ。

法秩序が保たれても、犯罪は発生する。

これに対応していくこれらの機能がなくなってしまうと生きていくのに危険である、と言わざるをえないだろう。

自然災害だって発生するので、不測の事態に警戒する必要もある。

犯罪や災害がなくならないから、古い機能は退化できないでいると考えるのが自然だろう。

日々の経験がDNAに書き込まれ、学習していっている。

これは何かの機能がなくなって何かが新しくなる、といったシンプルな変化ではなく、機能のONOFFの場面分け、程度分けという具合に複雑になっていく変化だ。

この環境適応のために、人は大いに苦しんでいるように見える。

何もこのように意識によって文章にする必要もなく、人間の無意識が勝手に行っている作業であり、無意識は苦しみもDNAへの書き込みの材料にしている。

このこと自体が、生命の根源的営みなのではないかと思う。

またもひっかかる

この仮説から考えると教えに対してもまた引っかかる。

様々な教えは、欲をもってはいけない、色眼鏡で見てはいけない、正論を振りかざしてはいけない、などと、今行っている人間の行為を単純に否定することだ。

「ダメなところを失くせ」とだけ言っている。

これは、生きながらえるための機能を無視して、欲のない、色眼鏡で見ない、正論を振りかざさない理想の人間に、いや、神になれ!と言っているように思う。

また、「欲」と一言で言っても、自分勝手な私欲から、世の中のための大欲もある。

食わないと生きていけない根源的な食欲もある。

欲をひとつに括ることも不丁寧な話だ。

ひとつに括らないならば、出していい欲と悪い欲を分けるのだろうか?

何かそれも心もとない話だ。

欲をなくしたい人はいるだろうが、生命がこのようにできている以上、全ての欲をなくすことは無理な話だと思う。

どうもいろいろな教えが、生命体であることを無視しているような、あるいは、単なる生命体からメタモルフォーゼすること(悟り?)が前提のように感じる。

このような教えによって、人間という生命体に、また別の苦しみをもたらしているように感じるのだ。

矛盾は解消されるのか?

ここまでのまとめは、

1.うまくできないのは、生きながられるための機能があることが原因である。

2.人間の目的が変化してきているのでその機能がアンマッチな場面がある。

3.人間は逆の機能や感覚を複雑に同時に保有することで環境適用している。

では、このような自分とどう向き合うべきか?

冒頭の矛盾をどう解消するのか?

全てはTPO×塩梅につきる。

瞬時の判断でトラブル回避できることもあるだろう。

一方で、瞬時の判断が関係性構築の障害になることもあるだろう。

自分の主張をする必要がある時もあるだろう。

一方で言い過ぎてトラブルになる時もあるだろう。

正解などはなく、どちらに転んでも苦痛を伴うことになるのだろう。

現代のTPOは多岐にわたり非常に複雑だ。

その全ての場面場面において、完璧に適用できるわけはない。

そう、簡単なことではない。

使い分け、出す出さないのオンオフが必要になる。

白か?黒か?どちらの判断をしても後悔が残る。

時に欲にこだわらず、時には欲を出す。

時には色眼鏡で見ないようにして、時には色眼鏡を発動する(というか瞬間で発動している)。

正論を振りかざす場合には、それが何に役立つか?などと目の前のことだけではなく、中長期的にも考えて・・・、あるいは、言葉使いに気をつけて・・・

という具合に場面場面で出し分けをする。

人間には、古くから持っている瞬間的に発動する感情機能がある。

その発動がされることは何も悪いことではない。

むしろ、この機能によって生きながらえてきたことを思い出し、誇らしく思った方がいい。

そしてその機能と思考を上手く組み合わせることだ。

この認識は重要だ。

いちいち落ち込まず、試行錯誤こそが人生であると思って、気軽に気長に日々に取り組む。

大音量のワンボックスカーは、怖いし、警戒も必要であるし、また、同時にご機嫌で楽しげで素敵なのだ。

人間が抱える、逆の感覚、矛盾を解消することに意味はなく、両方を置いておく。

矛盾はそのまま放置する、でいい。

矛盾は解消するものではない。

人間の劣っているように見える面も、都合が悪く見える面も、そうでない面に対しても、楽観的でも悲観的でもなく、いろいろな叡智(学問)を統合して、フラットにちゃんと理解していたい。

人間が(自分が)劣っているのではない。

いつ何時も環境に適応しながら苦労して生きている。

上手くいったり、上手くいかなかったりの繰り返し。

それが学習としてDNAに刻まれていく。

人生が終わる時に、自分が何かになっている、ということはない。

DNAへの書き込みの途中で終わる。

この欲深くあるが、複雑かつ精巧でいとおしい生命に対して感謝しながら、自信をもって淡々と生きたいものだ。

こう考えることは自分にも他人にも愛を感じることができて寛容になる。

みんな似たり寄ったり。

大きく括れば、同様に苦労しながらDNAに書き込みを行っている。

この結論に対しては、「機能のせいにして責任逃れしている」と言われるかもしれない。

人間は自分を意識でコントロールしていると思いきや、無意識で動いている部分が大きいと言われる。

コントロールできる、コントロールするべき、という所詮は無理な思い込みがまた苦しみを抱くことになる。

そう、もう一つは、無意識に対して意識は責任なんかもてない、ということ。

「機能のせいにする」これをスタートにするのが、適当だと思う。笑。

*本記事は、ブログ「日々是湧日」に掲載された記事(2021年7月)の一部を加工したものです。

Photo by Joshua Sukoff on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

人間とはどのような生命体なのだろうか?なぜ人間が存在しているのだろうか?

このようなことに非常に興味があります。

それを少しでも理解することが、日々穏やかに生きることの足しになればと思っています。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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