「無意識を意識化すること」に蓋をしなければ感性は高められる。

「あの人は、感性が高い人だ。」
「持って生まれた感性がある。」
何回も聞いた言葉だが、感性とは何なのだろうか?
感性とは生まれ持ったものなのだろうか?
それとも育つものなのだろうか?
私は、いつもこんな風にして遺伝論、環境論の迷宮に入り込むわけなのだが、今回この感性というものの捉え方について、ひとつのヒントが見つかった。
そのキッカケは、久々に聞いたレジェンドゴルファー、岡本綾子さん(74歳、日米欧優勝62回)のゴルフ解説だった。
岡本さんの解説は、以前からゴルフに対する洞察はもちろんのこと、ズバズバと斬り込む物言いで面白かったのだが、今回、それに拍車がかかっていたように感じた。
このような解説を聞くと、いつも聞いている他の解説が決められたレールの上を走るだけのものだから、そこには自分にとっての意外性が見当たらなくて、いつも退屈していたことに気づく。
今回は、この岡本綾子さんの解説の面白さが、「感性を高める」ということに結び付いた話をしてみたい。
面白さはどこから来るのか?
岡本さんの解説の中で、面白かった発言をいくつかあげてみる。
●プレイ中何も考えてない時間がある。
後輩のプロゴルファーから「プレイ中どんなことを考えてますか?」(ゴルフはボールを打つ時間はあっという間で、それ以外の時間が非常に長い珍しいスポーツだ。)
と質問された岡本さんは、
「周りは見えているけれど、何も考えてない時がある。」
と答えた。
これに対して後輩は「なるほど、私は(ひっきりなしに)考えているから良くないのかもしれないです。」と返す。
岡本さんほどの実績がある先輩にこう言われてしまうと後輩は比較して自分の改善点を探るしかないのだろう。
私はこれを聞いた時、これは瞑想の時の頭の使い方(思考のストップの方法とでも言ったらいいか)に近いものだと直感する。
いわゆるボーっとすることで、脳が逆に活性化していい発想が湧いてくるというものだ。
※脳科学でいうところのデフォルト・モード・ネットワーク
ゴルフと瞑想がつながるとは意外だった。
それはともかく、何よりも新鮮だったのが、「何も考えていない」ということを自分が認識していたから、即答できたということ。
当たり前のようだが、これは自分が瞬間瞬間どう過ごしているか?に、一度も疑問を持ったことのない人には当然たどり着けないものだ。
そしてこれは、多くの人が、思考によって正解を導き出すもので、だから使える時間はすべて使って人より秀でた思考をするべきである、という具合に構えているものだから、また簡単にたどり着けないものでもある。
そう感じた。
そして「貧乏暇無し」とは思考で忙しいことにも当てはまるのではないだろうか?
などと余計なことも浮かんでしまう。
そして、後輩がその有効な思考法を知りたがっている時に「何も考えてない」などと寄り添う気持ちが微塵も感じられないような賺した回答!笑。
これは岡本さんに悪気があるわけではない。(悪戯っ気はあると思うが笑)
どこまでも正直なのだ、と私には感じられた。
●肩凝りしそうなアドレスですねえ。
これは、あるプロのアドレスを見て放った言葉だ。
※アドレス=スイングする前の姿勢のこと。
最初は、何ともイヤァ〜な表現だと感じたが、言われてみるとまさにそのとおり!
素人の私にも肩に力が入った構えのように見えて、逆に見事な表現だとも思った。
これは毒舌というものに当たるんだろうか。
そう言えば最近の地上波は毒舌が減っているのかもしれない。
だから、炎上を恐れ?様々なことが当たり障りなくて退屈なところがある。
こんな嫌な言い方でも炎上しないでいられるのは、岡本さんの実績によるものなのかもしれない。
●キャディはカメラ位置を気にするようにした方がいい。
「(グリーン上で選手がパッティングしている映像で、ホールカップの部分にキャディさんが重なって、入ったのかどうか見えなくなってしまうことに対して)キャディさんはカメラ位置を知って立ち位置に配慮するように(ゴルフ協会が指導)してほしい。」
この主張の背景には、プロゴルフはやはり興行なのだから、見ていただいてナンボだ、というものがある。
これは視聴者の誰しもが何度も経験していることではないだろうか?
思わずそのとおり!とこちらにも共感した。
競技者やゴルフ協会に対して、改善点を生の地上波で言えるのはこれもまた岡本さんだからなのかもしれない。
さて、ここまでの発言が面白いのは、忖度ない正直な物言いによるものなのだろう。
質問された相手、競技者、協会などへの変な?配慮よりも、正直さが前に出た時、見ててスッキリするし、その意外性に私は面白さを感じたのだ。
岡本さんと比較してみる
「肩凝りしそうな構え」や「キャディはカメラ位置に配慮するべき」という発言に私は確かに共感した。
ならば、そんな思いがあったはずの私が岡本さんのように自分で表現できなかったのはなぜなのだろうか?
共感できたのだから、表現できても良かったのではないか?
これが岡本さんには感性があって、私には感性がなかった、ということなのだろうか?
もちろん、私は単なる素人の視聴者であって、岡本さんはゴルフおよびゴルフ界ともに歩んできたのだから、ゴルフに対する真剣さは比較にならない。
岡本さんは、長年に渡ってスイングをよりよくするために自分と向き合い、他のプレイヤーを観察してきているんだから、構えに対しても改善する目線で常に見ている。
その積み重ねから「肩凝りしそうな構え」という言葉が出てきたはずだ。
ただの受け身でいる私とは違って、ゴルフ界をもっと良くしよう、と真剣に思っているから、「ホールカップとの重なり」に物を申したくなる。
当然と言えば当然のことだ。
何事に対しても無関心では感性が高まらず、真剣に向き合うことで感性が高まる、これは紛れもない事実なのだろうと思う。
だから、事ゴルフに関して岡本さんと私を比較するのは何ともおこがましいし、そもそも意味があるようには思えないのだが・・・・。
それでもこのことを一般論としてみて感性について考えてみることにする。
「感性が高い」とは何か?
相手に対して嫌なことを言わない。
批判的なことは避ける。
これらは、教育よろしくずいぶん私に刷り込まれてきたものだ。
それは優しさでもあり配慮であって周りと上手くやるために必要なのだと。
それが更に進むと、嫌なことを言わなくなるだけにとどまらず、嫌なことを考えないようになる。
周りにとって有害なものならば、時間をかけても意味がない、と私ならではの合理化が始まるわけだ。汗。
こうして配慮できる優しい私のような素晴らしい大人が完成する。笑。
今回の「肩凝りしそうな構え」や「キャディはカメラ位置に配慮するべき」といったものに対しても、私の中でこのような合理的な処理がなされていたのではないだろうか?
選手に対してあるいはキャディー(あるいはゴルフ協会)に対して、嫌なことは言わない、という優しさと配慮により、考えることに蓋をして終わりにしたところがあった!?
そしてこれが、蓋をせずに言葉にした岡本さんと私の違いなのではないか?
ゴルフに対する真剣さの違いとしてだけでは片付けられないものがそこにあったような気がしてくる・・・。
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ここである本のこんな一節が思い浮かぶ。
感じたことの99%が「無意識下」に追いやられる
書籍:瞬時に「言語化できる人」が、うまくいく。より。
人は無意識にいろんなものを感じているのだが、そのほとんどを意識下に持ってくることなしに過ぎているのだという。
ちなみに、意識下に持ってくることのわかりやすいものが言葉にする(言葉で考える)ことだ。
これを読んで、優しさと配慮により蓋をするということが、まさしくこの無意識下に追いやる行為なのだ!と腑に落ちる。
優しさや配慮が、例えば「肩凝りしそうな構え」や「キャディはカメラ位置に配慮するべき」という表現にして意識下に持ってくることにブレーキをかけ、通り過ぎていた。
優しさや配慮以外にも、「私が感じることなんてのは、誰もが感じることだから、意識するに値しない」というような自己卑下が蓋をしていた可能性もある。
ところで、そもそもこのようなネガティブな部分を隠すことが、本当の優しさであり配慮なのだろうか?
指摘することが優しさであり、その指摘によって改善のキッカケになって、結果的に配慮したことになることもあるわけで・・・。
全般において、嫌なことを無意識に避ければ意識化させることにブレーキをかけることになるのは間違いなくて、これがこれまで偏って覚えてきた私の優しさだったことに気づく。汗。
この偏った優しさが、カール・ユングのいう「社会の複製にさせられて、個性が窒息する」という状態に導く元凶のひとつなのかもしれない。
いずれにしても、この偏った優しさはいい塩梅にしないとなるまい、そう感じるのだ。
さて、ここまで来て感性について思うのは、人の感性のあるなし、あるいは、感性の高い低い、というものは、無意識下のものをいかに意識化に持ってこれているかによって決まるものなのではないか?というものだ。
無意識下には誰もが感性を持っているが、それを意識下に持ってこないと本人も感性として感じられなていないものなのではないだろうか?
ましてや、意識下に持ってきたものを表現しないと周りには伝わらないのは当然なわけで・・・。
意識下に持ってきて初めて感性というものが見えるようになるのだ。
つまり、感性を高めるには、というよりも感性を活かすには、感性を意識化しないとならないということだ。
長年、意識下することにブレーキをかけていた私なんかの場合は、無意識の感覚を瞬時に言葉にする、そのトレーニング、いや、リハビリが必要のようだ。
まさに、先ほどの書籍では感じたことを都度メモする習慣をつけることを推奨している。
感じたことを素直に口にする、あるいは、書く。
外に発しないにしても言葉にすることが、自分の感性を高めることになる。
そして、それにブレーキをかけないために、自らの偏った優しさや配慮(忖度)、卑下という固定観念をまた脱する必要があるのだ。
今回は、感性というものの捉え方のヒントを見つけた、という話になるのだが、ここから言えることは、親からいただいた本来の私というもの(個性)を存分に活かすために、残念ながら未だにリハビリが必要だ、ということだ。笑。
なんでこんな歳になってまでリハビリが必要なのだろうか?
いやいや、年を重ねて壊れたものを元に戻すのがリハビリだった。汗笑。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
岡本綾子さんの解説の何が面白いのか?これを感じるままに言葉にすることでいろいろなものを意識下に持ってくることができて、また広がりました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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