RYO SASAKI

我に返るくらいに没頭する時間を創ることで社会的役割から逃れ、冴える!

タナカ シンゴ

久しぶりにある演奏会に参加させてもらった。

およそ1年前にこのアーティストの演奏会に参加させてもらったことを思い出しながら、現地に向かう。

ちょうどその頃は、「客観視したら負け!」という言葉が妙に気に入っている時期で、客観視することなしに如何にして音楽に没頭できるか?を試したりしていたものだ。

今回は、どこまで没頭できるだろうか?

1年経って自分に変化はあるだろうか?

そんなことを向かう道すがら考えていた。

今回はこの約1年ぶりの演奏会で感じたことを書いてみたい。

没頭するために戦う

演奏会の場所は想像していたよりも狭い空間で、そこにグランドピアノが置かれている。 

その部屋の半分を埋めてしまっているんではないか?と思われるほど大きいピアノだ。

客席とグランドピアノがこんなに近い演奏会は、初めてのこと。

でも私は、後から入ってきたグループによって、徐々に端のほうに席が追いやられて、最後に遅れてきた男性によって、ピアノの鍵盤から最も離れた側板と部屋の窓の隙間のような一番端の席に追いやられることになった。

演奏がスタートした時、私はどこかイライラしていて(たぶん出ている脳波はβ波)落ち着きのない状態でこのままでは長くジッと座ってられないのではないか?

そう感じて、一度トイレに逃げ込もうかと思ったくらいだった。

たぶん、最近いろいろ新しいことが始まって環境が変わったことで、私のストレスが高まっている違いない・・・

それでも何とか踏みとどまっていると、演奏がスタートする。

そして何とか最初の曲が終了。

その頃には、私の脳波が明らかにα波に変わったことが感じられる。

私は完全にリラックス状態になった。

その1曲の間中、結構長く感じられたのたが、演奏に没頭するための戦いがあって・・・

イライラはどこまでつづくのだろうか?

自分の姿勢、周りから見てだらしなくないか?

うなだれている首は大丈夫だろうか?

他の観客の咳払いが気になる

空調の音が急に大きくなった

どうも腰が痛い・・・

これら演奏以外の客観視のようなものを無視する鍛錬がまだまだ私には必要で、周りに引きずり込まれないようにピアノの旋律に引き戻す試みが繰り返し行われる。

そうするとだんだん音だけに集中できるようになり、瞼は重く半眼に、身体と周りとの区別はつかなくなる。

そして周りの拍手で曲が終わったことに気づく。

ボーっとしていて、拍手することもままならない状態までになってしまった。

社会的行動を繰り返す犬

子供の頃、食事ができたことを告げる母親の声に気づかすに遊びに夢中になっていたことはよくあった。

何回か呼ばれた後に我に返ってやっと気づく。

反応がない息子に母親はいつもイライラしていたものだ。

我に返らないとならないくらいの没頭。

そんな経験はいつ以来だろうか・・・

前回の演奏会でもそこまでには至らなかった。

今回は初めの自分の状態からは想像できないくらいに深く入ることができた。

我に返らないとならないくらいの没頭は、親の投げかけに応えること、演奏に応える拍手をも排除してしまうものなのだ。

この演奏への没頭度合を一度体感してしまうと、これまでの音楽の味わい方は、ながら的で表面的なものだったのではないか?

随分もったいないことをした・・・・

そんなことを感じる。

もちろん、同じ音楽でも味わい方があるのだろうけれど・・・。

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思うに、親の投げかけに応えることも、拍手をすることも、社会的な行動だ。

人は子供の頃から社会的な行動をとことん学ぶ。

そうして、社会から嫌われないように、周りを無下にしないようにと、チャンと対応することを覚える。

社会は、このような社会的な行動ができる人になることをずーっと求める。

ゆえに人生は、社会的な行動をずっと強要される面倒なものであるとも言える。

新たな情報に対して何らか反応して、対応を考える、質問されたらそれに対して正確にしっかり回答する、周りに気を使いできることはサポートする・・・

当たり前と言えば当たり前のことだ。

これらのことは、人からケチをつけられない大人になるために必要なことで、それを疑うことなどなくここまでやってきたわけなのだが・・・。

こうしてみると、これまで私はどれほどまで社会的な行動に縛られてきたんだろうか?という疑問が浮かんでくる。

社会人になってからは、思考が停止して隙間ができればその隙間を無駄と認定してすぐ様、課題の解決策を作るべく空間を埋める、いわゆるコスパを高め続けるというスキルがこれに加えられた。

そうしていくうちに、物事に隙間なく素早く反応し続けるという癖がつく。

それはただただ条件反射をしているだけのようにも思える・・・。

よく言えば仕事ができて評価されることになるのだろうが、逆から見ると社会的行動を繰り返すパプロフの犬のようにも見えてくるのだ。汗笑。

社会的な行動から逃れると冴える

いつも運転中の車の中ではトーク中心のラジオを聞いている私が、最近は疲れてそれも聞きたくないという時があって、そんな時は今回のアーティストのCDに切り替える。

ラジオのトーク内容に対して、いろいろな思いがもたげてきていちいち何らかの反応をしてしまうことに疲れてしまうようで・・・。

それはパプロフの犬のように自動的に発動する社会的な行動をする、という喧騒から逃れるような感覚だ。

ここで、また気づく。

素早い社会的な行動は、評価に値する一方でこれまた万能というわけではないのだと。

私は、社会的な行動という喧騒に常に引きずり込まれている存在でもあるということのようなのだ。

一方で、社会的な行動ができないくらいの一旦我に返るほどの没頭は、思考の喧騒癖を逃れるすべである。

あらためてそう感じるのだ。

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今回の演奏はヒーリング要素もあったようで、それは素晴らしく、ピアノの旋律、不協和音、そして人の声に、終始身体が揺さぶられた。

そのすべての波動に共鳴して身体が調整されるかのようでとても気持ちが良いものでもあった。

半分瞑想状態だったのかもしれない。

いつも寝付きは悪くない私ではあるが、演奏会後の夜はいつもに増してあっという間に眠りについて、グッスリ眠れ、翌日も気持ち良さがずっと継続しているようだった。

仕事は進むは、文章がスラスラ書けるは、カラオケで歌えばいつもより難なく音程が取れて、いつになく周りから上手いと言ってもらえるは・・・・自分が聡明に感じられて、頭の冴えた状態が続く。

その冴え渡った感覚は、恐怖に遭遇することで冴えたものでも、カフェイン入りスタミナ飲料の興奮によって冴えたものでもなくて、どこかボーっとしていて慌てることが全くないにもかかわらず、周りの動きが手に取るように感じられている状態とでも言ったらよいのか・・・。

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社会的な行動を少しでも止める時間を創ること。

それは我に返るような没頭をする時間を創ることと言ってもいい。

そんな時間を創ると、喧騒から逃れられる、それはデジタルデトックスにもなって、更には気持ちいい、眠れる、冴える、の良いところだらけのよう・・・。

今回は、そのことを自ら体感することができたように思う。

人生は、たくさん社会的な役割をすればそれで満足、とは絶対にならない。

人生には、周りに対して無意識にやっている反応に要らないものがたくさんある。

たくさんの処理をするために時間を埋め続けるだけの人生は虚しい。

今はこうした理解が、酷使してきた私の身体に何とも心地がいいのだ。汗笑。

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余談だが、演奏会に遅れてきた男性は、部屋のグランドピアノを納品した某大手楽器メーカーの支店長だと後から知った。

その支店長の話によると、私が追いやられたピアノの側板の位置(演奏者と向かい合わせの位置)が、ピアノの音色を聴くには一番いい場所なんだとか・・・。

どうやらここでも私はついているようだ。笑。

この位置取りのこともしかり、この演奏会は今回のような没頭する意義のことを私に気づかせてくれるためのものだったのだ!

今そう感じている。

UnsplashQiu MinFengが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

こんなことをことさら取り上げなくても、没頭できることを仕事にしたり、没頭できる趣味があったりする人はたくさんいるのでしょう。

私も遅ればせながら、そちらの方向にシフトしていきたいとあらためて思いました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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