RYO SASAKI

コミュ障もあがり症も人見知りも当然!?コミュニケーションとはまことに難しいものだ。

タナカ シンゴ

新しい学校のリーダーズというダンスボーカルユニットが今年大ブレイクした。

「首振りダンス」が流行語大賞のトップ10にもランキングした。

海外人気もすごいらしくて、来年は単独武道館ライブも決定したらしい。

そんな彼女らの海外ライブのMCに、目が留まるシーンがあった。

自らを『青春日本代表』と呼んでる彼女らの観客との掛け合いでのこと。

リーダーズ:「Do You Know Seisyun? ドゥユーノーセイシュン?」

海外の観客:(ファンは良く知っていて)「Youth!ユース!」

リーダーズ:「Seisyun mean “enjoy every moment be yourself”」

(青春とは、「一瞬一瞬を自分らしく愉しむ」という意味としています!)

※青春日本代表を自称しているのには、青春とは学生だけのものでもなくて、いくつになっても青春していこう、というメッセージがある。

このやりとりが妙に興味深くて辞書を引いてみたところ、”青春”の英訳は確かに”Youth”なのだが、その逆の”Youth”の和訳は、”若者”になるのだ。

どうやら、”青春”にピッタリする言葉が英語にないために、近い言葉の”Youth”(若者)に当てはめることに誰かが決めたということらしい。

ということで、英訳してしまうと”青春”から想起する若者以外の希望に満ちたような、異性にドキドキするような、無知で危ういような、ニュアンスが欠落してしまうように感じる。

日本人どうしでもそもそも”青春”から想起されるものが異なるだろうし、彼女らのように超訳?をすると更に理解が難しくなる面がある。

この青春から思い浮かんだのが、”悲願”という言葉だ。

”悲願”の英訳は”Earnest Wish”になり、”Earnest Wish”の和訳は”真剣な願い”となる。

こちらも、英語になった瞬間に、”悲願”の”悲”の悲壮感が欠落してしまうように感じるのだ。

英語のアルファベット26文字と違って、漢字という象形文字はひとつひとつに意味を持つから、それも加わった意味合いが非常に複雑で、それが日本人の繊細さであり、感覚の豊かさなのだろう。

このような例は他にもたくさんあるんだと思う。

そんな言葉を使える日本人を誇らしく思い、「だから外国人はどこか単純で、思慮不足でどこか怖いんだ。」などとついつい言ってしまいたくなるのだが・・・。

そもそも「悲願」って・・・何だよ!?

と今度は日本語の方に引っ掛かってしまった。

「悲願」が日本に重荷を背負わせている!?

最近のニュースで「悲願の優勝」「悲願の金メダル」という言葉がやたらと目につくようになった。

確かに、苦しみや悲しみなしで成し遂げられることなんて少ないとは思うものの、願いに必ず悲壮感がセットされているところに気持ち悪さを感じてしまったのだ。

優勝できるような、あるいは、金メダルを獲得できるような才能溢れる人が、どこまで悲しんだというのか?

それを知らずに想像で「悲願」だと外野が決めていいものだろうか?

少なくとも私なんかが努力して苦しんで悲しんだほど、才能がある彼らは苦しまないし、悲しまないはずではないか・・・。

いや、私の場合その前に努力をやめてしまうだろうから悲しみは彼らより少ない。

同時に悲願の達成もないか。汗。

ともかく、人は目的達成のために必ず悲しまないとならないのだろうか?

この言葉によって、どうも日本全体が悲壮感に覆われてしまっている感じがする。

そんなに悲壮感を押し付けられるくらいならば、むしろ英語でいうところの「真剣な願い」の方がカラッとしてていいではないか?

誇らしい日本語の繊細さ、感覚の豊かさが、今度は何とも重荷になるように感じられるのだ。

言葉は難しい

日本語は他の言語と比較して、学ぶのがかなり難しいとされている。

その難しさの理由のひとつに、このような繊細さがあるのだろう。

言葉の難しさ、言葉を使ったコミュニケーションの難しさで言えば、言語自体の難しさ以外にもまだいろいろある。

その難しさを、3つ(似通っているようだが)に分けて挙げてみる。

①言葉には建前がある。(本音は言わない。)

②言葉には逆の意味が含まれる。

③言葉には奥に本音が隠れている。

①言葉には建前がある。(本音は言わない。)

これは言わずと知れたことで、人は必ずしも本当のことを言わない。

だから、すれ違いがよく起きたりする。

人は言葉が建前であることを察する必要があるかもしれないし、あるいは知らぬが仏でいいものなのかもしれない。

②言葉には逆の意味が含まれる。

何度か書いたことがあるが、物事には光と影がある。

「決断力がある」は見方を変えると「軽率」にもなる。

「ユーモアのセンスがある」は、「不真面目」にも見える。

「おおらか」は、「無神経」にも見える。

「真面目」は、「カタブツ」にも見える。

「自分の考えを持っている」は、「わがまま」にも見える。

何をもって、光に見えたり影に見えたりするのだろうか?

何がキッカケで光が影に変わってしまうんだろうか?

何とも難しい。

どうせ、ある決断も結果がうまくいけば「決断力がある」と称賛されて、結果が良くなければ「軽率」だと蔑まれるだけなのだ。

結局はすべての場面において万能でないと一瞬にして影として批判の的になるのだろう。

そう考えると私には、到底できない恐ろしいほどの難易度だと言わざるをえない。
ちなみに、これらの例の引用元:われ笑う、ゆえにわれあり によると、ハンサムだと良く(光に)見えて、ブサイクだと悪く(影に)見えるのだと紹介している。笑。

ハンサムでないから、私の評価はあっという間に影の方になったんだろう、きっと・・・。

でもたとえハンサムだったとしても、恋愛期間なるものを超えてしまうとあっさりと影が顔を出すのが一般相場のような気もする。

③言葉には奥に本音が隠れている。

例えば、パートナーを評価する時に使う言葉について。

「誠実な」に隠れている意味を具体的にすると「嘘もつかず、浮気もしない」になる。

「気前がよい」に隠れているのは「自分のためにお金を使ってくれる」となる。

「細かいことにこだわらない」に隠れているのは「どんなひどいことをしても気づかない」となる。

引用元:われ笑う、ゆえにわれあり

こうして、パートナーに対する誉め言葉に隠れている本音を目の当たりにすると、少し恐ろしく感じるのは私だけなのだろうか?

自分だって似たようなことを相手に対して考えているはずなのに、バートナーの本音だけは恐ろしい、とは何とも都合のいい話だ。汗。

ちなみに、この①②③を融合させたような高度なものが京都の言葉になるのだろうか?

「ぼっちゃん、ピアノ、上手(うま)なりましたなあ。」は、

「ピアノの音、うるさいんでなんとかしてください。」

という意味なんだとか・・・。

言葉は何とも難しい。

話題のAIはこの言葉の難しさをどう処理するのか、興味津々だ。

コミュニケーションは難しい

こんなことを考えていたから、イップスのように会話がぎこちなくなってしまったんだろう。

バーで隣席と話すことになった時のこと。

その人は、オペラが好きで本場ヨーロッパにオペラ鑑賞に行くついでにワイン醸造所も巡ってくるのだとか。

それを聞いた時に、誠実である私は嘘をつかないから、隠れている本音をできるだけさらけ出しつつも円滑にコミュニケーションをしようといつになく考え始めたのだ。

考えたため、変な間があったと思う。

その結果出た言葉が、「すごいですねえ。」というものだった。

自分は正直、オペラにそんなに興味があるわけでもない。

オペラのどんなところがいいんだろうか?(嫌味にも聞こえる純粋さでもって)、海外旅行は金がかかるだろうなあ、贅沢だなあ、何をしている人なんだろう?

などが一瞬にして頭を巡ったのだが、初対面の人に誠実な私がそれらの失礼なことを急に話すわけにはいかない。

いつもならば、何も考えずに思いついたことを言ってしまったのかもしれないのだが。

その時は漠然とした「すごい」を返すしかできず、その先に会話は弾まなかった。

それが誠実なのか?と言う勿れ、私は嘘はついていない。

頭に浮かんだいくつかの中で、「すごい」だけを切り抜いて伝えたのだから、誠実なのだ。

ん?

何だろうか?この狼狽ぶり、自分が誠実であるとした時のこのぎこちなさは・・・。

最近ニュースや発言の悪意ある切り取りがひどい、と言われているが、自分だってしていることは一緒ではないか。

切り取り方が、悪意に満ちたものになってはいまいか?

更に気になることが続く。

これまで私も周りから「すごい(です)ねえ!」というような言葉を幾度もいただいてきたことを思い出したのだ。

私は、それを聴いてなんとなくいい気分になって生きてきたように思うのだが、あれも周りの人が、他に言葉がなくて苦渋の末の選択だった可能性がある。

自分がそうしてるんだから、周りだってそうに決まっている。

いろいろ浮かんだうちの無難なものを切り取って、それを私が真に受けるという一種の勘違いによって私は生かされてきたのかもしれない。

自分は誠実な人間なのか?

人と人のコミュニケーションの手段は概ね言葉によるものである。

その主たる手段が、ここまで難しいものなのだ。

あらためてそう感じる。

特に現代は価値観が多様に分かれてきているので、更にその難しさに拍車がかかっていることだろう。

最近は、コミュ障(コミュニケーション障害)という言葉が取り沙汰されているが、これだけ難しければ当然のことだと思える。

人見知りもあがり症も同類で当然のように思う。

他人がどんな人なのか自分は全くわからない上に、コミュニケーションというものが本音の切り取り合いであり、本音の隠し合いでもある。

また、コミュニケーションとはどこかそうあるべきと決めた表面的なルールに乗っ取ったお互いの演技による予定調和である、とも言えなくはない。

そして、相手を一切不快にさせないで進めようなどと無理なことをしようとすると、更に難しく私のような者は簡単にコミュ障に陥ってしまうのだろう。

隠れている本音に鈍感になったり、隠れている本音を無視できたりしないと、とてもやっていけるものではないように思えてくるのだ。

私が人見知りであがり症だった若かりし頃と今を比較して、コミュニケーションが上手くなったとするならば、人の気持ちの細かいところを無視できるようにまで、図々しくなったことの賜物なのだろう。

※世の中にはいろんなコミュニケーションがあるので、本来はここでいう上手なコミュニケーションというものを定義しなければならないのだろうが、それがなされてないまま進めさせていただきます。

その図々しさが、自分は誠実だ、などと言うまでに自分を成長させてしまったのだ。

ある物事に対して、光(いい面)も影(悪い面)も思い浮かぶ人間が、誠実だと言えるだろうか?

光と影が思い浮かんだとしても光(いい面)を切り取って正直に伝えるのだから、それは誠実だろう!?

イヤ、ホントの誠実さとは、思い浮かんだならば、光(いい面)だけでなくて、影(悪い面)も伝えることなんじゃないのか?

・・・。

埒が明きそうもないので、ひとつわかった残念なことをまとめると、自分というものはどうやら誠実な人間ではなくて(←今さらそんなことを言い出す)、むしろ図々しい人間であるということだ。

何とも悲しい結論になってしまった。

でも、最後に何とか、自分を取り繕って終わろうと思う。

この難しいコミュニケーションを上手く進めるには、ある程度の不誠実さとある程度の鈍感さと、ある程度の図々しさが必要だということだ。

そして、私という者は本来は誠実で敏感でしおらしかったのだが、ダメージを受けずに、コミュニケーションを上手くやるために、不誠実と鈍感さと図々しさを成長させてきた真面目な人間なのである。

あら?取り繕えば取り繕うほど、余計に散々な結果になってしまったようだ。

今回はこれ以上は望めないようなので、これで一旦退散することにする。

UnsplashClay Banksが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

コミュニケーションするということは、人が生きる上で不可欠な幸せのひとつなのだと思います。

だから、その難しさに一旦は退散しましたが、また向き合っていきたいと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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