RYO SASAKI

覚えるよりも考えて老後を生きる。

タナカ シンゴ

前回の田中新吾さんの記事

「考える」ためのチャンネルを持ちながら、老いていくのが「いい老い方」なのかもしれない。

では、考えながら老いることの大切さ、そして、その前提として「考える」とは何か?を紹介していた。

考えるとは「インプットをアウトプットに換えること」である。

そう言われれば、自分が日頃考えているものの中身はかなりボヤっとしている。

なぜそう言えるかというと、例えば記事に考えていることを書き始めると、足りないところが現れてそれを埋めようとして考えが進み、内容が詳細になり整理される、という経験があるからだ。

アウトプットのない思考だってある、という主張を否定はしないが、アウトプットなしではしっかりとまとまった考えにはなっていない、と共感する。

記事の中にあるミステリー作家の森博嗣氏の本「勉強の価値」からの引用。

老人になると、ほとんど考えないようになる。

迷わないのは、考えていないからである。

うーむ、こちらもなるほどーと思う。

特に私の家族はいつも変わらないことを考えていて、ずーっと同じ所に留まっているような印象があった。

ちょうど別のキッカケから、自分はここまで「考えて」生きてきたのだろうか?

「考える」こととは一体何なのか?などが気になっていたところだった。

そのタイミングでのこの記事は、自分なりの「考える」に対する自分なりの納得感を整理するのに大いにヒントを与えてくれた。

覚えることと考えることは真逆のこと

「考える」とは何か?を考えるキッカケになったのはNMB48というアイドルグループの渋谷凪咲さんを見たのがキッカケだった。

渋谷さんは最近バラエティー番組でも大活躍中。

特にお笑いの「大喜利」というジャンルで芸人も舌を巻くほど面白い回答をバンバン出している人気者である。

天才とまで言われたりもしている。

渋谷凪咲IPPON級の大喜利回答まとめ

大喜利は単なるお笑いの一形態であって、くだらないものだ、と思う人もいるとは思うが、自分がトライしてみるとなかなか面白いものができない難しいものだ。

そんな自分が分析するのもなんなのだが、まずは大喜利はみんなが当たり前に思える回答では絶対に笑えないものだ。

だから、まずは絶対に常識からずらさないとならない。

全然別のシーンのことをそれが起こらないシーンに引っ張ってきて新たに組み合わせるなどして、みんなのこれまでの記憶にはないものを創ることになる。

ところがみんなの記憶にないものであっても、それが想像できて、共感できて、滑稽でなければ笑えないのだ。

笑いに限らずすべてのコンテンツは、誰も考えたことのない新鮮さとそれを想像したシーンへの共感性のようなものの両方が必要のように思える。

ビックリしたのは、以前渋谷さんがインタビューで「なんでこんなにウケているのかわからない」と答えていたことだった。

さて、こんな天才はどうやってできるものだろうか?

そんな興味をもって見ていると、こんな言葉が飛び込んできた。

「私は、子供の頃から勉強もできないアホだったんですが、限られた知識の中で自分なりの答えをひねり出そうとだけはしてきました。」

私は、その時に「これだ!」とひらめいた。

自分で考えることの先に天才があるんだ、と。

これは至極当たり前に思えるかもしれない。

ここからはこれにたどりついた経緯を書いてみる。

そうだ!

覚えることと考えることは別のことなのだ。

更に言えば、覚えることと考えることは真逆のことだ。

覚えることはひとつの正解(ルール)に収れんしていく方向で、考えることは自由にすればするほど発散する方向のものだ。

※論理的に考えることでひとつの答えが導かれることもあるけれど。

「考える」ことにひとつの正解があるわけではない。

さすがに考え方の辻褄が合うことは周りから共感を得るには必要だろうが、自分の中では辻褄が合わなくても自分が納得さえすればいい。

だから、ひとつの正解を「覚える」ことと何でもありの「考える」こと、は真逆なのだ。

渋谷さんは覚えることよりも、考えることをしていたのではないだろうか。

だから自由に考えて全くあり得ないものを組み合わせる力が強い。

自身のことも、たまたまもてはやされているのだと認識し、そんな自分がリスペクトするプロの芸人さんの中でどう立ち振る舞うべきか?などのポジショニングを明確に持っているし、品だけはなくさないでいこう、という自分ルールを持つなどもして、セルフプロデュースもしている。

この考える力によって若くしていろいろなものが明確になっているのだろうと想像する。

他の天才を思い浮かべてみると、とにかく世の中の天才には、疑問出しがすごい人が多い。

エジソンはわからないことがあると、すぐに質問する子供だったという。

最近読んだ「独立国家の作り方」の著者坂口恭平氏の子供の頃からの疑問のひとつに、

「なぜ、人間だけがお金がないと生き延びられないのか?それは本当か?」

というものがある。

このような疑問が坂口氏の創作活動の根底にあるという。

疑問から始まって考え出すのだ。

疑問出しは考えることのキッカケ(入口)である。

やはり、天才は自分で考えるのだ。

坂口氏は若者にこんなものもメッセージしている。

「自分のやりたいことなんてどうでもいい。

大事なことは何かに疑問をもったかということだ。

それがあれば生き延びられる。

創造とは疑問を問いにすることだ。」

※疑問は漠然としたもの、問いはより具体的なイメージで使われている。

成績が良かった自分は偏っている

これらを踏まえて、自分の子供の頃を振り返ってみると、私の子供の頃にも疑問をもったことはある。

例えば、

人はなぜ生まれてくるのか?

死んでしまってからどうなるのか?

この疑問に対して、当時も誰も答えを教えてはくれなかった。

「そんなバカはこと考えてないで勉強しなさい!」

と親に言われた。

テストにこのような問題は出ないから、考えるのはやめた。

そんな点数にならないことに時間を割くなんてことは、バカのすることで、やってはいけないことだ、と長い間思い込んでいた。

このようにしてテストに出ること以外のすべてに対して、疑問をもつことを抑制して生きてきたように思う。

疑問が出ないのだから「考える」に発展するわけもなかった。

この抑制のおかげで、私の子供の頃は成績が非常に良かった。

このことは今となっては自慢ではなく、自嘲である。

優秀な人というのは、テスト以外の「考える」も育み、「覚える」もできる人なのだろう。

それに比べて私は「覚える」でいっぱいいっぱいだった。

今思えば、例えば歴史の年号や人物の名前は、記憶するだけの記号に過ぎないわけで、そこに「考える」が不要である。

なぜ武将がそんな判断をしたんだろうか?という疑問が生じれば考えることにつながり、そこには向かって行きたいのはヤマヤマだったのだがそんなことに時間を割いてはならなかった。

そうは決めたものの、私はこの考えないで記憶するということが、だんだん苦痛になっていった。

だから、論理的に考える算数だけが愉しかったのだ。

それでも我慢強かったから、私はこの苦痛なこと、それは不自然なことをダメージと引き換えにしてやり続けてこれたわけだ。

ちなみに、この考えることなしに覚えた内容は、今はほとんど覚えていない。

社会のしくみが悪いんだ!

社会では、覚えること、考えること、この真逆な二つを一色単にして勉強あるいは学習と括ってしまっているんだよ。

学校のカリキュラムが、覚えること偏重で考えることを抑制するように出来上がっているんだ。

「考えること」は、できた、できないの評価を穴埋めテストではできづらいから、どうせカリキュラムに入らないんだろうな。

私ならば、自分の疑問を書き出すテストや、ある疑問に対して自分なりの考え(答えがなくてもいい)を書かせる、といった新テストを導入するよ。

でもこんな新テストなんてのは、答えがなくてスッキリしないから体裁上学校は避けたいんだろうなあ。

結局、教育というものは目の前の役割以外のことに疑問を持たずに従順で優秀なものを選抜して、ロボットのように組織で働かせるためのしくみでしかないんだよ。

云々

あらら、私は今になって急に闇深く恨み節を吐き出し始めた。

自分の能力不足を社会のせいに転化して・・・。

汗。

これまでの真逆を目指す!

さて、今更泣き言で終わるわけにはいくまい。

ここからは前へ向いて進まねばなるまい。

学校に限らず、世の中というものは覚えることが求められ、人並みに覚えないと周りからかなり風当たりが厳しくなるものだ。

だから、よく言えば従順、悪く言えば根性なしの私のようなものは覚えるという安全な方に傾きやすいという面も持ち合わせている。

その反動で私は今、大変遅ればせながら、やっと自分で考えるという風当たりの強い方へ動き始めたのだ。

こんなことが当たり前の人は、このような大げさな宣言に滑稽さすら感じるだろう。

それでも私という者は宣言を止めるわけにはいかない。

更に続ける。

覚えることは迷惑にならないように社会ルールに従うために必要なだけだ。

それ以外は覚えることは考えるためだけに必要なのであって、疑問をもって考え始めればそれに関連することを覚えるなんてことは自然だから容易いことなのだ。

若い頃にしてこなかった、自分が考えたいことを考えたいだけ考える、という自然なこと、これが人生の幸せの大切な一面だ。

私は、こうしてこれまで良かれと思って覚えた知識、正解、模倣、画一、安定、結果などというものを考えることでもって否定して真逆に進み、自分の偏重を粉砕することを心に決めるのだ。

〇考えることは間違うこと。

→知識・正解から距離をおくべきである

間違っていいのだ

〇考えることは創造すること。

→模倣から距離をおくべきである

〇考えることは個性的になること。

→画一的から距離をおくべきである

〇考えることとは不安定になること。

→安定から距離をおくべきである。

常に迷ってていい。

並べるとずいぶん偏って生きてきたように見える。

つまづきながらも個性的で創造的で不安定な自分らしい生き方に傾きを戻そう。

老後の生き方を考える

歳をとることについて、一般的に言われるいくつかのこと。

・歳をとることでいろいろなことが億劫になる。

・体力が低下することによりだんだん安定志向になっていく。

・安定を求めると考えなくなる。 by 森博嗣氏

これらの知識を前に私はまた考える。

でも、この理由を身体の老化によるものだ、としてしまっていいのだろうか?

考えがどこかに固定してしまっていることにあるのではないだろうか?

自分は、歳を重ねたということはあらゆる経験をしているから、自分が人生の正解を持っている、あるいは、持っていなければならない、という勘違いをしているのではないだろうか?

自分の固定化した正解ではうまくいかないシーンに出会うと、この勘違いによって自尊心がさいなまれたままなのではないだろうか?

覚えた正解が覆されるし、自分の正直な声に従うならばいつまでも疑問が生まれる、というのが私のここまでの経験から感じてきているはずなのに。

一生は有限期間だから、その区切りまでに出来上がらなければならない、という観念が頭のどこかに出来上がっているのではないだろうか?

正解がないんだから、出来上がるなんてことはない、と言い聞かせる。

この固定化した考えを振り払わないといけない。

経験者だからといって、未経験者に何でも教えられる正解を持っているわけでもない。

歳を重ねたからといって、若者よりすべて分別があるわけでもない。

いくつになっても間違えることを恐れてはいけない。

間違えたことを間違えてないことにするというような、ごまかしをしてはいけない。

間違いと仲良く生活するんだ。

正解や分別を伝えるために、考えるのではない。

出来上がるために、考えるのでもない。

考え続けるプロセスが人生の目的なのである。

ここまでのように常識を外れてツラツラと考えることこそが私そのもので、まさにこのようなことが老後の生き方なのだと今は思っている。

昔の常識的なおじいちゃん像→縁側でお茶を飲んでいるといった・・・これを押し付けられてはならない。

私は、渋谷凪咲さんのようなアイドルを追いかけるような、周りからは扱いづらくて厄介なおじいちゃんになるのかもしれない。汗。

Photo by Юлія Вівчарик on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

この考え方はその先に変わっているかもしれません。

いや、変わっていくんでしょう。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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