田中 新吾

よく噛む。

タナカ シンゴ

先日、こんなツイートをしてみました。

今回は、このツイートの補足をしておこうと思います。

玄米ご飯でよく噛む癖がついてきた

最近、米を食べるなら「玄米」というのが習慣になってきました。

食べ始めのキッカケは、白米も食べるよりもダイエット向きということを知ったから。

参照:玄米食がよい理由・玄米の健康パワー

これに加えて、玄米を食べることで噛むことを習慣化できるというメリットがあることを知ったのもあります。

玄米ご飯を食べるには、白米のご飯を食べることに比べるとよく噛まないと飲み込めにくいので、自然に噛む回数が増えていきます。

たくさん噛むことによって唾液がたくさんでてくるのです。
唾液がたくさん出ることにより口の中の免疫力が高まり、雑菌が増えにくくなり風邪がひきにくくなります。

参照:ふくい味覚倶楽部 玄米の効果

よく噛まないと飲み込みにくいので本当によく噛むようになったと思います。

僕はそもそも噛む回数が少なく、噛むことなんて全く意識してこなかったのでこの変化は結構衝撃的です。

玄米でよく噛むようになったからだと思いますが、外食時もよく噛むようになりました。

こんな感じでまだはじめて一ヶ月くらいなんですが、よく噛む癖がついてきたのを実感しています。

現代には噛まなくても美味しいが溢れている

よく噛むようになってきたからこそ感じるようになったことがあります。

それは「現代には噛まなくても美味しいが溢れている」ということ。

「現代の美味しい」の多くは砂糖、油、化学調味料を加えることで生み出されていると以前聞いたことがあったのですが、これがまさに「噛まなくても美味しい」だと思ったんです。

現代の美味しい=噛まなくても美味しい

そして、この視点をもって考えると現代人は噛まなくても美味しいに囲まれ、噛まなくても美味しいばかりを食べているのがよく分かります。

当然のことながら、僕もそのうちの一人。

噛まなくても美味しいによって咀嚼をしなくなった

噛まなくても美味しいのおかげで、食が豊かになったのは間違いないでしょう。

でも、それが社会に定着したことで「咀嚼しない・咀嚼できない」ひとが増えてしまったというのもあると思いました。

ここにハッキリとした因果があるかは知らないんですが、ヒトが環境に適応する動物だということを考えると「食べ物を噛まなくなったから咀嚼しなくなった」というのは大きく的が外れているようには思えません。

それに日頃、見聞きするニュースも咀嚼不足によるものを多く感じます。

社会の中では本来ひとりひとりが様々な「解釈」をもって生きていくものだと思うんですが、咀嚼ができないので解釈が生まれません。

咀嚼しない・咀嚼できないひとが目指すのはただ一つ。

「解決」という解を決めることです。

解釈のできない解を決めたもの同士がぶつかればそりゃケンカにもなるよなあと。

個人の仮説の域は出ませんが、最近はこんなことを考えています。

よく噛む

「じゃあこれからどうしていこうか?」と考えるのですが、

やっぱり「よく噛む」ことに尽きるというのが僕の結論です。

なんとなくですが、これから今よりも一層「よく噛む」ことの価値が高まってくるような気もするので、淡々とよく噛むことをしていきたいなと。

僕が目指したいのは意識して「よく噛む」のではなく、無意識なのに「よく噛んでいる」という状態。簡単に言えば、当たり前のようによく噛んでいるってことです。

こうなるためには日頃からよく噛む必要があると思ったので、やっぱり食習慣を使うのが手っとり早いという結論に至りました。

ということで引き続き玄米を使ってよく噛むこと習慣化していくことをやっていきたい。

更に、よく噛むから美味しい。噛めば噛むほど美味しい。

こういう料理をなるべく多く食べるようにしていきたいと考えています。

こんなことを続けていけば、いつの間にか物事も今よりもよく噛む(咀嚼できる)ようになっているんじゃないか。こんな風に思うんです。

さいごに

この世の中のひとは解決型と解釈型に分かれる。

昔、知人の平山さん(@t_hirayama0227)と飲んだ時に盛り上がったことなんですが、まったく別の文脈でその時も「解釈型がこれからは重要ですよね」という話になったのを記憶しています。

これが、今回の内容と僕の中で強結合しまして、より一層解釈型の重要性を感じるようになった次第です。

打った点はどこで繋がるか本当に分からないですね。

今日の視点が何かの参考になったら幸いです。

それでは今日はこの辺で。

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