RYO SASAKI

バブル世代の私が向き合うべき大脳新皮質の改善とは?

タナカ シンゴ

前々回前回と記事に書いた現在の私の興味と言えば、

・古い脳と新しい脳のバランス

・人のありようへの意識進化

といったものである。

そして、少し前の興味は「幸せになるために」だった。

やはり興味があるものが集まってくるものなのだろうか、最近参加したある社長の講座が、上記キーワードと見事にシンクロして鳥肌が立った。

今回も前回に続いてこれらのキーワードを基にして、講座とのシンクロから感じられたものを書いていきたい。

講座『関係人口を哲学する』

講師は、株式会社雨風太陽の高橋博之代表。

持続的な社会のために、地方の生産者と都会の消費者を結ぶ活動や地方創生などの活動を力強く推し進めている方だ。

この「関係人口」は、今では政府も当たり前のように使うようになった言葉だ。

参考:誤解しがちな「関係人口」の意味とは?〜マーケティングの観点から見たその本質〜

代表の著書:都市と地方をかきまぜる 「食べる通信」の奇跡 を読んで初めて講座に参加してから、早3年が経った。

3年経過しても、代表のメッセージの骨子は変わらないのだが、3年の経験から伝える言葉が少し変化したように感じた。

最も印象に残った言葉は、

「生きるリアリティーの喪失」

飲み食いに困らなくなって、お金で大概のことはできるようになると、基本的に生きていくために人とのつながりが不要になる。

世の中にこれがないと困るというものが既に埋め尽くされてなくなってしまって、何かを造らねば!と急きたてられることが少なくなった現代を表現している言葉だ。

人とのつながりがなくなることを「離縁社会」などとも言う。

そして、日本は若者の自殺者も多い。

私が若い頃はまだ不足しているものが多く、食いっぱぐれるという恐怖がある時代だったから、疑いもせずに遮二無二働いたものだったが、最近の社会はその心配は薄くなってきて、端から過去の風潮はなくなっている。

問題を解決するためにワサワサと動くことは仮にその動きが的外れだったとしても、生命感(生きている実感)が得られるものなのだが、解決する問題がなくなった(あるいは自分だけでは手に負えないものだとわかった)時に喪失する。

例えば、計画がしっかり立てられていて、手法が整備されているビジネス、その業務が安定すればするほどそこで働くことで得られる生命感は薄まってしまったりもする。

この日本が、ここまでのように合理的で便利で人に煩わされることが少ない社会を作り上げてきたことは素晴らしいことではあると思う。

しかし、この恵まれた社会に産み落とされた若者は、それによってまた別の問題に晒されることになってしまったようだ。

「生きるリアリティーの喪失」

今回の講座に参加して、3年前の私の理解がどうも表面的なものだったようにも感じられた。

それは、私が生産者と消費者を結ぶという活動を有効な手法(行動)としてだけ捉えていたからだ。

今回は、この活動を手法なのではなくて生き方(ありよう)として捉えることができたので、私にズッシリと響いたのだと思う。

手法とありよう

講座には、私に手法とありようの違いを印象付ける事例が紹介されていた。

成功している和歌山の柑橘系の農家さんの話。

この農家さんは前年に購入した方の記憶が残っていて、商品を発送する際に一言メッセージを添えている。

それでファンが増えていてファンが口コミでお客さんを連れてくるという。

ん?新しくない。

どこかで聞いたことがある方法だ。

たぶん昔に〇〇マーケティングなどと名称が付けられていて、それを手法としてマネする人がたくさん現れたはずだ。

ウーン、この理解だけでは何かが欠けている気がする・・・。

お金という便利なものによって人が孤立化し、無縁社会が広がっている。

そんな現代において、この農家さんはそれとは逆の自然に人とつながろうとする思いがベースにあって、それが一言メッセージという行動につながっているんではないだろうか?そんな風に思えた。

一方で人は、手法(行動)部分だけを切り取って、金銭的な目に見える合理的な結果、それは商売のことだが、それを得ようとしているものなんだと。

ここで前回記事のことにつながった。

人とつながることは、手間暇がかかって非合理にも思えるものだ。

しかしこれは、古い脳から湧き上がる「ありよう」なのである。

一方で、一言メッセージを書く行為だけの切り取りは、「手法」に当たり、大脳新皮質を使った合理的な選択なのだと。

手法  ⇔  ありよう

計算、合理性、儲け  ⇔  湧き上がる気持、非合理

大脳新皮質  ⇔  古い脳

ありようがどうであろうが、メッセージの内容=見かけ、は何も変わらないだろうけれどこの2つはまったく異なる。

学ぶべきは、一言メッセージを書くという「手法」ではなくて、人とつながろうとする「ありよう」なのではないか?

人とつながろうとすることがベースにない中で、大脳新皮質だけを使って一言メッセージを書く行為は、たぶん苦痛でしかなくなり長続きしないだろう。

また、面倒だからと人とつながろうとは思わないのならば、大脳新皮質の考える合理性に古い脳が抑圧されている可能性があるのではないだろうか?

手法というものは直接的、物理的作用だからわかりやすく反応が出やすい。

やった気になるものだ。

これに対して「ありよう」とは外には見えづらく、外にPRもしづらく、あるんだかないんだかわからず、地味で静的なものである。

本人の中だけにあって、捉えづらいもので注目が行きづらいのだ。

手法  ⇒  直接的、外から取り入れる = 外から影響され揺らぐ。

ありよう  ⇒  間接的、自分の中にある = 揺らがない。

照れずに言おう。これは幸せの探究なのだ。

ここで高橋代表の言葉と、またつながるものがあった。

「ここまでの持続的な社会のための私の行動は、結局は現代における次の幸せを求めることなのではないだろうか?と最近思う。・・・日本という国は他国に遅れていて、幸せというものを議論することが非常に少ない国だ。」

また、こんな話もあった。

東日本大震災でボランティアに訪れた人の多くが口にした言葉に以下のようなものがあったという。

「被災地の方から元気をもらいました。」

大変な環境の中で一生懸命に生きる被災地の方を見て、都会の人間が生命感を思い出しているのだ。

都市と地方をかき混ぜる、という活動は人間の生のエネルギーを思い出して幸せになるための手法の一つなのだと。

幸せになるには?というお題に対して一般的に言われることに、

「幸せは外にあるものではなく、自分の中にある」

というものがある。

自分の考え方で幸せかどうかは変わるわけだが、このことが「ありよう」にリンクする。

この先の幸せのために自分の「ありよう」が問われてくるということなのではないか?

少し前ならば、手法が大切だ、なぜなら地球は待ってくれないからだ、と焦る自分がいたのだったが・・・。

ここで私の頭の中を覗いてみると・・・。

人とつながろうとして、相手を思ってメッセージを書く時、それを受け取った時、それぞれに感じる幸せが確かにある。

人とつながることはある種の快感であると見ることができる。

さてここで大脳新皮質が登場してくる。

この人とのつながりは形のないもので、金銭的、物理的に何も起こっていない。(ように見える)

だから、そんなことは合理的ではないと評価が下る。

もう一つ、大脳新皮質は判断する。

大人たるものは快感を得て緩んではならない。

気持ちいいなどを感じている余裕などなく粉骨砕身、努力するべきである、と。

大脳新皮質は、快感を感じて優しくなっている自分に対して戦士としのダメを突きつける。

それによって、素直な快感を感じることを何とも照れくさく感じてしまっている自分がいるのだ。

この2つの評価によって、つながろうとすることを含んだ自分のありようは、都度却下されるというカラクリになっているようだ。

しかし、こんな大脳新皮質であっても不要として捨ててしまうわけにはいかない。

幸せに生きるには、古い脳と大脳新皮質とのバランス、あるいは連携が必要だとして前回は終わっていたのだが。

ここでは、もう少し踏み込んで大脳新皮質そのものが悪いのではなく、私の大脳新皮質の質に問題があって、その改善が必要なのだと捉えてみることにしよう。

大脳新皮質は、大脳新皮質が記憶した情報だけで論理的に考えて合理的な結論を導こうとする傾向にある。

そして、その判断が正しいという誇りを持っていて、その判断に身体や心を従わせようとする傾向にある。

それが自分自信の為なのだと。

企業で言えば最も責任のあるCEO(最高経営責任者)を気取るごとく、中世で言えば苦境を救う英雄(白馬の騎士)を気取るごとく振舞う。

とすると、まず前提に置かなければならないのは、三権分立ではないが頭の中で大脳新皮質を支配者にしてはならないということだ。

古い脳を主役に添えて、大脳新皮質が脇役に回らないとならない。

このことを以前の記事で紹介した精神科医 泉谷閑示氏は、

「心を主役に頭を脇役にしないと苦しくなる」

と表現していたのだろう。

さて、では大脳新皮質の質の改善は具体的にどうしたらいいのか?

私の場合は、

好む不合理な選択をするようにシフトした方がいいだろう。

行き当たりばったりで計算なく動いてみることにシフトした方がいいだろう。

快感を抑制する合理性は大概にしないとならない。

快感を得ることをためらわないようにした方がいいだろう。

※快感には中毒性があって身体を蝕むものがあるからその快感は除いて、という意味合い。

身体や心の悲鳴、それは大脳新皮質に言わせるとわがままになるだろうか・・・その声を訊くようにするのがいいだろう。

身体や心の声を優秀な通訳である大脳新皮質に忠実な言葉で表現させるようにするのだ。

そして、暇な時には古い脳の中心部の松果体あたりに意識を戻すようにして生活する。

この場所を意識することで感情をコントロールしている人もいると聞く。

ここまでツラツラと書いてきて、私という者はこんなにまでして自分に言い聞かせないとうまくできない人なんだ、と肩を落とすものの、この捉え方にまた幸せのヒントが隠れていたんだと前を向き、またチャレンジしていくのだ。

私の進化はゆっくりと。

「これから一席どうですか?」とメールが突然入った。

全く意図しなかったのだが、以前職場が一緒だったかなり年下の人からのお誘いだった。

これから台風でピークを迎えるという大雨の日。

東京に仕事が入って、ここ数日東京に滞在していたのだという。

初めて会ったのはたぶん5年半前。

「その時は右脳キャンペーンしてましたね!」

という言葉で、自分が勝手に一人でやっていたキャンペーンのことを思い出した。

そのキャンペーンはいつも選択している判断の逆を直感で選択するような稚拙なものだった。

どう考えてもこのキャンぺーンは今回の脳バランスの改善のことではないのか?

5年経ってもやっていることが変わらないなあ、と自分を苦々しくも思いながら、ここまでいろいろな事象とつながって当時より鮮明になってきているのだから、成長と捉えてもいいだろうか、と慰めてみる。

そうしていると、今度はこんな言葉が彼から飛んできた。

「バブル後の失われた30年と言われてますが、その時代の人の大脳新皮質の出しゃばり(快感を得てはいけないと抑制してきたこと等)にその要因があると思っているんです。」

・・・

固まってしまった。

私は入社後、数年でバブル期崩壊を経験し、そこから長い社会人生活を歩んできたことを高速で振り返ってみたものの、反応ができなかった。

自分が失われた30年を生きた構成員の一人だったと言われれば否定はできまい。

彼は決して私を責めようとしたのではないのだが、私は自分に責任があるのではないか?と探してしまった。

そして、責任の所在にたどりつけないままに、そのあとで私ごときが失われた30年に影響しているのかも?などと思ったことに一人苦笑いするしかなかった。

今の若い世代は、どうやら自分の時代の課題に向き合うとともに、上の世代を別物として冷静に眺めているようだった。

何ともたくましい。

新たな課題に立ち向かう若者はまたそれぞれの幸せーそれは私の時代とはまったく異なる方法かもしれないーを探求していっているのだろう。

バブル世代の自分が今更変わったところで・・・とも思うのだが、せめて脳にはいろいろな使い方があることを認識して社会のシフトチェンジの足枷かせにならないようにしておこうと思うのだった。

この日、急なお誘いによって私の計画は狂ってしまった。(ほんの少しだが。笑)

お店が閉まってしまわないか?と焦り出して、直感を基にしてバタバタと動かざるを得なくなった。

いくつかのお店に断わられながら私は少しだけ躍動し、生命感を感じるのだった。

台風以上に若者の言葉にドキッとした素敵な夜だった。

Photo by Pieter on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

直感で興味あるものに、直感が求める快感を抑制しないという脳バランスキャンペーンを5年越しで続けていこうと思った夜でした。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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