「老害」は悪いことばかりではない!?年を取るということの構造を理解する。

ある日の明け方、こんなことが頭に浮かんだ。
自分はこれからどんな風にして年を取って行くのだろうか?
そう思った矢先に、年の取り方も人それぞれだから、この問いは何とも漠然としていて難しそうだ、という思いがやってきて・・・
それに、どんな風に年を取っていくのかは、その人の指針によって変わるのではないか?という思いが続く・・・。
人は人生において多かれ少なかれ、何らかの指針に従って生きてきているように思う。
指針が明確な言葉になっていなくても、その人の大切にしているものをベースにして無意識にこちら、あるいはあちら、と物事を選択しているはずなのだ。
この指針は人から教わったものだったりすることもあるだろう。
いずれにしても指針なるものは、人生に影響を与える。
それで考えてみる。
自分は、今何を指針にしているのだろうか?
細かいものはいろいろあるが、今1番強い思いは、あらゆる固定観念から解放されて自由度を増したい!というところだろうか・・・。
これが最初に出てきてしまって、正直に生きる、とか、人に優しく生きる、とか、人様の役に立つとかが一切出てこない自分の曲者さに苦笑いする。
これまでもこのブログではいろいろな価値観を疑ってきた。
努力、真面目、理想、合理的、便利、友だち・・・。
これらは、比較的多くの人が大切にしている価値観だと思う。
これらは今の私にとっては周りから学んだ価値観、という印象が強くて、外からのこれらを追いかけなくなったなら、そこに本来の自分が現れるのではないだろうか?
そんなことを期待する自分がいたりする。
今回は、こんな他愛もないキッカケから、年を取ることについて考えてみることにする。
やりたいことだけをやるようになると・・・
この私の指針なるものに従った場合、どうなるのだろうか?
努力をしない、不真面目で、友だちのいない生活???
億劫なこと、面倒くさいことはやらない。
楽しそうじゃないところには行かない。
そうすると真っ先に上がってくるのは、掃除・洗濯・料理などの家事。
外食も面倒だから、Uberを頼む。
不真面目に自堕落に・・・。
自分の好き勝手にやる。
更に、老化によって、身体が動きづらくなって億劫さが増す方向になるのだから、これら面倒なことはしない、という方向に余計拍車がかかっていくのだろう。
そうなると、見るに堪えない老後生活が待っているように思えてくる・・・
こうなってしまっては、あらゆる固定観念から解放されて自由度が増す方向に行きたい!という私の指針はろくでもないもののように感じられる。
この指針は撤回した方がいいのだろうか・・・。
「老害」はこうしてできる?
この固定観念から解放されて自由度をあげるという指針に、老化によって億劫になっていくという自然の摂理が加わる。
そうするとまた、こんなことも想像される。
教わった固定観念からは解放されたにしても、個人に残る価値観がある。
たぶん、その自分の価値観に素直になるということは、その価値観へのこだわりが強くなるということになるだろう。
自分の価値観を大切にしたいから、周りから邪魔されたくない、となって、人の話を聞かなくなる。
なぜそうするのか?と周りに聞かれたとしても、その理由を説明するのも面倒くさくなるから、チャンとは答えない。笑
人と話すことがやりたいことならば、必ずしもそうはならないだろうが、それがやりたいことではないならば、こうなるのは自然な流れ。
あるいは、人と話しはしたいのだが、興味がそれぞれ異なるから、どうせ話が合わないだろうと判断してしまう。
話す必要がない、もしくは話しても仕方ないから、人と話もしなくなる。
頑固になる。(頑固に見える)
こうしてよく言われる周りにとっての「老害」が出来上がるのかもしれない。
自分の価値観を大切にするだけならば、老害とは見えないが、周りの人と協働するような場で価値観を押し付けるような結果になってしまったならば、もちろん「老害」認定される。
押し付けないにしても、風変わりの価値観を、外に露呈したままに、そのことに対しての説明をしなくなる。
「どうしてそうなのですか?」
に対して、
「まあ、どうしてもこれが好きでねえ。すまんねえ。」
くらいの一言があれば「老害」とはならないが、そのやりとりもしなくなる。
説明は面倒。
話しても理解されない。
そもそも「すまん」とはひとつも思ってないのに謝ることに納得が行かないからそんな意に反することはやらない。笑。
だから、省く。
こうして、周りは理解できないままだから、周りから「害」まで行かなくても「変わり者」に見える。
また、これは老化に伴ってのことになるが、自分のことで精一杯で、周りのことが見えなくなる、というようなことも起きてくるだろう。
自分で省いているのではなく、無意識に省いている。
以前、「老害」はコスパの追求によってできる、とかと誰かが言っていたが、まさにそのことだと感じる。
身体が動きづらくなると省エネで、過ごそうとするのはまた自然なことだ。
話しても理解されないと分かってしまうから話さない。
必要のないものはすべて省いていくのだ。
もちろん健康のために、若さを維持するために、身体を動かそうと抗うことは多かれ少なかれやっていくのだろうが、それでも遅かれ早かれ、省エネに向かわざるを得ない。
年を重ねると意識していなくても「コスパ」に向かう。
そしてコスパの向かう着地点は、若い人からみての「老害」というところになるのだ。
「老害」とは悪いことだけではない!?
ここまで、曲者の指針を持った私が年を取るとどうなるのか?をイメージしてきた。
周りの「老害」になることもイメージしてみたのだが・・・・「老害」の中身を見ると、すべて悪いことばかりではないことがわかる。
それは、私の指針でいうと、社会の常識という固定観念から、解放されて自分の価値観に従う歩みでもあるからだ。
若い頃は、社会にがんじがらめになってそれができない。
仲間外れになるからできない。
それが、それらの役割から解放され、仲間外れになってもいい、にもなって、やっと自分自身が解放される。
それは年を取った者だけに与えられている特権のようなもの、だとも言える。
ユングはこれをホントの自分になるという意味で、「個性化」と呼んだが、このホントの自分を、私は少しでも長く味わいたいと今は思う。
この考えは、周りには理解できない変テコなことだろうか?押し付けたら「老害」認定されそうだ・・・汗笑。
もちろん、自分の価値観としているものは、それによって解放されるのではなくて、返って視野が狭くなる、という危険性は大いにあるものではある。
この逆の危険性については追記しておかないとならない。
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ここまでを振り返る。
年を取るというのは、以下の2大要素、個性化と省力化(視野の狭まり含む)が混在したものである、と構造的に捉えられるように私には見える。
そして繰り返しになるが、その中の個性化というものは、誰しもが一度は味わうべき貴重な行程である、というように私は感じられる。
省力化が人への説明を省く所まで進行すると、周りは不快に感じてしまう。
どの程度までやるのかそれぞれの価値観に従ってそれぞれが選択するのだろう。
年を取る、とは誰にも起こることだ。
ならば、年を取るということを構造的に理解しておきたい。
そして、客観的に自分の「老害」に気づいたならば、それを周りから指摘される前に自分で言い放つ・・・そういった自虐ネタだけは携えておいて、いつでも出せるようにしておきたい。笑。
そして、せめて周りから笑ってもらえるようでありたいものだ。
最後に
やりたいことだけをやるようになると、億劫なこと、面倒くさいことはやらなくなって、見るに堪えない老後生活になる。
先ほどそう書いたのだが・・・
どうやら現段階でそうはなっていないことに気づく。
努力や真面目が大切だという思いは捨て去っているはずなのにもかかわらず・・・
掃除・洗濯・料理などの家事もするし、未だにUberを頼むこともない。
それは億劫だといっても、腹は減るわけで、億劫だといっても、まだ身体を動かしたい、という別の欲があるからだ。
そして、億劫だといっても、残念ながら掃除・洗濯・料理を外注するだけのお金に余裕はない。汗。
だから、自然に、そして必然的に、億劫にも限界が出てくるということのようで・・・。
努力は追いかけないし、不真面目でいくが、最低限のことはやるようにうまいこと均衡が取れている。笑。
私の曲者の指針でいっても見るに堪えない老後生活にはならないのだ!
私の指針を取りやめにはしない!
自分の個性を見るためにすべての固定観念から解放されるというトライアルを一度はしておくべきなのだ!
そう言える自信が再び湧いてくる。
最低限のすべきことはやった上で、解放された自分が何をし始めるのか?それを興味を持って観察していきたいとあらためて思う。
いつも通り、自分の都合の良いところに着地した。汗。
UnsplashのPhilippe Leoneが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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