RYO SASAKI

私の知識はすべて「切り抜き」でできている。この認識に立った時に「悟り」の入口が見えてくる!?

田中 新吾

今年の年始は、久々に推理ドラマを観た。

推理小説をドラマ化したもので、連続殺人の犯人が最後まで伏せられている、いわゆる王道のものだ。

学生の頃、読書が嫌いだった私が唯一夢中になったのがこの手の推理小説で、その中でもっとも好んだ作家がアガサ・クリスティだった。

私では、全く想像できないような犯人、そしてその犯行トリック。

これを推理しながら読み進める時のゾクゾクした感覚、最後に種明かしされることへのワクワクした感覚、実際に種明かしされた時のドキドキした感覚、これらすべてに魅了されたのだ。

今回観た推理ドラマは、その原作が以前から「映像化が不可能」と言われたものらしく、このキャッチコピーが観ようと思う決め手になった。

「映像化が不可能」

推理小説は、トリックを見破られないようにするのに、読者が文字情報をどう受け取るか、や、読者が無意識に前提としてしまう思い込み、を利用している。

小説の文字情報に比べて、映像は客観的だから読者に思い込ませることをしづらい。

これが「映像化が不可能」と言われる理由だ。

この推理小説は、それが特に顕著なのだ。

なるほど、推理小説は読者に何を伝えて何を伝えないのか、情報を切り抜いて一部分だけを見せることによって、読者に思い込みをさせる最たるものだ。

この情報操作の妙が勘違いさせる、そこに意外性が産み出されて、小説が魅力的になるというわけだ。

今回は、この推理小説の常套手段である「情報の切り抜き」から派生して感じたことをツラツラと書いてみることにする。

「悟り」とは何か?

最近のあるSNSの投稿に妙に引っかかりを覚えた。

「些細なこと、当たり前にあること、これらに感謝する」

この投稿は、幸せに生きるために必要なこととして、感謝なしに欲を追いかけるのはよろしくない、欲をなくそう、というようなニュアンスのものだ。

私はこの投稿に、仏教でいう「悟り」というもの、仏陀が最後に悟りを開いて山に籠ったということを連想したのだが・・・

引っかかりの正体を追ってみると・・・

何事にも感謝して日々を生きるということは、どんなに環境が悪くなっても問題を感じない、というある種の不感症を作り出してしまうのではないか?

こんな疑問が生じたことによるものだ。

仮に、政治家が自らの金儲けのために悪政を行ったとして、何でも感謝するようになったら、そういう不正を無視したり、無抵抗になってしまうのではないか?

もしそうなるならば、そんな従順な国民ほど政治家にとって扱いやすいものはない。

国民が何にでも感謝するようになると、悪政は野放しになり、環境は悪化するばかり。

そんな中での国民の幸せは幻想に過ぎないはずだ。

私のこのような引っかかりは、今に始まったことではない。

SNSの投稿で、この引っかかりを思い出したのだった。

もし仏教の教えが、こんなようなことならば、仏教は何のためにあるのだろうか?

最初から、民衆を従順にするためにあったのではないだろうか?

そんな性格の悪い考えが湧いてくる。

それで、仏教でいう悟り(覚り)とは何か?

今一度調べてみることにした。

悟りとは、世界と自己の成り立ちをありのままに見抜き、その結果として、苦を生み続ける生き方から自由になること。

苦(不安・貧困・抑圧・不正)の原因(欲、無知、構造)を見抜いて、苦を減らすための実践をすること。

悟るとは、当たり前にある小さな幸せに目線を移すことで苦を無視することでも、諦めて山に籠ることでもない。

確かに、苦の原因となっているもののひとつが、社会にあって悪政によるものだとするならば、そこと遮断してしまえば苦はなくなるように思えるのだが、それでは苦の本当の原因に向き合っていない。

そして、悟りとは頭の理解のことだと薄っすら思っていたが、そうではなくて体験的理解のことで、悟り→実践、実践→悟りがセットであってはじめて実現するものなのだ。

苦を減らすための原因を正しく捉えたら、その原因を取り除く実践までがセットということになる。

ちなみに、晩年仏陀が山に籠った、というのはどうやらガセらしくて、45年かけて歩き回り説法して回ったというのがホントらしい。

仏陀においては、説法が実践ということになるのだろう。

私はこんなように、悟りというものをずいぶん誤解して捉えていたようで・・・。

このような誤解をするのは日本人に多いという。

それは、仏教が山で修行するものだから修行時と晩年がゴッチャになってしまったこと、そして聖人は俗世を離れる、といった儒教感に引っ張られてしまったこと、などによるものらしいのだが・・・。

自分の認知しているもの(知識)なんてものは、怪しいものだ、とあらためて感じた。

私の知識はすべて「切り抜き」でできている

今思うと、私の認知の怪しさは当然と言えば当然で、なぜならば、私は仏教というものを深く学んでこなかったから。

深く学ばない限り、認知とは一部の切り抜き情報でしかない。

根性が足りないから、深く学ばない。

そのくせ、その一部の情報からでも理解したことにする、しかも情報を自分のわかりやすいようにどこか歪めて理解したりもする。

これが私というもので、これが「すべてが切り抜きでできている」の、私という学ぶ側の要因である。

でも、これは学ぶ側の要因だけでもない。

時間という物理的な制約がある。

すべてのことについて時間を割いて深く学ぶことができないのだから、切り抜き段階(一部の情報)で理解したことにしないとならない。

更には、情報を提供する側の原因もある。

少なくとも義務教育程度の範囲は簡易になっていて割愛がされているのだから、すべて「切り抜き」と言っていいのだろう。

まずは、学び元が切り抜きである。

そして、原典から学ばない場合、情報リソースは第3者の切り抜きによる2次情報、3次情報になる。

第3者の切り抜きが本質から外れたものだとしたら、2次情報、3次情報からの認知がまた、本質から外れたものになる。

効率性という名のもとに、切り抜きが単純化されればされるだけ、本質から外れる可能性が高い。

更には、切り抜きには第3者の意図が含まれる。

情報は、意識的にも無意識にも第3者が仕向けたい方向に歪められるものなのだ。

これが歴史が歪められる過程ということになる。

これらの事情が重なって、私はある程度の時間で理解したことにしてごまかして前に進んできた。

そのような歩みが私が仏教を誤解してきた背景なのだ。

仏教に限らず、すべての認知が意図的な、あるいは偶然の「切り取り」によってできているということだ。

最近は、SNSの投稿にフェイクのものが散見される、と言われたり、意図的な切り抜きがある、と言われるようになった。

しかし、こうして見てくるとこれは今に始まったことではないことが見える。

いつの時代も切り抜きは当たり前に行われていることで、社会がそうならざるを得ない構造をもっているからなのだ。

情報量、情報尺に限りがあるのだから、大手メディアも同様。

ならば、私の知識なんてものはどこをとっても切り抜きの寄せ集めに過ぎない。汗笑。

さて、このことを知って社会を眺めてみると、SNS、メディア、何を使うにしろ、人と人はお互いの「切り抜き」の知識でもってやりとりしようとしているのだから、お互いを理解するのに相当な苦労が要ることは請け合いである。

そして、社会はかなり危ういゲームをやっていることがわかる。笑。

構造的に捉えることでまたよく理解できて、自分の根性のなさを薄めることができる、汗笑。

この認識になった時に見えるもの

さて、この「すべての知識が切り抜きである」ということがわかった時、それが役立てられるものとは何だろうか?

自分自身については、謙虚になることだろう。

月並みだが。

他人に対してはどうだろうか?

寛容になることだろう。

これまた月並みだが。

更に加えるとするならば、自分の知識をどこまでも疑い続けた方がいいということ。

それだけ自分は「切り抜き」の外のことを知らずに、それゆえに苦しんでいることがあるはず、そう認識することだ。

今回の私のように、仏教を誤解していたことで仏教に不信となり、他の仏教の教えを享受することなく人生を終えたかもしれない、といったようなことがまだまだたくさんある、ということだ。

自分を疑い続けるということは、ダメな自分をいつまでも自分に刷り込み続けるような苦行をしろ!というのではなくて、自分の根性から社会構造にその責任を転嫁した上で、前向きで楽しい発見をしていこう、という思いである。

「切り抜き」されたもの以外の見えてない情報を探求し、発見する。

「切り抜き」されたもの以外の見えてない情報を類推し、補間する。

そして切り抜く人の意図を感じて、社会構造を理解する。

こんなところに至る。

そして、これをまた眺めると、これがまさに仏教の「悟り」の入口になる、とつながる。

悟りとは、世界と自己の成り立ちをありのままに見抜き、その結果として、苦を生み続ける生き方から自由になること。

苦(不安・貧困・抑圧・不正)の原因(欲、無知、構造)を見抜いて、苦を減らすための実践をすること。

無知=「切り抜き」の外側、を見抜くこと、欲・構造=「切り抜き」をする人の意図、それによって出来上がっている仕組みを見抜くこと。

まずは、見抜いて正確に捉えることが、悟りの入口になる。

自分の知識がすべて「切り抜き」でできているという今回の新発見は、苦を減らすという悟りの実践につながっていくのだ。

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そして、社会の「切り抜き」以外を見抜いていくということは、切り抜きが散りばめられている推理小説を読むこととやっていることは同じではないか!

ならば・・・推理小説を読む時の見えてない未知なものを求める時のゾクゾクした感覚、それを発見しようとする時のワクワクした感覚、発見した時のドキドキした感覚。

これらを社会に向き合う時も感じて、楽しんでいけばいいのだ!

社会というもの、人間というものが、良いも悪いもこのような構造でできているのだから・・・。

ここにもつながった。

UnsplashOmkar Jadhavが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

あけましておめでとうございます。

悟りへの勘違いを解いたことで、悟りへの不信がなくなって悟りに対してやっと少し共感ができたように思います。笑。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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