RYO SASAKI

「感謝で思考は現実になる」は本当なのか?とりあえず、健康のために思考が大切なのだ。

タナカ シンゴ

数年前の話だ。

隣から男女の話し声が聞こえた。

女性:「感謝すれば願いが叶うのよ。努力しなければならないってのは嘘なのよ。」

男性:「そんな都合のいい話なんてないでしょ。

    努力するから何事も上手くなるじゃないか。

    努力が報われてここまできたし・・・。」

女性:「その正しいことを知っている、っていう確信が可能性を閉ざすのよ。」

男性:「えっ!?何かの宗教なの?」

私はこの男性にもっともだと思いつつも、女性のその自信にどこか引っかかるものがあった。

この件をなぜ今になって思い出したのだろうか?

「努力しなければならないというのは嘘」

特に聞き捨てならない言葉だ。

私の両親の教えは、努力しなさい、そうしないと足元を救われる、というものだった。

両親もまた努力して私を育ててくれた。

私もそれに習ってきたから何とか生きて来れてると思う。

努力しなかったらこうはなっていなかっただろう。

物事の結果には必ず原因があるのだ。

これが理系に顕著な論理的思考である。

「感謝すれば願いが叶う」

そんな都合のいいことがあるものか?

感謝は自分がそう感じた時にしているし、有難いと思わないことに無理に感謝するなんて偽善は私にはできない。

そもそも、感謝する相手と願望実現をサポートしてくれる相手は異なるから、感謝と実現に因果関係なんてものがないではないか!

当時の私はこの話を聞いてこんな風に思っただろう。

この時、女性は『「感謝」で思考は現実になる』という本の話をしていたようだった。

「思考は現実化する」という言葉はナポレオン・ヒルの本ではるか昔に聞いたことがある。

どうやら「思考は現実化する」という言葉はずっと語られているようだ。

最近になって私の常識を疑い出した私は、自分が聞き捨てならないことを言っているこの本が妙に気になってしまった。

健康には日々の思考が大切

この本には、身の回りのいろいろなことに感謝し始めた人が出てきて、その人の願望が実現したという事例がたくさん紹介されている。

感謝対象とは全く関係ないところから、いわゆるラッキーが舞い込んできている例が多かったのだが・・・。

私がこの本の中でまず気になったのは、このスピリチュアルっぽい願望実現の話ではなかった。

・たいていの人は、自分の思考よりも自分の車の方をよっぽど大事にしている。

・『何かが足りない』と思い込むとすでに持っているものへの感謝の心がなくなってしまう。

・よい解決策が浮かぶのは物事のポジティブな面を見ている時だけ。

車と思考の比較は物質と精神の対比?

物質のことを考えるのか?精神のことを考えるのか?

足りているものを思うのか?足りてないものを思うのか?

ポジティブな面をみるのか?ネガティブな面をみるのか?

これは、最近意識した物事の両面を見ること(更に多面的に見ること)につながる話だ。

『知っている』という確信こそが、硬直した枠組みになり可能性をブロックする。

思い込みが少ないと意識の中に空間ができて、その空間に新しいものが入ってくる。

すべての問題は『常識』で塗り固められた人生の台本を捨てるための大きなチャンスになる。

常識を疑い始めた私に、常識とは硬直であって新しいものの拒否であって、それによってチャンスを逃す、などと追い打ちをかけてくるものだ。

私が気になったのは、このような人の日々の考え方、思考法だった。

いろいろな健康法を渡り歩いてきて、特に健康のための重要な部分がこの思考法なのではないか?とちょうど思っていたところでもあった。

例えば、この飽食の時代に増加する糖尿病について。

一般的に、糖尿病の原因は食べ過ぎや運動不足と言われている。

ところが、そもそもなぜ食べてしまうのか?この原因は、美味しい物が巷に溢れているということ以外に、体内ホルモンが食べろ!と指令しているから、ということらしい。

人間の体は、睡眠不足やストレスがあると食欲を増すホルモンを分泌するようにできている。

睡眠不足やストレスという危機に対応してエネルギーをとり、死のリスクを避けるようにできている。

だからストレスがあると食べ過ぎるというわけだ。

あるTV調べによると、日本人のストレス解消法ランキング1位に「食べること」が上がっていて、なるほどと思った。

この糖尿病の例からも様々な病気の根本原因にストレスがあるということに注目するようになった。

そして、人のストレスの大小はその環境や持って生まれた資質にもよるだろうが、他に考え方によるところが非常に大きいと感じるようになった。

特に情報が多く流れが早い現代においては・・・。

私はこうして、この本の本意とは別にストレス軽減のための思考法としてこの本を捉えることになった。

スピリチュアルと私の常識

さて、どうしても納得できない「努力しなければならないは嘘」という言葉。

本には、それを後押しするようなこんな内容があった。

正しい周波数で振動していれば、人生は遊びになる。

無理をする必要は一切ない。

正解も間違いもない。

ただ、可能性の海の中で水遊びしていればいいのだ。

「正しい周波数」は量子力学的にみられるようになったから今となっては違和感はない。

「正解も間違いもない」も理解できる。

それでも「無理する必要はない」「水遊び」にはどこか騙されているような気がする。

なぜ騙されているような気がするのか?

「常識による硬直はチャンスを失い、常識を塗り替えることがチャンス」らしいから、私のこの常識的な感覚を疑ってみようと思う。

私の中に、努力せずに楽をすることはズルい、という思いがある。

みんなで何かの仕事をする時に、平等に苦労することを学ぶ。

人は他人が楽だとズルいと思うようにできている。

苦労や苦痛を味わってやっと周りから認められるようになっている。

逆に、苦労した分だけ報われないと割に合わないと思っている。

努力という言葉に苦痛を伴うものというニュアンスがあるのは、認められるように、あるいは、ズルいと言われないようにするには、苦痛を味わうところまでやらないとならないと思うところにある。

努力しない=怠け者=ズルいと認識している。

これに、努力すると物事が上手くできるようになるという理屈が加わって努力をしてしまうのだ。

そして社会に対して苦労した分だけ同等に報われる平等を願ってもいる。

この平等が私の中の正義のようだ。

この志、正義を悪いとは言えないかもしれないが、人間は果たして平等にできているだろうか?

残念ながらそうはなっていない。

そもそも資質が異なって生まれる。

同じ努力ができたとしても結果が違う。

同じ努力をしたとしても感じる苦痛が違う。

平等なんてのは幻想でしかない、とみることができてしまう。

今度は理系の論理性について。

これは何とも素晴らしき考え方ではないか!

原因と結果を論理でつなぐ。

だから結果につながる努力というものに納得するのだ。

ところが・・・

ここまでの人生を振り返ると人生には時として努力と関係のない不思議な巡り合わせがある。

たまたま出会った人との縁で就職先が決まったり、商売が舞い込んだり、趣味が確定したり・・・。

後付けで論理的に説明することはできるかもしれないが、それを事前に予知することはできない。

人生は偶然に満ちている。

こうだからこうなる、と論理立てができるのは、わかっていることだけで組み立てられるもので、わかっていない(見えてない)ことで組み立てることはできない。

論理も限定的なものなのだと思う。

にもかかわらず理系の論理を誇らしく思う者ーそれは私のことなのだがーは世の中のすべてを論理的に処理するものだと思って生きているところがある。

見えないものがあることを見ないことにしてしまっている。

なんとも滑稽ではないか。

これが「知っている」による硬直のひとつなのだと思うのだ。

いま一度自分を疑ってみよう!

最近、「目に見えるものがすべてではない」とよく聞くようになった。

第六感が必要だということなのだろうが、五感でも怪しいものだ。

嗅覚は犬のように感じられないし、象の足裏ほど地震を検知できない。

量子力学でいうすべての物質の波動を観察することもできない。

自分という者はそれほど信用に値しないということではないだろうか?

「自分の努力で」「自力で」「自立して」というような言葉が刷り込まれてきた私は、これに反して自分が心もとないように感じられてくる。

何も「自分の努力で」「自力で」「自立して」を否定するものではない。

それでも「自分の努力で」「自力で」「自立して」だけを確信してはいけない。

この心もとなさが、「自分が、自分が」と眉間に皺を寄せて頑張らずに、もう少し流れに身を任せるようでいいのだろう、と思わせてくれる。

また、努力というものは自分の怠け癖との闘いであって、ネガティブなことを見つけては解消していく行為でもある。

私という人間が、物事のポジティブな面よりもネガティブな面を見るのはこの”努力”の賜物なのである。笑。

最近、たまに見るニュースで具合が悪くなったことがあった。

目を塞いでいたのだが、時にしんどい世の中に気づいてしまう。

例えば災害のニュースで具合が悪くなるのは、当事者の苦しみや悲しみを想像するからなのだが、その災害が自分の住む地域でも起こるんではないか?という恐怖と不安からも起こっている。

人間は、いい出来事よりも嫌な出来事の方を強く記憶に残すものだ、という。

人は嫌な記憶を予備知識として、今後起こるであろう事件や事故に対処しようとしている。

記憶する機能ができた一番大きな目的は、こうして生き残るためだったのだ。

報道されるニュースが嫌なものばかりなのは、人は他人の不幸が好きだから、と言われるのだが、自分が失敗しないための他山の石としての欲しているという方が大きいのではないかと思うのだ。

とするとポジティブ思考であるには、この嫌な記憶の方が強く残る中でポジティブでいなきゃならないということになる。

これは私にとっては大変な話だ。

しくみそのものがポジティブ思考を難しくしているのだ。

私がネガティブ思考なのはこのしくみに忠実だからでもあるのだ。笑。

私のネガティブ思考の言い訳ができた。汗。

こうしてみると、危険回避と真逆のポジティブ面をみることは、危険を避けて生き残る、という築いてきたDNAをはみ出す行為なのではないだろうか?

この危険な記憶を残すことは、危険を避けるという短期的な目的への対応でできたDNAだ。

このDNAだけでは、より長く幸せに健康に生きるという目的に対して不十分になってきているのかもしれない。

最近は、ずーっと先の目標や夢の実現のために生きていて、今を楽しめない悲しい現代人などと言われたりもする。

このことはずーっと未来の危険を心配して生き延びることを目的にするところから、今を楽しむことを目的にする大きな進化の流れなのかもしれない。

そう!ポジティブな面を見ることは、大いなる進化なのだ。

何とも大げさだが・・・。笑。

ストレスを減らす考え方

ここまでストレスを減らす方法を考えてみて、知らぬ間に抱えている常識、変な正義感はまだまだあるんだとあらためて思うのだが、行きついたのは「ご機嫌に過ごす」というものだった。

とにかくこれに尽きる。

ご機嫌に過ごすには、

・余裕をもつこと

・ポジティブな面を見ること

・リラックスすること

一瞬たりとも休まずに問題を探しだし、その問題を未来のために解消する努力。

この努力をいい加減にして止めること。

不機嫌な時よりもご機嫌な時の方が探し物が1.5倍見つかりやすい、ともいう。

ご機嫌でいるとアンテナを張れるというか、観察に気が回るんだろう。

不機嫌になるところまで努力して追い込んでは余裕がなくなる。

また、悲惨な事故・事件であってもポジティブな面を見ることもできる。

例えば、起こってしまった災害に対して、自分の住む地域で災害が起こらなかったことに注目して良かった、と思うことができる。

「他人様のご不幸を差し置いて自分事で安堵するなんて不謹慎だ!」という思いにすべて覆われてしまわないようにすることもできるのだ。

人間の頭の中では、恐怖・不安と感謝・満足とを共存させることはできないのだ、という。

だとすると、転ばぬ先の杖のために恐怖と不安で待機する人生から抜け出すために、感謝と満足を使う手があることに気づく。

思考時間の多くを感謝と満足の時間で満たせばいい。

語弊が大いにあるのだが、感謝してなくても感謝を造り出せばいいのだ。

いやこれは違う。汗。

見逃しているだけで、感謝できることはどこにでもあるのだ。

物事のポジティブな面を見ることができれば、それらに感謝できる。

災害が自分の所に起こらなくて良かった。

その次に「ありがとう」と加えさえすればいい。

ポジティブなことと感謝はすべてセットになる。

ちなみに、否定や恐怖の時間が長いと人は身を固めた状態になる。

警戒して閉ざして物事を受け入れなくなる。

ある人から、喉のチャクラを開いて通りをよくするなんていう方法を聞いたことがある。

何事も警戒を解いて心を開いて受け入れやすくする。

努力をやめて自分の中にスペースを持つ、常時受け入れ態勢でリラックスしているのがいいんだ。

「感謝」で思考は現実になる?

ストレス解消法はここまでにして、この本の「感謝で思考が現実になる」は本当なのだろうか?

理系の私が理解できたのは、「感謝する」で気づきが増えてチャンスが増える、ということだ。

チャンスが増えれば思考の実現に近づくのだ、と言われれば確率的には上がるのはわかる。

でもどこかピンとこない。

量子力学的に波動の伝播や周波数の共鳴からみても、その理屈はわからないではないが、やはり十分ではない。

実現確率はどの程度なのだろうか?

これが数字がないと納得しない理系ならではのものなのだ。笑。

これが私の常識の限界。

今回はここまでにして今後の数字を待つことにしようと思う。汗。

今回も、思考法に関していくつか常識を壊して進むことができた。

ストレス解消になるならば、チャンスが少しでも増えるならば、この感謝を使って(こんな自己中心的な感謝があろうか・・・汗)、思考法を変えていきたいと思う。

敢えてこの可愛くない自己中な言い方で終わってやろうか!ふと自分の中のワ(悪)ルがささやいた。

後から自分の変化を確認できる観測点になるだろうからそうしておけ!と。

最後に目の前の不快なことに感謝して終わろうと思う。

コーヒーはあっという間に冷めてしまう。

「なんでこんなに冷たいんだよ!怒」

これはいつものことだ。

暖かいうちにコーヒーを飲み切ったことはない。

これはゆっくり味わえていること。

何かに集中できていること。

あるいは、時間がゆっくり流れていること。

何という贅沢な時間だろうか!

ありがたい。

※コーヒーウォーマーを使えば?って言わないでください。今は問題の解消でスペースを埋めたくないのです。笑。

UnsplashDebby Hudsonが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

この本によると「感謝」の力を信じる人と信じない人でまずは分かれるのだといいます。

見ての通り動機は不純ですが、一旦信じる方に入ってみようと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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