RYO SASAKI

日本の減点主義とそこからくる自己肯定感の低さを前にしてやろうと思うこと。

タナカ シンゴ

子供の頃から親の高い期待を背負って生きてきた、という人に時々出会うことがある。

その人たちは、今や客観視してそのことを自分で積極的に話せるようになっているから、私がそのことを知るに至るわけなのだが、中にはその名残とも言える見えない期待に未だに縛られていて、それにあがいているように見える人もいる。

子供の頃の影響は大きいものだとあらためて思う。

子供にとって、親の思いは概ね素晴らしく有難いものではあるのだが、この親の思いによって縛られて知らず知らずの内に自分らしさを抑えられることもしばしばあるものだ。

かくいう私も、私も親の期待を背負わされそうになったひとりである。

親にどこからか来た理想があって、その理想に対して常に足りてないことを指摘されて、それを埋め合わせる日々になっていた時期もあった。

いいところは当たり前だから褒めないし、褒められる側もできていることを褒められるとどうもこそばゆい。

これらが合わさったものが、いわゆる減点主義というものなのだろうと思う。

私の場合は、これに対する不満が可愛く爆発した反抗期があって自然に吐き出せて、その後は、親の不足だという指摘をだんだんと真に受けなくなっていったので、ある意味健康でいられたのかもしれない。

反抗期に限らず、この真に受けなくなる、という行為は人生にとって大切な要素だ。

自分のことはこのくらいにして、今回はこの減点主義について考えてみたい。

減点主義家族

以前に炭焼き職人とお話する機会があった。

なぜ炭焼き職人になったのかを伺うと、高校生の頃にもう既に炭焼きが好きで、これを仕事にしたい、と思ってそのまま、師匠の弟子になって炭焼きを続けて40歳代に至っているという。

天職というものが若くして見つかる、という人もいるんだなあ、と少し羨ましく思ったものだ。

その炭焼き職人が今の奥さんとお付き合いしていた頃に、初めて彼女の実家に招かれて食事をした時のこと。

彼女の実家の食卓は口数が少なく、お父さんはお母さんの作る料理に美味しいという言葉は一切なくて、「少し味が濃い」とかの指摘をしていたと言う。

後日彼が彼女に聞くと、彼女の実家の食卓はいつもそうで、お父さんから美味しいと言うような言葉を聞いたことがない。

もっとこうしなさい、と言うような、よく言えば改善点、見方によっては文句ばかりをいつも言っているらしい。

彼は、自分の実家と正反対であることに驚いた。

いわば、

彼女の実家は減点主義で、彼の実家は加点主義だったのだ。

加点主義はできないことを前提として、いいところを探す。

一方の減点主義はできることを前提として、悪いところを探す。

私の実家もまさにこの減点主義家族であったことを思い出した。

彼は、加点主義の家庭の幸せ感を彼女に伝えたという。

ちなみに、彼女のご両親は学校の先生をしていた。

私の偏見かもしれないが、先生はその職業柄、しっかりした人間であらないとならない、模範を示さねばならない、という思いが強くて、中途半端なところで妥協してはならないとして減点主義に向かいやすいように感じる。

教え子の改善点を見つけてそれを改善していくという管理官の仕事がメインなのだろうと思う。

減点主義は改善された未来に意識が向いていて、加点主義は現在の良い、素晴らしい、に意識が向いている、とも言える。

お母さん側から見ると良いところを褒められることを人のひとつの幸せとした時に、加点主義は今の幸せを感じることになり、減点主義は幸せを未来に先延ばしにされることになる。

いわゆるお預けである。

更に言えば、未来に改善された時には別の改善点に焦点が当たるから、先の改善がされたことで褒められる未来の幸せはやってこない、ということにもなってしまう。

お父さん側から見ても事象の改善を有難く思わずに、当たり前でいることは折角の幸せを感じるタイミングを、逃しているように見える。

これは本音を言わない日本人の傾向とも言えるのだが、私は何とかそれに抗って目の前に感じられる幸せは躊躇なく享受していきたいと思うのだった。

こんな風に私が感じるのは加齢とともに先送りする先がどこにもない、とわかってきたからかもしれない。

これを学習効果というのだろう。笑。

この炭焼き職人に減点主義家族を指摘された彼女は、後日両親に減点主義が良くないことを伝えたんだそうだ。

この勇気ある行動は私にとって意外だった。

日本では当たり前の減点主義

日本の減点主義はいろいろなところで指摘されている。

日本人の弱点が際立つ「100点満点のテスト」という大問題

という記事。

こちらでは、95点から100点に上げる労力はかなり大きい割にリーダーとしての素養に差があるわけではない、という。

また、日本の景気減退の理由が減点主義にあると言われてもいる。

・ミスを許容できない。

・ミスをすると出世できない。

・ミスを恐れて新しいことにチャレンジができない。

だから、新しい商品やサービスが生まれづらい。

えっ、まだ? なぜ日本企業の意思決定は「遅い」のか

では、日本人の意志決定が遅い理由も減点主義にあるとしているという。

更に、

日本の社会はなぜ、減点主義が蔓延しているのでしょうか?」 や「お役所仕事が最強の仕事術である

では、減点主義的なお役所仕事と加点主義的な芸術や起業といった創造性が必要なものは全く正反対のものであると書かれている。

なるほどと思う。

事業には、0→1(起業)という役割と1→10(拡大)という役割があるともいう。

事業には、起業が必要な局面と拡大が必要な局面があり、社員は得手不得手にかかわらず時々で異なる要求を会社から求められる。

起業は加点主義によって生まれやすく、拡大は減点主義によって支えられる。

そう考えると日本の一般的な減点主義教育は、みんなお役所に入るためにできているようにも感じるのだが・・・。

そう考えると自分もなかなか危うい道を歩いてきたものだと思う。

今ほど社会が精密でなくて遊びがあったから、私なんかは助かったんだと今更胸を撫でおろすようなところがある。

日本の部活も変わっていない

「日本の部活(BUKATSU)2019/3/20発売」

こちらの本では、アメリカと比較して日本の部活の特徴を以下の4つの主義で紹介している。

〇勝利至上主義

〇気持ち主義

    →我慢も教育

  公立小中学校のエアコン設置率  41.7% ( 2017年4月時点)

〇一途主義

 →入った部活は辞めない・掛け持ちしない・休まない(休みはサボり)

〇減点主義

 減点主義の例としては、

 ・サッカーのシュートで 

  外れてもシュートすることを褒めるアメリカ。

  入っても改善点を指摘する日本。

 ・シュートミスへの罰則は、ランニングや腕立て伏せなどの体罰的なものが課せられる。

 ※シュート練習で居残るなどの罰則でないと理にかなっていないのだが、このようなトンチンカン?の罰が課せられる。

 ・ミスのカウントなどで評価されるから、無難な動きしかしなくなり、チャレンジしなくなり、創造性も失われる。

部活で上記のようなことが行われていることは私にとって全く意外ではないのだが、自分達の頃からかなり経っているのに昔と何も変わってないことは、意外だった。

時は止まっているのか?

そして、部活が日本の縮図のように感じてくる。

ここに紹介されていることが日本のすべてではないことを願うのだが・・・。

こんな話も聞く。

最近の学校は、モンスターペアレントがいることもあるのか、怪我やトラブルを避けるために校則がかなり細かく設定されていて、生徒はがんじがらめのようなのだ。

校則が細かく厳しくなるとまた減点にひっかかりやすくなる。

なんとも生きづらいことになったものだ。

惰性による現状維持の居心地の良さと、悪いものをルールと罰で抑え込むといったスピーディーで合理的な改善策がーそれは良かれと思ってのことなのだがーまた別の問題を生み出すことになっているように思う。

減点主義日本でどう生きるのか?

減点主義が一番良くないのは、子供の自己肯定感が低く育つことだと思う。

自己肯定感の低さは大人になっても剥がれずに苦労する。

逆に加点主義の弊害に出会うこともある。

加点主義の家で育った人は、自分が物事を全然うまくできないのに、それを客観視することができずに、できていると思っていたりする。

よほど無条件に褒められてきたんだろう。

ここまで加点されると本人も人生のどこかで面食らわざるを得ないだろうけどこちらの方が比較的軽症のように思う。

日本人は減点主義のシステムの中で、器用さや真面目さをもって精巧な商品や精度の高いサービスを創り出してきて恩恵を受けてきたと思う。

電車の時間の正確さなどはわかりやすいひとつだろう。

日本社会が体に”毒”がたまりやすいワケ

こちらの記事には真面目過ぎるのは生きづらい、と言う主旨のものがある。

キッチリの精度を高めるための戦いは多くの苦痛を伴う。

そのように人間ができていないから。

日本は世界的に見ても、「不確実性の回避」をする文化の国のひとつだというのだが、なぜそうなったんだろうか?

私はその答えをどうしても地政学から理解したくなってしまう。

台風や地震や河川の氾濫など不確実性の影響がとにかく大きい日本だから、回避したい思いが強いのではないだろうか?

日本人に心配性が多いと聞くがこれも辻褄が合うように思う。

自然の脅威に協力して対処しないとならなかったから、一緒でないとならなくて出る杭が打たれるようになったとも聞く。

現代では、出る杭にならない道を選ぶのならば、同じ仕事の中で精度競争を強いられることになって苦痛が伴う。

日本には自己肯定感が低い人が多いとも言われている。

日本という社会は人の自己肯定感と引き換えにして減点主義で発展してきた面があると言える。

社会が豊かになるまではずっと減点主義による競り合いが続き、やっと加点主義について少し考えられるようになったと言えるのかもしれない。

あるいは、常に自然の恐怖を感じているから、減点主義によって自分の不足を急激に埋めた何者かにならないと生きていけないと思いこんでいるからかもしれない。

こういった環境が染み付いているから人の思考の変化はかなりゆっくりで、減点主義思考から加点主義思考にも簡単には変わらない。

一部の先行者が減点主義思考から加点主義思考から変わったとしても、全体のしくみが変わらないと社会が変わらないものでもある。

だから、人生100歳時代とは言えどもこの変化は間に合わないかもしれない。

ならばどうしたものか?

日本人の良さが苦痛にもなり、世の中は生きている間に変わりはしない、これらの都合よくはいかないところが、人生を難しく、また、面白くしているのだ、と、とりあえず自分を元気づけることにしよう。

そして、生きている間に変われないかもしれないが、知った以上は少し抗って行こう。

少しでも加点主義側の視点を加えて、自己肯定感の低さから目を背けることにしてみよう。笑。

根っこが変わらないにしても、加点主義を意識できればそれだけで加点としよう。

こうしようとすることには、私にある確信があって、それは加点主義者の方が元気で長生きなように自分に映っているからだ。

負荷をかけて苦痛を耐えて成し遂げるのも人生だし、長生きが人生の目的とは言えないとは思うもののそこを大切にしたいと思うのだ。

さて、こんなことをダラダラと考えながら、よくもまあ自分に都合のいいことを創り出すものだ、と自分に思う。

そうだ!良いところを見出す、良いように考える、これこそ加点主義なのだ!

このようにして何でもいいから人生に加点をしていこう。

UnsplashAnnie Sprattが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

書いている途中でも、自分の減点主義視点が現れてくることを感じました。

それでも少しずつ加点していこうと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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