嫌な奴は「適応遅れの恐怖心過剰者」である。この解釈でストレスを軽減する。

嫌な人というのは誰にとっても多かれ少なかれいるものなのだろう。
人から嫌な人の話を聞かされることは多いし、嫌な人との縁が切れなくて嘆く人がまた多い。
嫌な人がいなくなる世界があったならば、どんなにいいだろうか?
理想の未来を想像してみたりもするのだが・・・豊かさとは関係なく、嫌な人がなくなることなんてないのではないか?
そんな諦めがすぐさま追いかけてくる。
この嫌な人に対するいわゆる対人ストレスというものは、人間のストレスの代表のひとつなのだろう。
私は最近、すべての病気の原因は、
・栄養不足
・毒
・ストレス
の3つで説明できる、というある本を読んだこともあって、ちょうどストレスのことが気になっているところだ。
なので、自分が対人ストレスを減らすために日頃から無意識にやっていることを掘り返してみることにした。
恐怖を感じる機能が備わっている
「損失回避バイアス」という言葉がある。
人は、同等の得をした時と損をした時、例えば10万円の宝くじが当たった時と株(ギャンブル)とかで10万円損をした時では、得した時の喜びよりも、損した時の痛みの方が2倍〜2.5倍強く感じるようにできているらしい。
このようにできているということは、人は損失を回避する行動を優先的に取りやすい、ということになる。
人間がこれだけ精巧にできていることからすると、このようにできていることにも当然理由があるはずで・・・。
理由を考えてみると、非常にシンプルながら、その方が生存に有利だったから、という答えが浮かぶ。
損失を嫌がることで、リスクを回避してきたから子孫が残ったのだ。
逆に得の方の快感が強くなるようにできていたのならば、それで安心して緩んでしまって、生存の危機に晒されることになったんだろう。
今の時代ならまだしも、損失を含む失敗の全般は、死に直結するという時代が長かったはずだ。
例えば、無法状態が当たり前だったり、人が位に分かれていて下の位の者の無礼は即打首なんてことも普通だった理不尽な時代。
そんな時代に産まれたならば、恐怖を敏感に感じてそれを避けて通らなければ生きながらえない。
理不尽な環境に長く晒されていると、DNAが恐怖を感じてリスクを避けるように適応していくのは当然のことのように思えるのだ。
心配性の親の子供はチャレンジしなくなる、ということを聞いたりもする。
時代が自由平等という方向に向かっている時は、親の時代の方が理不尽だっただろうから生存のために恐怖心を持つことが必要で、親が子供よりも心配性の傾向にあるのだろう。
親の心配性に晒された子供は、恐怖をもって社会を見るようになり、リスクを避けるようになる。
これも環境への適応の一環なのだ。
適応が遅れることで嫌な奴が出来上がる!?
人は人の嫌なところを瞬時に感じるようにできている。
大げさだと言われるかもしれないが、人の嫌なところに対して、自分の生存がいずれ脅かされることを察知して、恐怖心(警戒心)が発動するようになっているのだ。
一方で嫌な奴の方もまたこの恐怖心からできている。
人は、周りをコントロールしないと逆にコントロールされるなどいいようにやられてしまって危険だ、そう感じ取ってその恐怖から、なんとか自分が主導権を取ろう!とする。
そして、自分の方が物知りである、賢いということを証明しようと必死なのだ。
これは元は生存するための恐怖から来ていて、すべて生存の恐怖の延長にあるもの。
こういった恐怖のDNAに、できる人にならなければならないという教育、役割を全うしなければならない、という責任感、さらには正義が悪を成敗する、という時代劇やアニメや道徳を学んだことも加わり、自分の正しさで世の中を塗り替えようとする。
このようなことが合成された結果、やりたいという欲が強くなって、絶対にやらなければならない!となって、それが周りからは自分勝手に、そして押し付けられているように、時に馬鹿にされたように見える。
こうしていわゆる嫌な奴が出来上がるわけだ。
そしてこのような要素は自分の過去には間違いなくあったし、今も自分に潜んでいるようにもまた感じる・・・。
過去の恐怖が刻まれているDNAによって嫌な振る舞いをさせられているというのがピッタリした表現のように感じてくる。
しかし、よく考えてみると今の時代がそこまで周りをコントロールしないとならない時代なのだろうか?
コントロールしないと命を取られる時代ではあるまい・・・(全くなくなったとは言えないだろうが・・・)
それにも関わらず、DNAがささやく。
「危険だ!やられる!」と。
私には、嫌な奴というのが、過去の社会に適応するためにできた恐怖を感じるDNAが、現代においてそのまま発動して過剰に反応してしまっている人のように見えるのだ。
つまり嫌な奴とは、危険が少なくなった現代への適応が遅れている人とも言える。※適応はいつでも遅れてくるものだが。
嫌な奴はシャカリキに見える。
それは恐怖心によって動かされているから・・・。
「なんでそんなに頑張るの?」
令和世代の若者が昭和世代の私から、シャカリキな圧を感じるとしたらこのような背景からなのではないだろうか?
これは裏を返せば、現代はそういう意味での恐怖が減ってきている時代なのかもしれない・・・。
ストレスを理解によって軽減する
嫌な奴のストレス。
ここからはこの対人ストレスを減らすために自分がやっていることを言葉にしてみることにする。
ストレスを減らすには「人を理解する」ことである。
嫌な奴のことを理解するということだ。
嫌で仕方ないし、嫌いで仕方ない、けれどもこういう背景でこんな嫌な態度になっているんだなあ・・・、といった具合に嫌いと理解を共存させる。
嫌な奴とは、「適応遅れの恐怖心過剰者」である
私はこう理解している。
「昔の恐怖のままに反応している、適応がゆっくり目の人なんだ、しようがないね!」と・・・。
この私の理解は、私独自の解釈であり、私の創作であり、偏見でもあるのだろう。
もちろんエビデンスがあるものではない。
それでも自分が納得できる創作ができさえすれば、恐怖心もストレスも軽減できる。
そして、人は誰だっていつを切り取ったって新しい環境に適応している最中だ。
・・・とすると、その同じ過程にある自分にも嫌な奴と同様の要素をもっていることにも気づく。
これにより、嫌な奴にも少しだけ寄り添える気がするのだ。
適応者なので自分と大して変わらない
悪い人ではない
よくあるタイプだ
などと・・・
これらの捉え方も、嫌な奴を「適応遅れの恐怖心過剰者」と定義したことで生まれた自分が納得する創作だ。
嫌な奴のストレスを完全になくすには、離れるしかないのだが、理解によって少なくとも緩衝材にはなる。
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今回は、嫌な奴のストレスを軽減するために私がやっていることを掘り返してみたのだが、こんな風に都合よい(偏見を)創作ができるのが、私の前向きなところで、私の強みでもあるのだろう。
理屈っぽくて十二分にウザいところでもあるのだが・・・・汗笑。
あるいは、だんだんストレスに耐える体力が落ちていくから、それを避けるためにこんな風に逃げ道を探しているのかもしれない。
追記
歴史に学ぶ。
過去に数多あった残虐な出来事、これらの現象面を学ぶにとどまらず、それにより備わったDNAのことであったり、そのDNAが現代人に与える影響のことを歴史から学び、今日からに活かしたい、そう思える。
ここまでのことをまた別の視点から見れば、人生とはDNAに刻まれた恐怖心に打ち克つゲームでもある、と言える。
祖先が恐怖が少ない境遇に産まれていたならば、恐怖心は少なくなる。
しかし、そういう環境でなければ恐怖心が大きくなり、恐怖心に打ち克つことは困難になるものなのだろうからゲームの難易度は過去の環境にも左右される。
いずれにしても、まずは感じている恐怖を認識すること、そしてその恐怖は未来に起こらないことを経験すること、あるいは、何らかのリスクのあることにチャレンジしてクリアする、このようなことを繰り返して恐怖心をひとつひとつ取り除いていくこと。
これらによって、恐怖心DNAは早く書き換わり、嫌な奴でいる期間を短縮できる!
今は、そんな風に感じられてしかたないのです。
UnsplashのGama. Filmsが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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