RYO SASAKI

「全治2週間」の怪我が教えてくれた、ルールに服従しすぎない生き方。

田中 新吾

新年早々、不運なことに腕に小さめの擦り傷ができてしまった。

でも、この程度の怪我でさえも私にとっては久しぶりであることを思い出し、これまで怪我という怪我がなかったのはむしろ幸運なことだ、とあらためることにした。

この程度の傷ならば医者に行くほどではないと判断して放置することにしたが、どのくらいで治るのかが気になって調べてみると・・・

傷の具合から、全治2週間程度とみられる。

それから2週間後、傷口を確認した。

かさぶたは剥がれ、傷口は赤く残っているものの、乾いた状態になっている。

それと、少しばかり痒みを感じる。

「これはまだ治ってないじゃないか!?」

修復の遅さはやはり年齢によるものなのかな、とあきらめかけたのだが・・・。

よく調べてみると、どうやら私は、「全治◯◯」という言葉の意味を勘違いしていたことがわかった。

一般的には「全治」という漢字は「全て治る」という意味に見えるが、実際にはそうではない。

「全治〇〇」は、一般的な言葉のようで実は医学の専門用語であり、医者がもう特別な治療はせず、放置・安静でよいと判断した期間を指す。

つまり、私の傷はこの時点で医者の判断に従えば、もう特別な治療は不要だった。

だから、この時点では放置する以外の選択肢はない、ということになる。

結果として、全治2週間の見立ては間違いなかった。

しかし、治り切るには、さらに時間が必要なようだ。

私は、この年まで全治という言葉の意味を知らずに生きてきたのだった。

この話は、単に常識知らず、と言われて終わり、そんなところなのだが、これまでそのことを知る必要に迫られる怪我に遭わなかったということで、これもまた幸運と言えるのだろう。

私は、これまで見聞きしてきた「全治◯◯」に対して、どこか短いなあ、と感じたことはあったのだが、その理由を今にしてやっと理解することになった。

このなんてことのない話に、私はまた妙に引っかかって・・・。

そこから連想ゲームがいつものどおりに始まってしまった。

全治という言葉

「全治」という漢字を使うのならばそれは、すべて治る、という意味合いであるべきだろ?

それから、今回の私の傷は、最初から医者に行かずに放置しているわけだから、そもそも医者が放置するタイミングは関係ないし・・・。

などといろんな不満が湧き出てくる。

英語を調べてみると、

complete recovery

これが症状・機能・健康状態が医学的に元の状態に戻ることで、

これに対して日本語の「全治」に当たる表現は、

no further treatment is required

これ以上の治療は不要

で、ちゃんと分けられている。

また、日本語にも同じ単語が、専門用語、そして日常用語として使われているが、それぞれを別の意味で使い分けるケースもたくさんある。

例えば、「善意」という言葉の意味は、

・日常用語 → 親切・好意

・法律用語 → 事情を知らないこと

(※悪意→日常は意地悪、法律では事情を知っていること

となる。

ならば「全治」だって日常と専門でそれぞれ別の意味合いを持たせてもいいではないか?

ここまで考えたところで、「完治」という言葉を思い出した。

「全治」と「完治」、漢字であるから余計にややこしい。

私に必要なのは完治1ヶ月2週間というような見立てだったのだ。

(※こんな言葉はありません)

普通という言葉

また別の対義語が、同様のこととして思い浮かぶ。

「普通」↔「異常」

これもよく見るとおかしな対比だ。

「普通」は、ある状態そのものを表す言葉ではなく、何かと比べるための基準(物差し)にすぎない。

それなのに、その物差しと異常という状態を同列に扱ってしまっている。

そして、このような捉え方は、普通という言葉を物差しから規範(守るべきもの)へと変質させる強い力を持つことになった。

一方、「異常」という言葉もその漢字からは、いつもとは異なる、という意味合いでしかないのだが、

異常↔正常を対比させたことによって、異常に危険・排除対象・修正すべき状態などを連想させることになり、

・普通=正しい

・異常=悪い(問題・欠陥)

という価値判断が自動的に付与されることになった。

更に、どうやらこのことは近代社会が人を揃えるために作り上げた思考の枠組みだったらしいのだ。

普通を正しいものとすることで、みんなを普通に揃えてしまえばコントロールはしやすいというわけだ。

ーーーーーー

さて、ここまでで思うことは、上記の例に限らず、言葉というものは論理的に整理され尽くしたものではなくて、ある人がある時ひょんなことから使いたい出して、それが繰り返し使われることによって徐々に根付いてきた、複雑なものであるということ。

そして、言葉に持たせる意味(観念)を創って誘導することができるということ。

これらのことを、全治2週間の怪我によってあらためて気づかされたのだった。

決められたルールを疑う

さて、そんな風にして根付いてきた言葉にどう向き合えばいいのか?

これは、慣習、ルールにどう向き合えばいいのか?という問いに一般化できるように思う。

言葉も言ってしまえば、ただの決まりごとでしかないのだから。

先ほどの例に対して、私はどうしたいのか?

それは、完治2週間という言葉を使いたいということ。

(※全治2週間を文字通り完治するまでの期間という意味で使うでもいいのですが。)

そして、「普通」↔「異常」という対比を一般的な認識で捉えることだけに引っ張られないようにしたい。

この対比にはそれ以外に、以下のような別の意味を含んでいることを感じるのだ。

平均的 ↔ 個性的

凡庸 ↔ 非凡

ポピュラー↔マイナー

「普通」は正しいだけではなく、平均的であり、凡庸でありポピュラーであって、

「異常」は悪いだけではなく、個性的であり、非凡であり、マイナーでもあるのだ。

これらを合わせてしっかり認識しておきたい。

全治という決め事に束縛されたくないし、「普通」↔「異常」の対比のイメージに固定されたくない、閉じ込められたくないのだ。

これが2つの例に共通する思いになる。

ルールは従うべきものではあるが、ルールは単に決められたものであり、ルールは完全ではないし、ルールは変わって行くものである。

そして、ルールに従うということは、その完全でない、変わっていくものに遵守して、更には服従するということになる。

一般的に言われるのは、服従によって次のものが失われる、ということだ。

・自分自身の選択の自由:自分で決める代わりに、指示や規則に従うしかなくなる。

・判断する主体性:何を選ぶか、どう動くかを考える力が鈍る。

・思考の創造性:新しい方法や可能性を試す機会を自ら手放してしまう。

つまり、服従とは、考えなくても済む代わりに、自分の力を活かす機会を失うことなのだ。

ならば、言語への服従も多かれ少なかれ、これらの要素を含んでいると見るべきだ。

遵守すべきルールがあると、人はそれに服従するようになる。

そうすると、ルールで決まっていること以外を自分で考えなくなり、別の選択肢も選べなくなる。

ましてや、新しいルールを創るなんてことは頭に浮かびもしないのだ。

決められたルールと距離を取る

今回は、言葉という遵守すべきルールのことを疑ってきたのだが、ではルールにどのように向き合えばいいのだろうか?

遵守はとりあえずする、その上でルールをいい加減に、柔らかく捉える。

こんな表現になるのかもしれない。
コリー・テン・ブーン(キリスト教の作家・ホロコースト生存者)のこんな言葉がある。

すべてを手の中で軽く握りなさい。そうしないと、神があなたの指をこじ開けるときに痛むだろう。

※ぎゅっと握りしめすぎると可能性や恵みが入らなくなる、また、失う痛みを伴う、という意味になります。

ルールを絶対のものとして、ガチガチに握りしめると、他のものが入る余地がない。

そしてまた、仏教で本質を捉えようとする時のように、リラックスして半眼でボヤッと眺めるような感覚と言ったらいいのかもしれない。

決められたルールの正解を丸暗記して答えるクイズの世界では、思考の自由は完全に封じられてしまうのだから、そんな風にアプローチするのは危険極まりない笑。

かろうじて遵守してその先の服従に埋もれてしまわないようにする。

そうすることで、自由・主体性・創造性を失わないようにしたいものだ。

それは、ルールを覚えて遵守することが「普通」だとするならば、それと少し距離をとってその反対の「異常」に向かって進むということ。

それは「マイナー」な方に向かうことであり、「個性的」な方に向かうことであり、「非凡」な方に向かうことなのだ。

そうだ!

私が「凡庸」なのは、もともと才能を持ってないわけではない。

「普通」(平均的・ポピュラー)であることそのものではなく、普通でいようとし続けたことによるものなのだ。

都合の良い抜け道を創造することができた。汗笑。

最後に、「服従」の対義語について書き残しておきたい。

まずは、現在の一般的なルール上の対義語。  

●現在のルール  

服従↔反抗(抵抗)  

そして、私が創造した複数の対義語。  

●私の創造  

服従↔自由  

服従↔主体性  

服従↔創造性  

服従↔尊厳  

つまり、服従の対義語とは、私にとって自由であり、主体性であり、創造性であり、尊厳でもあるのだ。

現在のルールに縛られず、「服従」を意味の束として捉え、新しい対義語を自分の中に刻む。

これも、自由への歩みのひとつなのだ。

UnsplashDiana Polekhinaが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

怪我はしたものの、そのお陰でここまで書けたので、まあ怪我の功名ということにしましょうかね。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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